黎明くんと黄昏ちゃん

七星

第1話 婚約指輪



 『カレンダー』なるものの中で、水曜日の文字が笑っているような気がした。



 水曜日なのに、水という字がつきながら空は灰色のまま涙の一滴もこぼさない。

 縁側でゆらゆらと体を揺らしていると、唐突にひょいっと私の家の塀を乗り越えて入ってきた影があった。

 いやいや、猫じゃないんだから。

 呆れる私をよそに、彼はからりと下駄を響かせ、シニカルに笑って私の目の前までやってくる。


「何やってんだ、黄昏たそがれちゃん?」

「それはこっちのセリフだよ、黎明れいめいくん。なんでそんなとこから入ってくるの」

「真っ当に訪ねて入れてくれると思うか?」

「……まあ、思わないけど」


 それ見たことかと彼は笑う。私は糾弾を諦めた。


「で、何やってんだよ。魂抜けたか?」

「抜けてませんー。雨が降るのを待ってるの」

「これがあるのにか?」


 私の脇に捨てられるようにして置いてある洗濯物の山を指さす。私はゆるりと笑った。


「雨が降ったら干さなくていいかなあって」

「面倒くさがり。つーかそもそもそれ、黄昏ちゃんの仕事じゃねえだろ」

「え、やってくれるの?」

「やらねえよ」


 面倒だ、と呟いた彼は私と同じように空を眺めはじめる。面倒くさがりって言ったくせにとちょっと腹が立った。

 女中に忘れ去られた洗濯物が寂しく風にさらされていた。


「ねえねえ黎明くん」

「なんだよ黄昏ちゃん」

「私ねえ、婚約したことあるんだ」


 へえ、と呟く声が耳朶じだを震わせた。


「どこで? 誰と? いつ?」

「聞くねえ。三丁目の『エトランゼ』でだよ。店主さんに勧められた指輪をはめてみたら、僕の婚約者になるはずの人にしか嵌められない指輪ですって」

「ふうん?」

「まあ、気づいたら布団の上だったわけだけど」

「夢かよ」

「夢にされたの」


 あのとき嵌めたままになってしまった指輪を見せつけた。『婚約指輪』とか言うらしい。

 あの店主さんは魔法使いなんだから、と私は呟いた。


「私が本当ですかって聞いたら冗談ですよって言われてね。ぱちんって指を鳴らされて、そこで目が覚めたの」

「力の使い所、間違ってるな」

「そうそう、からかわれちゃったみたい」


 くすくすと笑う。あそこに住んでいる魔法使いは、都合が悪くなるとすぐに客を夢の世界へ誘ってしまうのだ。


「おかげで指輪を持ってきちゃったの。返すべきかなあ?」

「……なあ黄昏ちゃん」


 彼が抱えた膝に頭をつけて、にんまりと笑って私を見た。空中に手をかざしていた私はきょとりと首をかしげた。

 彼の白磁のような指が、陽炎のように揺らめいて私のほうに伸ばされた。


「そのもう片方、実は俺のなんだって言ったら、どうする?」

「…………あは」


 彼の薬指に、燦然さんぜんと煌めく指輪が一つ。お揃いの、雫を横に倒してぐるりと一周させたような銀細工。間にはめ込まれた宝石は彼が水晶で私が黒曜。


 伸ばした手が重なる。


「最高だね」

「だろ?」


 ぽつんと一粒、雨が落ちた。

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