春の訪れ
「ユキちゃん! なんと私、マスターとお付き合いできる事になったの!」
うん、知ってる。
でもそんな事を伝えたら、私が二人の会話を盗み聞きしてた事がばれてしまう。
お互いのベッドに腰掛けて向かい合うような形になりながら、私は驚いてみせる。
「ええええ! ほんとですか!? おめでとうございます!」
……ちょっとわざとらしかったかな?
けれど、浮かれているイライザさんは、私の多少不自然で大袈裟な演技にも気づかなかったみたいだ。
「ユキちゃんのおかげよ。本当にありがとう!」
イライザさんは身を乗り出して私に抱きついてきた。その柔らかい身体でぎゅっと抱きしめながら、私の耳と髪をぐしゃぐしゃと撫でてくるが、私はその言葉に戸惑う。
「え? え? 私、何かしましたっけ?」
「ほら『男を掴むなら胃袋を掴め』って言って、一緒にお菓子を考えてくれたじゃない。あのお菓子をマスターの好みに合うようにアレンジして渡しながら告白したのよ。それが功を奏したみたいなの」
ああ、あの林檎ジャムのあれか。うん、知ってる。
でもやっぱり会話を聞いていたなんて言えないので
「そんな方法で!? さすがイライザさん! 私もいつか参考にさせてもらいますね!」
などと、ひたすらに誤魔化す。
しかし二人がくっついて本当に良かった。幸せそうなイライザさんの様子に、私も胸がほわりと暖かくなるような気がする。と、同時にちょっと羨ましくもなってきた。
あーあ、どこかにかっこよくて黒髪で冷静で、どんな問題事が起こっても『想定の範囲内です』とか言いながら眼鏡を指で押し上げて解決するような人いないかなあ。ついでに会話のレベルも合えば完璧なんだけど……。
そうしてイライザさんとマスターに春が訪れたように、実際の季節にも春がはっきりとその姿を現し始めた。
残雪は完全に消え、陽射しもすっかり暖かい。木々には元の世界でも見た梅のような桜のような花が咲いていて、道端でもタンポポのような花が花弁を揺らす。
そして、そして、ついに花咲きさんに頼んでいたメニュー表も完成したのだ!
印刷店に頼んでリトグラフで作成されたそれは、花咲きさんの描いた水彩調のタッチも残しながら、その脇には可愛らしい文字でメニュー名がレタリングで施されていた。
「お店の従業員の間でも可愛いって評判で。これなら女性やお子様のお客様も喜んでくれるに違いありません! マスターも感心してましたよ。花咲きさん、すごい!」
「どうやら満足して貰えたようだな」
にこりと笑う花咲きさんの言葉に、私は何度も頷く。
そこでふと思い出した。
「そういえば、イラスト一枚につき、モデル一回の予定でしたよね。こうしてメニュー表もできた事だし、あの約束は終了という事になるんでしょうか?」
「何を言っているんだお前は。我輩の記憶では、あと30回以上は残っているぞ」
「え?」
なんで? メニュー表には10と少しのイラストが載っているだけなのに?
戸惑っている私に、花咲きさんは得意げな顔をする。
「イラスト一枚につきモデル一回という約束だったが、『完成品の』イラスト一枚とは言っていない。試作品を含めての契約だろう?」
「えっ? そんな、普通は完成品のことを指すと思うじゃないですか!」
「慣れないチョークアートを徹夜で何十枚も描かされた身にもなってみろ。条件が釣り合わない」
何十枚って……それは花咲きさんが勝手に描いたんじゃ……。
とはいえ、花咲きさんは色々なタッチの絵をサンプルとして提出してくれたのは事実だし、チョークアート初挑戦にも関わらず、納得できるまで描き続けてくれたのも事実だ。それを思うと申し訳ない気持ちにもなってくる。
「それに我輩はまだ人体を描き足りないのだ」
もしかしてそれが本音で、そのために無理矢理な理由をひねり出してるとか……?
「でも、私、花咲きさん曰く『まな板』ですよ。描いててつまらないんじゃないですか?」
「まな板にはまな板なりの良さがあると気づいた」
まな板は否定しないんだな……。
「……わかりました。私も覚悟を決めました。30枚でも40枚でもどうぞ描いてください」
元はと言えば私が無理なお願いをした事が原因なのだ。けれど、あのモデルをしている時の退屈さや窮屈さを思い出しながら若干憂鬱な気持ちで答えてから、大事なことを思い出した。
「そういえば花咲きさん。あのチョークアートが大好評で、他店の方からも、ぜひあんな感じの看板を頼みたいから制作者を教えて欲しいって言われたんですけど……花咲きさんの事を教えてしまっても大丈夫ですか?」
もしかしたら花咲きさんはチョークアートが苦手かもしれないし、勝手に教えてトラブルに発展しても困るので、一応はお伺いを立ててみる。
「差し出がましいようですが、他のお仕事にも繋がる良い機会だと思うんですけど」
「ほう。あれはそんなに評判がいいのか」
「それはもう。あれに釣られて入店してくる親子連れも多いです」
花咲きさんは顎に手を当てると、考えるようなそぶりを見せる。
「はて、どうしたものかな……黒猫娘、お前はどう思っているのだ? 正直な意見を聞かせてくれ」
「わ、私ですか? 花咲きさんのお仕事関連なのになんで……?」
「チョークアートを我輩に教えてくれたのはお前だからな。一応義理がある。あの技法を使った看板が他店にも使われたらどうなるか……わかるだろう?」
私が危惧していた事を、花咲きさんは言い当ててしまった。
ここで花咲きさんの背中を押すのは簡単だ。これを機に彼が有名になることにも貢献できるかもしれない。
でも――
「……正直、私は引き受けて欲しくありません。他店にもチョークアートの看板が溢れたら、うちのお店の看板が目立たなくなってしまいます。あれはこの国にひとつしかない珍しくて魅力的なものだからこそ集客力もあるんだろうし」
「さすがに言いすぎだ。だが、我輩も概ね同じような意見だ。お前の店の事を考えれば、軽率に引き受けるべきではない。おそらくこの国であの技法を知っているのは、今のところは我輩とお前だけだろうからな」
「でも、お仕事を引き受けるかどうかは花咲きさん次第ですよ。私の言うことなんて雑音だと思ってください」
彼の仕事について、私がどうこう言える立場じゃないのだから。
「それならチョークアート希望者には断っておいてくれ。あれを描いた画家はもう引退したとかなんとか誤魔化して」
「え? 良いんですか? せっかくのお仕事をそんな簡単に断って……」
「お前には空腹で倒れかけていたところを助けて貰った恩があるしな。そのお前が渋るのならやめておこう。この国に一枚しか存在しないチョークアートを作成した幻の画家として、少しは話題になるのも悪くない」
そ、そこまでしなくても……と思ったが、先ほどの私の意見が正直なものであるのも確かである。
それを踏まえて花咲きさんがそう言ってくれるのなら、これ以上しつこくするのもためらわれた。
それにしても花咲きさんて、結構義理堅いなあ……。
今のうちに恩を売っておこうかな。
「あの、花咲きさん、今日は何か食べたいものとかあります? 簡単なものなら作りますよ」
「カツサンドだ」
「…………」
思わず沈黙してしまう。
どうも花咲きさんはカツサンドにどハマりしてしまったようだ。毎回そればかりリクエストしてくる。
「それじゃあ、モデルの仕事の後にでも材料を買ってきて――」
「いや、今すぐ作ってくれ。その後で行きたい場所がある。お前も来るんだ」
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