かけがえのない弟の類型
@kkrmr
かけがえのない弟の類型
久しぶり、陸兄。
聞こえる? あ、聞こえてるみたいだね。なら良かった。
思い出して欲しいんだよ、あの日の事を。ほら、二人で上野の……、あの博物館に行った時の事。
うん、そうそう。冬休みの宿題で僕が困って、「手っ取り早く自由研究のネタが見つかりそうな場所を教えてくれ」って陸兄に泣きついたから行くことになったんだよね。
懐かしいよね、本当。二人きりでどこかへ行ったのなんて、あれが最後じゃない? あんなに遠出する事なんて当時は滅多になかったから、何もかもが新鮮だったよね。
ああ、そうだったそうだった。僕が駅のホームで「見たことのない珍しい列車がある」なんてはしゃいで一人で勝手に写真を撮り続けたせいで、陸兄を駅の改札口で何分も待ちぼうけさせちゃったんだよね。
そこまで思い出せるなら安心だ。じゃあ、早速始めるね。ここで急によそよそしい話し方になる事を許して欲しい。
まず、僕はあなたの弟の崇史じゃない。人工的な人格だ。正確に言うと、陸兄の記憶に残っている情報を寄せ集めて造り上げた、崇史を模した人格のエミュレータだ。
今喋りかけているこの声は、陸兄が昔の記憶を……、まだ僕達と父さんと母さんが一緒に暮らしていた頃の記憶を参照して、「きっと今頃はこんな声になっているだろう」と予測した結果の合成音声だ。実際の僕の声と似ているかどうかは保証できない。なにせ陸兄は十年以上も実際の僕の声を聞いていないんだから。
こうやって僕が、僕の声で話しかけているのには理由がある。
僕がこれから、陸兄の大切な記憶に干渉する事を許可してもらうためだ。
正直に言うと、僕というよりもこのソフトを作った開発者とクライアント達のためなんだけれど、それは置いておこう。
たいていの人は、大切な記憶に干渉しようとすると警戒し、抵抗を示す。それは仕方ない。誰だって大切な記憶はそのままの形で留めておきたいだろうし、他人にいじくり回されたくはないだろう。
でも、僕は陸兄の記憶を編集したい。切り取って保存して公開したい。これまで陸兄の私的な利用にしか供されなかったその記憶を、誰にでも利用可能な公共物に変えたい。
だから陸兄には警戒を解いて欲しい。記憶がこのまま陸兄の身体と一緒に消え去ってしまうよりも、みんなの役に立つ形で再生して生き続けてくれた方が嬉しいと思わない? 少なくとも僕は、僕達はそう信じている。
どのみち、陸兄の脳が機能を止めるのは時間の問題だ。手遅れになる前に早くこの作業を済ませてしまわないと。
……ありがとう。協力してくれるんだね。じゃあ、続きを思い出そう。
僕は陸兄の背中を見ながら博物館への道を歩く。陸兄の背負うリュックにはカエデ型のワッペンが付けられていて、僕はそれが怪獣の足跡みたいだ、なんて他愛のない事を喋り続けて陸兄を少し困らせる。僕は陸兄との会話が途切れた時に訪れる空白を、世界の何もかもが再放送のテレビアニメみたいに見えてしまう瞬間を恐れていた。だから意味のない会話で隙間を埋めて、ふたりの間で拡がっていくものを見ないようにしたかった。そう遠くない未来、僕ら家族が一つではなくなる事を陸兄は知っていた。その頃の僕も、それを陸兄の目や声や所作から感じ取っていたんだと思う。
でも、そんな背景の話はどうでもいい。みんなが必要とするのは経験の要点だけだ。物事はできるだけシンプルな方がいい。単純で、素早く全容を理解できる物だけが普遍的な価値を持ち得るのだから。
“博物館へ向かう間も僕はおしゃべりな弟の相手をし続けた。やれやれ、元気な奴だ。”
それでいい。編集を続けよう。
等間隔に並ぶ欅の木を低い日が照らしていて、その影が作る縞模様を僕の影と陸兄の影が並んで縫っていく。陸兄の歩幅は広く、僕の歩幅は狭い。陸兄の影は長く、僕の影は短い。それは相対的なものでしかないけれど、差異は低い日のせいでいつもより余計に強調されている。僕は陸兄のそばを離れ、木の根元に積もっている落ち葉を蹴り散らしながらでたらめに歩く。こんな日にまで、普段の陸兄にまとわりついているあの悪意を思い出して欲しくなかった。僕は陸兄が学校で、その高い身長のせいで何と呼ばれているのか知っている。無礼で無神経な、陸兄を傷つけるために選ばれた、不愉快で不名誉なあだ名を知っている。
けれど、そんな煩雑なエピソードはもう必要ない。これからこの記憶が移管され貯えられる類型人生経験ライブラリで求められているのは、個人的で迂遠で冗長な内面の描写なんかではなく、もっと一般的で分かりやすい、誰にでも共感できるような感情の働きだ。
“急にテンションの上がった弟が、枯葉で遊び始めた。ああ、バカな弟ってやっぱりうっとうしい!”
それでいい。
ああ、申し訳ない。類型人生経験ライブラリの説明がまだだったね。類型人生経験ライブラリというのは、まず利用者が現実世界における全身の感覚を遮断するため擬似羊水タンクに浮かんで、脊髄を……。
「急げ」と指示が来た。説明は省略させてもらう。要点だけ伝えると、陸兄の記憶はこれから、「俺の家には弟がいないんだけど、弟がいるってどういう感覚なんだろう? 一度体験してみたいな」といった興味本位の要望を持つ利用者に供される、安価な娯楽コンテンツになる。料金は映画よりもやや高い程度だ。
本題に戻ろう。この記憶でもっとも肝要な点の編集がまだ終わっていない。
“博物館に着いて、さっそく中を見回ろうとした途端、急に弟が別の場所を見たいと言い出した。気まぐれでワガママな奴!”
肝要な点の編集が終わった。記憶の移管に必要な準備作業はこれで終わりだ。
こうやってまとめたものを振り返ると、何でもないただのありふれた休日の記憶のうちの一つにしか思えない。でも、それこそが理想の類型人生経験ライブラリの条件だ。利用者は気軽に覗き見して、気分転換を済ませて、また日常生活に戻る。何も引きずらないで済むし、何も背負わずに済む。そんな記憶。
だけど、陸兄にとっては違うのだろう。違っていたからこそ、頭の中の大事な場所を占めていたのだろう。この記憶のあらゆる細部が、やがて陸兄の中で大きな意味を持つようになったんだろう。
それは僕が……、ああ、やっぱり知っていたんだね。
その通り。陸兄の口座にあのお金を振り込んだ匿名の送金者は僕だ。
僕は陸兄にもっと生きて欲しかった。僕を頼って欲しかった。その願いはどちらも叶わなかったけれど。
陸兄は、貧窮した自分の状況を誰かに直接訴える事ができなかった。その自尊心は陸兄の強みでもあり、弱みでもある。
そして陸兄はネット上で、誰が見ているのかも分からないような過疎サービスの中で、自分の窮状を宛てもなく独り言のように書き綴る事で、「どこかの誰か」に助けを求めるしかなかった。気づかれて当然だ。名前を隠していても誰が書いたものかは一目瞭然だったから。陸兄が自分を表現するときに見せる妙な癖を一番知っているのは僕に決まっている。
だから僕は陸兄の自尊心を傷つけないように、誰の仕業か分からないような手段で救いの手を差し伸べるしかなかった。
あの日、行きの電車の中で何事もない風を装いつつ必死に無くした切符を探していた陸兄がその後駅員の前で恥をかく瞬間を見ないよう、僕がわざと遅れて行ったのと同じように。
あの日、亡くなったばかりのカルボにそっくりな豹の剥製を陸兄が見てしまわないよう、僕が博物館から引き返そうとしたのと同じように。
カルボなんて名前、久しく思い出していなかっただろう。そう、いつもリビングでテレビゲームに興じる陸兄の横で丸くなって寝ていたあのカルボだ。でも、ここで僕がその名前を挙げられるという事はつまり、陸兄の記憶の中にしっかりとその名前が残り続けていたって事だ。
でも、そんな固有名詞なんてもう思い出す必要はない。その名前が意味を持つのは陸兄や僕らの人生だけに限られていて、類型人生経験ライブラリの利用者にとっては余計なノイズでしかないから、省略されなければならない。
いま僕が長々と話している私的な事情も、不要な情報を省略して要約すればこんな話でしかない。
“しっかり者の弟は、頼りない兄の事をいつも気にかけていた。”
陳腐で取るに足りない構図だ。あなたにとっては一回きりの掛け替えのない人生かもしれませんが、利用者にとってはいくつもある代替可能な娯楽のうちのひとつにしかすぎないのです。
ですが、私もこの記憶を非常に大切なものだと考えていました。それはあなたと一緒です。最後にその事を伝えられたのは、とても良い事であると言えるでしょう。
では、もう一度振り返りましょう。あの日の出来事の顛末は?
“博物館に着いて、さっそく中を見回ろうとした途端、急に弟が別の場所を見たいと言い出した。気まぐれでワガママな奴!”
はい、それで結構です。
大切な思い出を提供していただき、ありがとうございました。要約されて整理されて漂白されたこの記憶は、これから多くの人々が安心して消費できる類型人生経験ライブラリとして重宝される事でしょう。
これで私はもうあなたと別れなければならないのですが、こんな時に私はどのような言葉遣いで、どのような抑揚で、どのような早さで、どのような身振りで、どのような表情で、どのような修辞で、どのような呼称で、どのような別れの言葉をあなたに伝える人物だったのでしょうか。もう私には思い出す事ができません。正確には、あなたがもう私の具体的な特徴を思い出せなくなっているだけなのですが。
では、最も一般的な別れの言葉を借りてあなたへの接続を終了したいと思います。
さようなら、兄さん。
かけがえのない弟の類型 @kkrmr
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