ちょっとした取引き

 カフェの木製の扉を押し開けると、その上部に括り付けられたベルが鳴り、人の出入りを知らせた。

 私は素早く辺りを見回す。すると、お店の奥の席に目的の人物はいた。湯気の立ち上るカップの傍で、暇つぶしでもするかのように紙に何かを描きながら。


「すみません、遅れてしまって……!」


 慌てて駆け寄って謝ると、相手の男性――花咲きさんは気づいたように顔を上げた。頭の白い花は、今日も咲いたばかりのように瑞々しい。


「待ちくたびれたぞ。罰としてここの会計はお前持ちだ」

「えっ!? そ、そんな……」


 私はテーブルの上に目を走らせる。今の所は花咲きさんの頼んだらしき飲み物のカップがひとつ。この程度ならご馳走できるが、これから大量に注文される可能性もある。ここは私が何も頼まず我慢するしか無いのか。


「冗談だ。そんなに慌てなくてもいい」


 内心焦っていた私に対し、花咲きさんはからかうような笑みを浮かべた。その言葉に安堵しながら私はホットチョコレートを注文する。

 どうもこの人は雰囲気が掴めない。偉そうな口調の割に表情は優しく、中性的な見た目のせいもあって、なんだかちぐはぐな印象を受けるのだ。


「それより黒猫娘、相談というのは?」

 

 温かい飲み物で一息ついたところで、花咲きさんは鉛筆を置くと、早速要件について促す。

 

「それなんですけど……イラストを描いてもらえませんか? うちのお店のメニュー表に載せるための料理のイラストを」


 メニュー表に料理のイラストを添えるという案を捻り出してから、私が真っ先に思い浮かんだのは、画家であるというこの花咲きさん。

 今日はお昼にお店を訪れた彼を引き止めて、相談事があるからと、私の休憩時間に合わせてこのカフェに来てくれるようお願いしたのだ。肝心の私が遅刻してしまったが。


 私の話を聞いた花咲きさんは


「それはつまり、我輩への仕事の依頼なのか?」


 と問う。


「ええと、その、そういう事になるんですかね……? でも、あの、実は大きな問題があって……」

「問題?」


 少し躊躇った後、私は思い切って口にする。


「ええ、つまりその、金銭的な問題で……」

「……予算のほどは?」

「……ゼロです」

「……すまないがもう一度言ってもらえないか? 今、到底信じがたい言葉を耳にしたような気がするのだが」

「だから、その、お支払いできるお金がまったく無いんです」


 その言葉に花咲きさんは額に手を当てて何事か考えているようだったが、やがて彼にしては厳しい表情でゆっくりと口を開いた。

 

「つまり、我輩にタダ働きをしろと?」

「……金銭的な意味ではそうなりますね」

「笑えない冗談だ。人を馬鹿にするのもいい加減にしてくれ。これ以上お前の甘い考えに付き合うほど我輩はお人よしでは無い。帰らせてもらおう」


 確かにそう思われても仕方がない。それくらい私の言っていることは無茶苦茶だ。

 花咲きさんが腰を浮かせたので、私は慌てて引き止める。


「ま、待ってください! 最後まで話を聞いてください! お金の問題はどうしようもないですけど、代わりに別のものを提供するというのはどうでしょう!?」

「別のもの?」

「例えば、イラスト1枚につき……」

「1枚につき?」

「デート、1回」

「やはり帰る」

「あ、冗談! 冗談ですよぉ! 今のは言葉のあやっていうか! だからお願いします! 帰らないで!」

 

 おかしい。その昔大ヒットしたというゲームでは、ヒロインがそんなセリフを言いながら頼みごとをすると、主人公は快く引き受けてくれたのに。私のヒロイン力が足りないというのか。

 花咲きさんは先ほどまでテーブルの上で絵を描くために使っていた紙やら鉛筆を片付けはじめた。まずい。本当に帰ろうとしている。


「わ、わかりました! それじゃあ私の体でお支払いします!」

「……は?」


 花咲きさんは手を止めあっけにとられていたようだったが、すぐに真顔になると声をひそめる。


「まさかとは思うが……お前は娼婦の真似事でもするつもりなのか?」


 娼婦? 一体なんの事かと思ったが、すぐにその意味に気づいた。どうやら言葉が足りなかったせいであらぬ誤解を与えてしまったみたいだ。そんな破廉恥な事とてもできない! 私は慌てて首を振る。


「ち、ちがっ、違います! ええと、そうじゃなくて……お金はご用意できませんが、その代わりに僭越ながら私が絵のモデルを務めるという条件で引き受けて頂けませんでしょうか? ちゃんとした絵のモデルじゃなくても、デッサンとか、クロッキーとか、なんのモデルでも構いませんから」

「なんだと?」


 以前に花咲きさんが言っていた。「人体を描いてみたいがなかなか難しい」というような事を。私はその原因が金銭的な面にあるのではないかと推測したのだ。

 日本にいた頃に聞いたことがある。絵のモデルの時給は約1万円程だと。もう一度言う。日給ではない。時給である。もちろんそれはヌードモデルの話で、着衣モデルの場合はもう少し金額も下がるであろう。けれど、それがこの世界でも日本と同じくらいの相場だとしたら結構な額だ。


 それに花咲きさんは画家として「いずれ偉大な功績を上げる予定」だとも言っていた。それって、今はまだ無名……とまではいかないが、それに近い立場なのでは?

 そんな人物が高額なモデルを何時間も雇う余裕があるだろうか? 無いからこそ「描いてみたい」と言ったのでは? 仕事の報酬とはいえ、以前から描きたいと思っていた人体を描くチャンスが訪れて、それに乗っからないという可能性は低いのでは? とも考えたのだ。


 私の提案を聞いた花咲きさんは、いつもとは打って変わってモチーフを吟味するような真剣な表情で、あるいはじろじろと値踏みするようにこちらを眺め回す。


「確かに前々から人体を思い切り描いてみたいとは思っていたが……」

「それならちょうどいいじゃないですか! あ、でもヌードは禁止ですよ。着衣でお願いします。あと、私もそういうのに慣れていないので、まずは着座のポーズからでお願いします」


 花咲きさんは軽くため息を漏らした後で、再度私を一瞥する。


「……我輩が描きたい女性と言うのは、もっとこう、出るところが出ていて引っ込むところが引っ込んでいる、そんないかにも女性的な肉体を持つ人物なのだ。凹凸があるからこそ描いていて面白い。男の体にしたってそうだ。筋肉質で逞しい肉体が理想だ。生憎とまな板には興味がない」


 ま、まな板!? それって私のこと!? 

 確かに外見的に肉体年齢の低い今の私は、凹凸のある大人の女性とは言いがたい体つきをしているが……それにしても失礼だな。これから先素晴らしく急成長する逸材かもしれないというのに。

 一瞬イラっとしたが、それを顔に出さないようにかろうじて口角を持ち上げる。花咲きさんにはなんとしても絵を描いてもらわなければならないのだから。


「でも、色々なモチーフを描くことで画家としての技量も向上するんじゃないでしょうか? 確かに私は今はまだまな板かもしれませんけど、それでも人体には変わりないんですよ。なにかしら得るものはあるのではないかと」


 などと、芸術もよくわからないのに言ってみる。

 けれど、意外にも花咲きさんはその言葉に心が揺れたのか、再び難しい表情で考える様子を見せる。

 これはもう少し押してみれば行けるのでは……?


「お願いします! 実は私、行き倒れになっていたところをあのお店のマスターに助けてもらって……だから少しでも恩返しがしたいんです! そのために花咲きさんのイラストが必要なんです! どうか引き受けてもらえませんか!? 私もモデル以外でもできる限りの事はさせていただきますので……!」


 最終手段。情に訴える作戦に出ることにした。

 頭を下げた私の頭上から、暫くして花咲きさんの声が降ってくる。

 

「お前の事情はわかったが……その『花咲きさん』というのはなんなのだ? まさか我輩の事なのか?」


 しまった。つい白熱してあだ名で呼んでしまった。私は慌てて目をそらす。


「ええと、その、お客様のお名前を存じ上げないので、失礼だとは思いながらも心の中でそう呼ばせて頂いていました。それがつい口に出てしまって……すみません……」


 私の言い訳に、花咲きさんはなぜかくすりと笑った。


「なかなか面白い呼び名ではないか。気に入ったぞ」

「え?」


 意外だ。てっきり気分を害してしまうのではないかと思ったのに。


「いいだろう黒猫娘。要望通り仕事を引き受けよう。我輩も空腹で倒れかけていたところをお前に助けてもらった恩があるしな。それに、先ほどお前が言ったように、まな板も人体に変わりない。満足するまで描かせてもらうぞ」

「ほ、ほんとですか!? ありがとうございます!」


 そういうわけで、料理のイラストを描いてもらう代わりに、週に一度、私のお休みの日には、花咲きさんのアトリエにお邪魔して、何時間かモデルを務める事が決定した。


 その後で私はおそるおそる尋ねる。


「ええと、今更ですが、花咲きさんのお名前を教えて頂けませんか? これからもあだ名で呼び続けるのも失礼かと……」

「秘密だ」

「え?」

「そのほうが面白いではないか。我輩だってお前のことを黒猫娘と呼んでいる。それで対等だ。文句はあるか?」


 私は少し考える。確かに私の中ではこの人の名前は「花咲きさん」で定着してしまっている。今更本名に切り替えるというのも違和感がある。それならこのままでも構わないのでは?


「いえ、文句はありません」


 そういうわけで、私と花咲きさんは、お互いの本名を知らないという少し奇妙な関係のまま契約を結んだ。


「あの、よかったら『男前花咲きさん』っていう呼び方はどうでしょう?」

「余計な事はしなくていい」

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