背景


 ここで、この作品が収められている聖アントニウス会修道院付属の施療院、及び当時の時代背景にも触れておこう。


 施療院は言うに及ばず病の人々が集まる場所であるが、その場所にこのような祭壇画、つまり体が緑がかり表面には吹き出物を湛えた、今まさに死に向かうキリストが掲げられていたのにはどのような理由があるのか。……下手すれば不謹慎極まりない絵である。現代日本であれば倫理的観点から様々な文句をつけられ、即時に撤去されてしまうだろう。


 だが、この絵が描かれたのはルネサンス期のヨーロッパ、それもペストなどの病が蔓延っていた時代のことである(余談ではあるが、グリューネヴァルトもペストに罹患して死亡している)。


 そのような背景を鑑みると、このキリストの状態は「死に向かう」以上の意味を含んでいるように見えてくる。つまり施療院を訪れる人々の病を一身に受け負い犠牲となる、あるいは病の人々と同様に苦しみ喘ぐキリストである。患者たちは、この絵に自身と同じ苦しみを個別に見出し、キリストと自らを同一化したのではないだろうか。


『イーゼンハイム祭壇画』は、一枚のみで掲げられていた作品ではない。今回拙い描写を試みた、キリスト架刑図を中央に持つ第一面の他、第二面と第三面が存在する。第一面の主役は「架刑図」パネルであるが、第二面を開けるとそこに描かれているのは左から「受胎告知」「キリスト降誕」そして「キリストの復活」である。


 第一面を見た人々がキリストと自らの苦しみを同一視していたとするならば、第二面が開かれた時の安堵はどれほどのものであったであろうか。あれほど見込みがないほどに痛めつけられ虐げられたキリストの復活は、彼らにどれほどの希望を与えたであろうか。


 ……以上は推測でしかないものの、あの陰惨な第一面を開いた時に現れる、希望に満ちた第二面を無視するのはあまりにも乱暴である。また、このような時代背景からグリューネヴァルトがこの絵を描いたという説も考えられるところだ。


 しかし、正直に告白すると、私はそのような背景にはあまり興味がない。


 私にとって重要なのは、これほどまでにみすぼらしく描かれているキリストが、にも関わらず各々の主観の中心となってこの絵を纏め上げていることだ。


 これは民衆が全体主義的にキリストの磔刑を嘆いているという意味では、勿論ない。前章でも述べた通り、「己の個人的体験」として、各々が反応を呈しているという意味である。


 多くの場合、宗教とは「共同体のなかへ神秘的に呑みこまれてしまうのにむいたごちゃまぜにすぎない(トーマス・マン『魔の山』262頁)」。神という形而上学的なシンボルでもって人々を纏め、その教義によってより良い社会を目指そうとする、一種の方法論であるとすら言える。


 その中にあって絶対者はあくまでシンボルであり人工物だ。その聖性も、作られた聖性でしかない。だがこの絵のキリストはどうだろうか――シンボルであるためにはあまりにも悲惨で、しかし構図の中心である。


 彼はこの絵において、。神秘的な有耶無耶の中に民衆を誘い込むのではなく、各々の主観を一手に引き受け纏め上げている。それは最早、全体主義的なイデオロギーとは全く無縁な、存在そのものから滲み出る聖性の顕現である。


 私は「背景にはあまり興味がない」と述べたが、この点に関して解釈される限りにおいて――すなわち、患者が各々の苦しみを個人的に投影する限りにおいて――完全に別意見である。


 この絵画の中でキリストは、破壊的なまでに貶められながらも中心である。それは世界を統率するという性質によって極限まで高め上げられた、人工物ではない、本来の性質を保った聖性に由来するからに他ならない。

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