カヤさんと夏

長串望

カヤさんと夏

 カヤさんがうちに来たのは、夏の日差しが濃い影を作るようになる、その少し前の頃だった。


「夏の間だけお世話になります」


 するりと背の高いカヤさんは、小さな子供わたしにも礼儀正しく体を折り曲げるようにして頭を下げて、よろしくお願いしますとそのように言ったのだった。

 初めて見るこの不思議な人に、そしてまたちりちりと煌くような瞳の鮮やかなことに、私はただただぼうとしてしまって、何と答えたのか何も答えられなかったのか、いまも曖昧でよく覚えていない。

 ただなんだか淡い灰色の髪の美しいことと、祖母の家でかいだような香の匂いのことばかりが、不思議と頭に残っていた。

 昼間カヤさんが普段何をしているのか、私は知らなかった。

 ただ、朝には居間の片隅でのんびりと外の景色などを眺めていたし、わたしが小学校に出かけて、そうして帰ってきても、やっぱり同じようにのんびりと風に当たっていたりなどするものだから、おそらくなのだけれど、日がな一日そうしてのんびりとしているのではないだろうかと私は思っていた。

 勝手な想像には過ぎないけれど、なんだかカヤさんにはそういう、どこか普通の時間とは切り離されたような穏やかな時間の過ごし方が似合うように思われた。

 どこまでも時間の流れから取り残されてしまっているような寂しさはそこにはない。ただ、ふと気づいた時に驚くほど時間の流れているような、あの不思議な夏の時間の過ごし方が、カヤさんとその周りには流れているように思われた。

 小学校から汗をかきかき帰ってきたわたしが、居間の扇風機にあたりながら宿題を片付けるのを、カヤさんは面白そうに眺めていた。私はなんだかそれが、居心地の悪いような、いやいや、やっぱり何だか落ち着くような、不思議な心地だった。

 カヤさんの灰色の髪が首振り扇風機の生み出すからくりじかけの風に揺られているのを見ていると、ついつい目がそれを追ってしまった。カヤさんの方でもそれを面白がるようにふわりふわりと髪を揺らすものだから、淡い色合いのそのふわふわに私は目を取られてしまって、気づけば随分な時間が経っていることもざらだった。


「面白い?」

「面白いですねえ」

「何が面白いの」

「子供はみんな面白いものですよう」


 なんだそれは。

 まともに相手をされていないというか、子供扱いされているというか、なんだか私はそれが面白くなかったけれど、しかしそのような物言いに馬鹿正直に突っかかるのも全く馬鹿みたいであったし、それこそ全く子供のやることであったし、わたしは視界の端をふわりと髪がたなびくのを尻目に、宿題に目を落とした。


「面白いですか?」

「面白くはないよ」

「何が面白くないんですか」


 何がと聞かれると、何が面白くないのか、実はよくわからないままに面白くないと答えていたことに気付いた。わたしは宿題というものを端から面白くないものだ、つまらないものだと決めつけてかかっていたように思えた。実際のところ改めて見下ろしてみれば、算数というものはなかなかに面白みがあって、つまりその面白みというものはパズルのようにきちんと組み合わさった時のその美しさにあるのかもしれなかった。

 そう思うと途端に算数は面白いものに思えた。勿論難しい問題ともなると頭を悩ませるし、時々両手を上げて降参だと言いたくなるような気持ちにもなったが、不思議ともう、つまらないとは思わなくなった。


「面白いかもしれない」

「面白いかもしれませんか」


 少なくとも、その日の宿題はするりするりと済んだ。

 カヤさんがそばにいるとついつい目が泳いでしまうことがあったけれど、けれどカヤさんの穏やかな香りと静かな佇まいは、不思議と私の心を落ち着けて、深く深く集中させてくれるのだった。

 そうしてそれをカヤさんのちりちりと煌く目が見届けてくれるのを確認すると、なんだかわたしは無性にやり遂げたような心地になるのだった。


 夜になり、私が自室で布団を敷くと、カヤさんはそっとその枕元に寄り添ってくれた。

 うちわであおいでくれるわけでもなし、子守歌を歌ってくれるわけでもない。ただ本当に私が寝入るまでの間、そうしてそばに寄り添ってくれるのだった。

 最初の頃こそ、あのちりちりと煌く目がなんだか無性に気になって、何度も寝返りを打っては、柔らかく微笑むその瞳と目が合うことがあったが、それも日がたつにつれて、慣れた。

 開け放した窓から流れ込む少しぬるい風と、カヤさんの揺れる髪。それから、穏やかな香り。

 いつしかそれらは私の眠りに欠かせぬものになっていたように思う。


 朝目が覚めると、カヤさんはやっぱり居間の片隅でのんびりと外の景色などを眺めていた。

 きっとこれからわたしが小学校に出かけて、そうして帰ってきても、やっぱり同じようにのんびりと風に当たっていたりなどするものだろうことが、もうわたしにはすっかりわかっていた。だって、おそらくなのだけれど、日がな一日そうしてのんびりとしているのではないだろうかと、私はそう思っているのだから。


 日差しが強くなり、夏が本格的になってくると、わたしとカヤさんの過ごす時間は長くなった。

 というのも、簡単な話で、小学校の夏休みに入ったのだった。


 小学校のある時は、いつだって寝坊気味だったわたしは、夏休みに入るや不思議と早起きをするようになった。夏の暑さが気だるくてあまり寝てもいられないというのもあったかもしれないが、小学生の小さくて不便な体でこなすには、夏休みにはあまりにもやることが多すぎたのである。

 朝には近所の公園でラジオ体操をしてはスタンプを押してもらい、帰宅すればテレビに流れるアニメを眺めながら朝食を摂り、食べ終えれば外に飛び出していた。

 他の季節も本当はそうなのかもしれないけれど、夏休みという期間限定で、夏はわたしたち小学生にいろんなことを教えてくれる、ような気がした。例えばそれは友達同士で一日かけて遠出をして、日の傾いていく様をその肌で感じたりすること、また例えばそれは普段行くことのないような山や川、また野原への道が開かれていること、そしてまた例えばそれはお腹を空かせて家に帰ってきては、もう何度目とも知れないそうめんをそれでも飽きもせずに啜ることであったりした。

 カヤさんがその間どうして過ごしているのか、私は知らない。

 ただ、わたしがせわしなく駆けだしていく朝にはやっぱり居間の片隅でのんびりと外の景色などを眺めていたし、わたしがお腹を空かせて帰ってくるお昼にもやっぱり同じようにのんびりと風に当たっていたりなどするものだし、たっぷり遊んで疲れ果てた体を引きずって帰ってきた時にも夕風にふわふわと髪をたなびかせながらのんびりと迎えてくれたものだから、きっとやっぱり、日がな一日そうしてのんびりとしているのではないだろうかと私は思っている。


 はじめ背の高かったカヤさんは、夏も過ぎていくにつれて、ゆっくりとその背を縮めていった。

 縮んでいく中で、そのふわふわとした淡い灰色の髪と、ちりちりと煌く目、それに穏やかな香りだけが、変わらずに優しく私を迎え入れてくれた。


 夕涼みに窓をからりと開けて、縁側で宿題のドリルを見下ろす私を、カヤさんはやっぱり面白そうに眺めていた。私はなんだかそれが、やっぱり何だか不思議と落ち着くような心地だった。

 カヤさんの灰色の髪が夏の名残のような涼しげな風に揺られているのを見ていると、ついつい目がそれを追ってしまった。カヤさんの方でもそれを面白がるようにふわりふわりと髪を揺らすものだから、淡い色合いのそのふわふわに私は目を取られてしまって、気づけば随分な時間が経っていることもざらだった。

 けこけこ、けろけろと蛙のなく声に私は庭先へと目をやったけれど、飛び出しはしなかった。蛙は気になったけれど、カヤさんは、家からは出ないからだ。それに私には、宿題があった。


「面白い?」

「面白いですねえ」

「何が面白いの」

「子供はみんな面白いものですよう」


 言うことも変わらない。

 まともに相手をされていないというか、子供扱いされているというか、けれどいまはなんだかそれが面白いような、心地よいような、自然と受け入れて、受け止めることができるようになっていた。


「面白いですか?」

「ぼちぼち面白いよ」

「そうですか。そうですか」


 なんだか謎かけのような文章問題も、それこそ謎かけそのものみたいなカヤさんの、そのゆらりゆらりたなびく髪を眺めているうちになんだか馬鹿馬鹿しく思えてしまって、穏やかな香りをかいでいるうちに頭の中はすっかり整えられてしまって、改めてぼんやりと見下ろすうちに、どこで何に突っかかっていたのか、それすらも曖昧なほどに、私はするりするりとドリルを埋めていっていた。

 これの何が面白いのかと言われると、別段面白くもないような気もする。けれどつまらないのかと言われると、やっぱり面白いような気もする。気の向くままにするすると溶けている内は面白いけれど意味の分からないとっかかりにつまずいてしまうとなんだか途端につまらないもののように思われた。


「でもやっぱり面白いかもしれない」

「面白いかもしれませんか」


 少なくとも、カヤさんがそばにいると、ドリルはするりするりと埋まった。

 カヤさんの髪がふわふわ揺れるのについ目を向けてしまうこともあったけれど、やっぱりカヤさんの穏やかな香りと静かな佇まいは、不思議と私の心を落ち着けて、深く深く集中させてくれるのだった。

 そうしてそれをカヤさんのちりちりと煌く目が見届けてくれるのを確認すると、なんだかわたしはやっぱり無性にやり遂げたような心地になるのだった。


「それじゃあそろそろお暇します」


 カヤさんがそう言ったのは夏の終り頃だった。

 その頃にはカヤさんはすっかり縮んで、ふわふわと淡い灰色の髪も乏しくなって、ただちりちりと煌く瞳の色だけはひときわ強くなったようにも思われた。


「そう、じゃあ」

「はい、さようなら」

「さようなら」


 カヤさんはそうしてふっと消えてしまった。

 蚊取り線香のカヤさんは、夏だけの付き合いなのだった。


 私は、いまも次の夏を思い浮かべている。

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カヤさんと夏 長串望 @nagakushinozomi

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