引っ越しまでの…… 境目の夜

 静かな夕食の時間。

 セレナは店主と日本の事についていろいろ話を聞きたがる。

 店主は自分の事になると口が重くなり、日本の事になると居間の本棚の方を指し示す。

 食事は何事もなく終わる。


「布団、寝室に運ぼーっと」


 夕食のやや空気の重い雰囲気を変えるように、セレナはわざと明るい声を出す。

 下の階から感じ取れていた人の気配もすべて消えた。その静かさは二人に、従業員達が全員退社したことを知らせている。

 今やこの建物の中には、店主とセレナの二人きりだ。


「何か、修学旅行のノリだな」


「シューガクリョコー?」


「……学校という制度がなきゃ、そんな行事も分かるわきゃねぇか。ま、いいか。セレナから襲われない限り何の問題もない」


「どういう意味よっ」


 店主を上目で睨むセレナ。

 自分の世界でも店主節が出るのは、自分の世界に帰って来た実感がないせいか。

 この店を手放したこととこの世界の二十年間の不在という事実が、自分の居場所という思いを次第に薄くしてきたか。


「あぁ……お前寝間着持ってきてないんだな。俺のを使うか? きつくて着れないと思うが」


「そんなわけないでしょっ! ほんとにもう……あれ?」


「……身長、お前の方が高いしそれに胸筋あるだろ。肩幅意外とあるし、ガタイいいんだよな、お前」


「普通なら褒め言葉なんだろうけど、なんだろう、このバカにされた感じ」


 それでも背丈以外は何とか着れる店主の寝間着。ガウンのようなタイプなので破けるということはなかったが。


「それ、一週間くらいは洗ってないんだよな」


「……テンシュ。そういうのを人に勧めるってどうなのよ」


 ガウンの匂いを嗅ぐセレナ。

 しかし不潔な感じはしない。


「いいじゃねぇか。クリーニングに出してから一回も着てねぇんだから」


「ったくもぅ! もう寝るわよ!」


「だから言葉だけ聞くと強引に寝床に引きずり込むようなことをだな」


「何にもしないってば……って、私になんてイメージ持ってんのよっ!」


 会話を続けるほどからかわれる機会を与える気がしたセレナは、好意に甘えてベッドに入る。

 店主は寝室の電気を消して、床に敷いた布団に入る。


 暗い寝室の中、時折外から車の通る音。

 しかし室内で響く時計の針が動く音の方が、二人の耳に入る時間が長い。


「……テンシュってさ」


「ん?」


「こっちで、どんなふうに暮らしてたの?」


 セレナの質問に答える意志がないのか、質問の意味が分からなくて答えられないのか、店主は無言。


「……テンシュよりも長く生きてた。でも、テンシュに……たくさん助けてもらった。励ましてくれたこともあった。テンシュにそのつもりなかったとしてもね。ホントだよ?」


 店主と会ってからの事をセレナは振り返る。

 憧れの存在であるウィリックを喪ったとき、近くに寄らず遠ざからず傍に居続けてくれたこと。これはキューリアから叱られてようやく気付いたことだった。

 こちらと異世界との時間差によってこちらでの店主の立場が怪しまれる危険を冒してでも、巨塊への坑道で意識不明になった自分を助けてくれたこと。周りからその顛末を聞いてセレナが一番驚いた。

 その前後に絡んで、ギスモから付きまとわれた事。隔離させたのは国の役人だったが、店主もそのきっかけの一人であったこと。

 そして、この世界に迷い込んだ自分を助けてくれたこと。


「こっちに世界に無理矢理引っ張り込んで、ホントにごめんなさい。頭が混乱してたってのは言い訳だけど、この人がいなくなったら私何にもできないって、なぜか思っちゃった。テンシュはいつもあんなふうにぶっきらぼうだったりつっけんどんだったりするからそのせいだったのかなって」


 店主は布団から起き上がる。部屋の壁際の机まで移動して、がたがたと音を立てている。

 その音が止まりそれに代わって、今度はベッドに向かって歩いてくる店主の足音が聞こえてきた。

 セレナは、今何かがこの身に起こってもそれを受け入れる。そんな決心をする。

 足音がすぐ傍で止まる。

 顔に軟らかい何かがかかる感触。


「雰囲気に流され過ぎだ、テメェ。お前にも言った記憶はあるんだがな。涙はてめぇで拭くもんだ。ハンカチは貸してやる。返す前に洗え。洗う気がねぇならくれてやる。普通に喋るんならこっちは聞き流して眠りこんでもいいんだが、涙声になってたら気になってしょうがねぇじゃねぇか」


 そして店主は再び布団に入る。


「テメェが世の中に存在しちゃならねぇ奴ならあれこれ知恵巡らせて何とかして遠ざける。だがあんな風に慕ってくる奴らがいる。俺なんか別にどうでもいいじゃねぇか。あそこなら俺一人でも生活していけそうな世界だしな。だがまぁこうして暮らすのも何かの縁だ。だがいつかは切れる。必ず切れる。だからその時まで、その現実を受け入れる強さは身につけろ。これは、俺がこの店を通じて得た教訓の一つだ。それまではこうしてハンカチをくれてやるくらいの世話はしといてやる」


「……うん、これからもよろしくね」


 セレナのやや震えた声。微かに鼻をすする音も聞こえる。


 まだ時間は早ぇが、もう寝ろ。


 店主のその一言のあと、時計の音に二人の寝息が加わり静かな時間が流れた。

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