第2話 紗耶香の家庭教師―命を2度救った女の子

大学4年のときに小遣い稼ぎに家庭教師のアルバイトをしていた。大学にあるアルバイト斡旋所に登録しておいたところ、週2回で、中学3年生の女の子の家庭教師の話があった。住所は寺町三丁目なので、家の近くで、徒歩10分位のところだ。早速、先方に電話を入れて、住所と訪問日時を確認した。


訪問する家は自宅から歩ける距離にあるが、この辺りまでは足を運んだことがなかった。目的の家はかなり立派な造りであった。まあ、そうでないと子供に家庭教師など雇えない。


今日は母親との面接のみの予定だ。先方の要望で、まず本人のいない時に話をしたいとのことだった。まあ、採用面接といったところだ。チャイムを押すと母親が出てきて、リビングへ通された。


「はじめまして、大学から紹介されました家庭教師の合田あいだ昌弘まさひろです」


母親は驚いたようすで、すぐに聞き返した。


「お名前は合田昌弘さん?」


「はい、そうですが」


そういえば、電話では家庭教師の合田としか名乗っていなかった。


「合田さんは、7年前に蛤坂の横断歩道で自動車事故があったとき、娘のさやかを助けてくださった高校生のお兄ちゃんですか?」


あの横断歩道を渡るたびにそのことを思い出していたから、自動車事故のことは忘れていなかった。また「さやか」という名前は覚えていた。


「そうですが、娘さんの名前はさやかさんでしたね。名前だけは憶えています。確か小学生の女の子でした」


「その節はありがとうございました。さやかは、お兄ちゃんが助けてくれなければ、事故で死んでいたと言っておりました。その後、お宅へお礼にお伺いしたのですが、直接お礼を申し上げることができませんでした。本当にありがとうございました。合田さんは、さやかの命の恩人です」


「家庭教師の生徒がその時の女の子とは驚きました。お名前は山本やまもと紗耶香さやかさんですか。あの時の小学生がもう中学3年生になったのですね」


「それともうひとつお尋ねしたいのですが、今から10年位前に幼稚園の女の子が迷子になっていたのを覚えていませんか?」


「10年前というと、僕が中1の時ですね。パトカーが目の前で止まったので覚えています。確か迷子になっていました」


「不思議なこともありますね。その迷子が紗耶香です。その時のお巡りさんが目の前で紗耶香が車に轢かれそうになったのを見ていたそうです。中学1年の合田昌弘君が手を掴んでくれなかったら轢かれていたと言っていました。合田さんは紗耶香の命を二度も助けてくださったのですね。本当にありがとうございました。これも何かのご縁というものでしょう。紗耶香のお勉強よろしくお願いします」


「承知しました。できるだけのことはさせていただきます」


こちらも驚いた。採用面接は合格のようだ。採用されてよかった。これで小遣いが確保できた。家庭教師の日時は火曜と金曜の午後7時から9時までと決まった。しばらく雑談してお暇した。明日火曜日の7時から1回目が始まる。


理系なので4年になると卒業研究などでバイト時間が限られてくる。家庭教師は時間単価がよくて学業にも支障がでない。就職はすでに東京の食品会社に決まっている。


留年しているからしっかり卒業しなければならないので、今は大事な時期だ。でも、ここのところ、アルバイトができなくて、小遣い不足だった。


父は小さな電器会社を営んでいる。お金がないわけではないが、豊かと言うほどでもない。「大学は地元でないと行かせられん」と言われて、地元の大学へ入った。入ったのに浮かれて一生の不覚と言うべきか、留年してしまった。


父親に話した時はひどく叱られると思ったが、すんなり「そうか、人生、順風満帆は良くない。勉強になっただろう」と言われた。「時間があるだろうから家業を手伝え!」とも言われた。だから、家業の手伝いをしたりして、小遣いだけは自分で稼ぐことにしている。


家庭教師の第1日目、火曜午後7時に山本家を訪問した。2階の紗耶香ちゃんの勉強部屋に通される。ドアを開けると、紗耶香ちゃんがこちらを向いて座っている。足元には小さな猫がチョコンと座っている。


「こんばんは」


「よろしくお願いします。合田先生、二度も命を助けてくれてありがとう」


「紗耶香ちゃんだね。あの時の女の子がこんなに大きくなって、不思議なご縁だね。こちらこそよろしく」


「私、迷子になった時のことはよく覚えていないけど、あの横断歩道を渡るたびに事故とお兄ちゃんを思い出すの」


「僕もあそこを通るたびに事故を思い出す。お互いに怪我がなくて本当によかったね。さあ、お勉強を始めよう」


入試に備えて試験科目すべてを教えることになっている。8時ごろ、母親がお茶とお菓子を持ってきてくれた。娘が家庭教師の言うことを聞いて熱心に勉強しているのを見て、安心して部屋を出て行った。9時に1日目の家庭教師は無事に終了した。


紗耶香ちゃんの父親が帰宅しており、帰り際に挨拶した。


「今日から、お嬢さんの家庭教師になりました合田昌弘です。よろしくお願いします」


「あなたが合田昌弘さんですか。娘の命を二度も救っていただいてありがとうございました。また、このたびは家庭教師になっていただけるとのこと、よろしくお願いします」


丁寧な挨拶があった。恰幅のよい父親だ。後で分かったが、建設会社の社長とのことだった。威張ったところなどない好感のもてる人だった。


帰り道、不思議な縁を感じながら歩いていた。交通事故当時のさやかちゃんの顔や容姿は全く記憶がなかった。ただ「さやか」という名前だけが、妙に記憶に残っていた。


今、近くで見た中学3年生の紗耶香ちゃんは、ちょうど子供が大人になりかける時で、まぶしいような美少女になっていた。色白で肩まである黒い髪、少し陰のある表情を時々見せて、ひ弱そうで、力になってやりたい、助けてやりたいという男心をくすぐるような感じのする女の子であった。


弟との2人兄弟で、周りに女の子がいない家庭で育った大学生の僕は、それがとてもまぶしく見えた。一目ぼれをしたかなと思いながら、これから週2回の勉強で会うのが楽しみであった。


そして、その晩にまたあの夢をみた。僕が誰かを呼んでいる夢。遠い人影に呼びかけると振り向いてくれた。でも誰だか分からない。そんな夢だった。近づこうとするが足が動かない。段々人影が遠ざかる夢だった。


家庭教師をして分かったことだが、紗耶香ちゃんは勉強熱心で努力家であった。勉強なんて自分でやる気を出さないといくら教えてもだめだ。これは、以前にも教えたことがあるから明白だ。


やる気がないといくら教えても成績が上がらない。そのやる気を出させるのが家庭教師の仕事かもしれないが、以前に教えていた子はあまりにもやる気がなくて、成績も上がらないので、バイト料をもらうのが申し訳なくてこちらから辞めさせてもらった。


紗耶香ちゃんはやる気がある。やる気のある子は教えるのが楽だ。勉強を教えるというより、勉強の仕方を教えればよい。頭はすごく良いわけではないが、悪くもないので、説明するとすぐに理解する。


教え始めたころはクラスの真ん中位の成績であったが、年が明けて高校受験が近くなるころにはクラスの10番以内に入るところまで成績が上がってきた。


ただ、いくら頑張ってもこれ以上は見込めない。学校の成績は、大体、個人個人の生来の能力によるものが大きくて、成績の向上には限界があると思っている。母親にもそう言って、彼女の学力に合った高校を受験することを勧めた。


紗耶香ちゃんと母親は担任の先生とも相談して、中堅の進学校であるつつじが丘高校に決めた。

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