6.

 針地獄に釜茹で、血の池地獄。

 大焦熱、焦熱、大叫喚、叫喚、衆合、黒縄、等活、無間で八大地獄。

 メジャーなものから名前も分からない見たことのないようなものまでオンパレードである。

 その中を様々な異形のものがうごめいている。正直眼下の世界に降り立ちたくはないなと俺は思った。この世界から抜け出したいなら行かなければならないのだろうが。

 しかし、そう身構えた俺の決心に対して二人は下に向かう道を避け、脇の抜け道みたいな所を指し示した。


「こっち」

「こっち」


 え、そっちに行くのか。

 見れば道は岩場であるが俺の向かおうとしていた所より安全そうな小道である。


「そっちの道でいいのか」


 俺が聞けば二人はまたしても頷いた。


「こっちであの方は貴方を待っている」

「ここに来た時からずっと待っている」

「それが唯一の道で貴方が帰る方法」

「あの方だけが、それを知っている」


 そうかい。『あの方』ねえ。

 名前を呼んではいけないあの人って訳か。二人はさしずめこの世界の主であるそいつから遣わされた案内役ってところなんだろうな。それならわざわざ人型であることも納得だぜ。いくらここ、地獄が常軌を逸した場所とは言っても刀に道案内は出来ないだろうからな。

 いいぜ、そっちが待ち伏せてくれるなら俺は向かおう。

 それが罠だったとしても、何かの策略だったとしても。

 わざわざ呼んでくれるというなら招きには応じるべきだろうし、こちらには最初から選択肢なんて存在しないのだ。

 虎穴には入らずんば虎児を得ず、って昔から言うだろう?

 そして俺はまんまと考えなしにその先へ向かっていったのだ。

 物語によくある言い方なら、そう。

 その先にさらなる苦難が待ち受けているとも、この時の俺は知らずに。



 目的地にはすぐ着いた。

 そこはそのまんま地獄のラストステージのような所だった。

 というか鬼の俺じゃなきゃ死んでるんじゃないかこれ。ここにいるのは亡者どもだろうからもはやそれも関係ないのかもしれないが。

 世界の果て、最終戦闘場。

 そこは崖のように辺りの地面が窪み、火炎が飛び交い、溶岩の雨が降り注いでいた。

 壮絶な場所であるのに、不思議と現実感はない。そんな場所だ。

 だが不思議だ。俺はこの風景にも既視感があった。遠い昔にここに来たことがあるような。急には思い出せない。記憶が錯綜している。

 あれは、いつのことだっけ。

 爆発するような気配で、俺は思考を停止した。それは嵐の到来のような、大きな力が接近してくる気配。肌がチリチリして汗腺が委縮し、心臓は波打つ。俺は緊張していたが同時にテンションが上がってきてもいた。台風が来る時に危ないと知りながらも窓の外を覗き込む子供のように。

 おいでなすったか。

 目の前に現れたものに俺は相対した。

『それ』は赤い霧が固まったような物体だった。何も見えない。でもそこにある。

 そういうと何か神様に似ている。

 それほどそれは巨大だった。天を突き、地を轟かす、まさに敵の大将に相応しい存在感。いいぜ、敵にとって不足なし。やってやろうじゃねえか。


「お初にお目にかかる。赤江創ってもんだ。お前がこの世界の主なんだろう?俺が勝ったらここから出すことと引き換えに、俺と一つ手合わせしようぜ」


 俺は名乗りを上げる。

 一間の沈黙。

 次の瞬間、空気が呻った。

 いや。俺は気付く。

 突風の音にも似たそれは地獄の主が呵々大笑した音だった。


「カカッ。ハハハハハハハハアハハハハアハハハハハハハハハッハハハハハッ!」


 なんだこいつ楽しそうに笑うな。そして今言ったことにどこか面白いことはあったか、と俺は首を捻る。

 地獄ジョークはよく分からん。


「済まない、あまりに感じ入ったものでな」


 声にも深みがある。そして渋い。それはどこか反響音のような声だった。目の前にいるはずなのにどこから響いているのか皆目見当もつかない。


「そりゃどうもな」


 鼻白む俺に主はさらに言った。


「時に、気づいているか分からんから進言しよう。お前が戦うべきは私ではないのではないかな。お前は多くの時を生きて来た。その間に多くの敵と戦っただろう。しかし、最近は戦闘を多くは繰り広げていない。かつてのような血で血を洗う、敵も己も紅に染まるような戦はな。まんねりとして、しかしお前は自らそれを打破しようとしてはいない。違うか」

「……何が言いたい」


 いくぶん不機嫌そうに俺は聞いた。本気でこの主が何が言いたいのか理解できない。


「まどろこしいことは嫌いだ。俺に何か言いたいことがあるなら言うがいい」

「つまりだ」


 主は俺をひたと見据えていった。正確にはそんな気配がしただけだが俺は分かる。この主は真正面から俺を見ている。


「お前がここから本気で出たいのであれば戦うべきはお前自身ではないかということだ。そう、他の誰でもなく」


 俺は耳を疑った。


「……何だって?」

「道は既に印されている。それを見ようとしていないのはお前自身じゃないかということだ。見よ」


 霧が固まって、二本の腕が付きだした。

 二本の腕にはそれぞれ一本ずつ刀が握られている。


「なんで……」


 口から付いて出てきたのはそんな言葉だった。


「何故お前がそれを手にしている」


 彼岸に火鉈。

 奴の手には俺の武器が握られていた。

 有り得ない。

 あれは曲がりなりにも妖刀、使い手を選ぶ刀なのだ。持ち主である俺が死ぬか許可をしない限り他のものの手に渡ることはない。

 唖然あぜんとする俺に余裕を見せつけるかのように刀身を撫でながら主は言った。


「この子らも私に付くと言っている」


 嘘だろ。

 事ここに至っても未だ俺はこいつが言ったことが冗談であると信じなかった。

 だってそうだろ?長年連れ添ってきたしもべであり、相棒でもあるこいつらに見放されるなんて。

 この時、武器なしで生身で地獄の主にぶつかっていても俺のことだ、勝機はあったのかもしれない。

 しかし、俺はこの時、完全に戦意を喪失してしまっていた。


「最後の言葉だ。お別れを言うと良い」


 だから、ささやくような主のこの言葉もろくに聞こえていなかったといっていい。


「主様」

「主さま」


 俺は顔を上げる。打ち掛け姿の童女がさっきの姿のままに立っている。

 彼岸に火鉈。

 二人は互いの声を追いかけるように言う。

 俺に語りかける。


「貴方は弱くなった」

「力がなくなった」

「最近の貴方は戦う目的が見えていない」

「あなたは、見失っている」

「だから、頼りなく」

「自信ない」

「私たちはここに残る」

「私たちはここにいる」

『さようなら』


 最後は声を揃えて。それが、最期の言葉だというふうに。

 そして、何かが俺に襲いかかる。

 悪意もなく、殺意もなく。

 ただ絶望を持って、冷ややかに。

 二本の刀が、俺の胸を刺し貫いた。

 苦しさも痛みも、刃の冷たささえ感じる間もなく、それは次の瞬間には抜き取られ俺は地に倒れ伏す。

 ただ熱いと思った。焼けるような痛みが遅れてやってくる。それから身体が指先からぐんぐん冷たくなっていくのを感じた。

 傷口から血がこぼれ落ち、流れていく。

 ただ、渇いていく。

 足音が遠ざかる音がした。待て、と声をかけなければならない。しかし、起き上がるのさえ気怠い。目蓋が落ちていき、最後には何も聞こえなくなる。

 何だよ、お前らも反抗期か。

 そう思いながら暗闇に吸い込まれ俺は意識を手放した。

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