愚者の烙印
@teshigawarakazutake
第1話
この海は僕だけの世界。波の流れに逆らわず、ただ、揺蕩う。
広い、広い海の中。僕は魚になる。天敵はおろか、他の魚一匹いなければ、海藻もないこの大海原で。あるのは気まぐれな海水だけ。太陽から注がれた青い光は、僕だけを照らしている。
波に揺られて行ったり来たり。このまま永遠の時が過ぎる事を望んでいる。
流れに逆らう事はしない。力を込めて尾ヒレと体を動かさなければならないから。
僕は、他の海域で、天敵に対してゴマを擂り、ご機嫌を取りながら生きるヤツらを知っている。
狭く息苦しいルールに縛られながら、互いに助け合い、時には衝突、争いを繰り広げて大きな壁をも越えようともする。沢山の犠牲を生みながら。
奴らはいつかは我が身が犠牲になると知っているのだろうか。
そんな、生きにくい生き方を強いられても尚、外の世界は変わらない。周囲が変えようと行動しない。互いの顔面を窺い合うだけで、自ら動こうとはせず、無意味な犠牲ばかりが増える。
それに比べてこの世界は自由そのものだ。何も考えず、感じず、無気力に、平和に過ごせる。どうして皆、僕の様に生きないのだろう。
月曜日、定刻。朝九時に携帯のアラームが鳴り響く。薄い目で数件のメールを返信してから、目を擦りながら起き上がり、台所に向かう。弱火で鍋の湯を沸かす。その間にざっと水で体を流し、着替えてから沸き出でたお湯でインスタントコーヒーを入れる。コーヒーと煙草を手にしてベランダに出て一服する。
九時四十分に家事等を仕上げ、支度し、五十分には家を出る。勤務先は徒歩で十五分。
十時を回った辺りから仕込みを始めて十一時三十分に店を開ける。仕込みの時間はほぼ読書で終わる。大して仕込むことがないから。
この喫茶店は早朝から開けていないのにも関わらず人の出入りが多い。
カウンター席のみの、小汚い駅裏の喫茶店。座席の数はたった六つ。
午後三時に一度店を閉め、二時間休憩してから午後五時にまた店を開ける。
営業時間は午後十時まで。発注と帰り支度をして家に帰るのは十時半過ぎ。
未読のままのメールにうんざりしながら、返信しようと努めてはみるが、結局何一つ返信はしない。シャワーを浴びて、ベランダで〆の一服をしてから、午後十一時には寝床につく。大まかな一日の流れ。
今日も変わらずただ、揺蕩う。海水は程よくぬるい。この時だけが、唯一『無』でいられる場所。
「おいおい、お前、何やってんだ?」
ふと、僕の周りを一匹の真っ黒な魚が泳いでいた。
僕の世界に何の用だ。せっかく一人の時を謳歌しているのに。
「お前はいったい何をしている」
「特に何もしていないさ。君こそ何しにここへ来た」
「それはお前が一番分かっているはずだが」
「なんだい、それ。答えになってないじゃないか。僕は今、一人の時間を楽しんでいるんだから何もしないなら帰ってくれ」
「そうかい。それなら帰るよ」
やかましいのが紛れてきたものだ。
僕の世界なんだ。誰にだって侵す事は許さない。
火曜日。いつもの朝のルーティンを済ませて店を開けた。
今日は毎週やってくるおっちゃんが一番乗りで開店直後に顔を出す。
「いらっしゃいませ」
扉が開くのと同時に入り口の鐘が鳴る。
「マスター、いつもの」
「かしこまりました」
そう言っていつも通りの一番端の席に腰を掛けた。
ブレンドを淹れる。このおっちゃんは毎週来るのでこの日はオープン前に準備しておく。
そこからちらほらと、一見のお客が続いた。
今日のおっちゃんや、一カ月に何度か現れるオカマ。不定期でやって来てはブレンドだけ頼んで閉店まで居座るおばちゃん。物好きな常連が多いが、やはり大概は一見だ。
この店には、ブレンドとアメリカンしか置いていない。それ以外は提供しないし、置いてもない。それに、二種類だけのコーヒーだって豆や淹れ方にも何一つ凝っていない。ぶっちゃけて言うと適当。値段もどちらも税込み五百円で割高。店主の自分も自ら口を開く事は基本ないので、普通の喫茶店だと思って入って来たお客はほとんどが二度と顔を出さない。
どうやってこの店を嗅ぎ付けているのだろうか。何故彼らは通うのか。知りたいと思ったこともないのだが、若干気にもなる。
「なあ、マスター」
おっちゃんが声を掛けて来た。
「はい」
「なんでこの店はモーニングやんねえんだ?」
「前にも話しませんでしたか?」
お客に対して言葉を選ばないのも常連が増えない理由の一つかもしれない。いや絶対にそうだ。
「いやあ、聞いた覚えはあんだけどな? 忘れちまったわ」
「ああ、そういうことですか。そうですね、朝起きるのが苦手だからです」
「がっはっは」
笑った。嗤った?
「ああ、そだった、そだった。いやあ、年には敵わんわ」
「それじゃ、今日もあんがとさん」
ワンコインを置いて出て行った。
「ありがとうございました」
この日の午前営業もつつがなく終えた。
平日午後のお客のほとんどは学生客ばかり。数人のグループ客を眺めている事は好きだった。彼らの、活気に溢れている姿を見ると、見ているこちらはとても微笑ましい。妬みなどでははいが、やはり、自分の持っていないものや、不思議で理解し難いような所が、新鮮で良い。
無論、嫌いな所もある。
「ほら、マスターもなんか言ってやってくださいよ~」
三人組の学生に唐突に振られたこのセリフ、これだ。これが嫌いなのだ。学生だけに関わらず『なんの脈略もない会話のフリやノリ』というのは不愉快極まりない。自分は外から眺めているだけで満足だった。
「そうですね」
そんな時は適当に受け流す。
不意に昼のおっちゃんに言われたことを思い出した。(確かだいぶ前だったと記憶している)「マスター、嫌だって感情を顔に出しちゃいけねえよ。マスターの悪い癖だ。はっはっは」
今も顔に出してしまったのだろうか。一瞬、微笑ましかった空間が極寒の空気に包まれたように思えた。
だが、やってしまったものは仕方が無い。
彼らは、あれから暫くして帰って行った。
閉店間際、常連の一人、オカマがやって来た。
「ごめんね~こんな時間にぃ~」
カラン、コロンと鳴る鐘の音が、今日は不気味に鳴り響いた。
「いらっしゃいませ」
「あらあら~、マスタぁ久しぶりぃ」
「お久しぶりです。ブレンドでよかったですか?」
ノーの合図であろう手振りを挟んでから「今日はアメリカンの気分よ」と。
「ねえ、マスタぁー?」
語尾に小さな母音が入るのはオカマ特有なのだろうか。若干だが、耳に障る。
「はい」
「マスターって今おいくつ? 私は四十よぉ~」
この人は聞いてもない事をよく話す。まあ、気にはならないけど。
「二十六です」
「あらっ。思ったよりも若いじゃなぁい。彼女はいるのぉ?」
「いません。お待たせしました、アメリカンです」
苦手な会話を遮る様に差し出した。
オカマは「ありがと」と言って一口すする。
恋愛など、僕の生き方では余分。彼女ができてしまう事は、余計な考え事や、面倒事が増えるだけとしか考えていない。
店に来るカップルを見ていて思うのは、心身の傷や疲れを互いに慰め合う包容力。しかし、僕はそんなに弱くない。傷や疲れなど自分で何とかするのが当たり前。そもそも、自分に無茶な過ごし方なんて初めからしない。だから伴侶など不要。
需要がないのだ。需要が無ければ供給の必要がないのは世の常だ。
しかし、世の中にはそんな無駄を楽しむ人がほぼ全てを占める。中には現実で上手くいかないからと、非存在に恋愛感情を向ける輩だっている。
そういった人たちの話に自分が付いて行けないのは明白。僕には学生たちを凍り付けた空気を何度も生産する生返事や、卑屈な顔しか浮かべられない。
「やっぱり、ここのコーヒー、中途半端な味ね」
オカマは渋い顔を浮かべていた。
「こだわっていませんからね」
「知ってるわよぉ、そんなの」
「あのね、マスタぁ。謝るとこじゃないわ。確かに、中途半端はあまり良いものではないわ。私が言っちゃあ説得力がないかもしれないけどねぇ。マスタぁの『めんどくさい、興味ない』って声がコーヒーから聞こえてくるの」
「はい」
「私はそんなマスタぁのスタイルが好きなの。いくらコーヒーが美味しくなくてもね」
「ありがとうござます」
オカマは千円札を置いて立ち上がる。
「お釣りは要らない。残業代よ、遅くまでありがとねっ」
言われて時計を見上げれば、時刻は三十分を回っていた。今日は疲れた。帰ろう。
今日の波は、なんだか気持ちが悪い。
波の揺れが不規則だった。そして、そこには黒い魚が泳いでいる。
「よお」
「また君か……」
この不規則な波の揺れは、この真っ黒な魚が原因かもしれない。彼が泳ぐと波が乱れる。
「まあね。何か変わった事でもあったか」
「いいや、特にないさ。平常運転、だよ」
僕はいま、自然とこの黒い魚を『彼』と形容した。なぜ『彼』と形容できたのだろうか。
それに、彼はどうやって僕の世界へ潜り込んで来るのだろうか。一度もこの世界から踏み出したことがない僕には到底、理解の及ぶ範疇ではない。何か特別な方法でもあるのか。
彼と話せば謎は増えていく一方で、話の本質や真意が全く見えない。
まあ大して気になりもしないが。
「平常運転、ね。筋金入りのめんどくさがりだな、お前は」
「そうだね。余計な事は見なかった事にするのが最善さ」
「俺はそうじゃないと思うぞ」
やはり彼を『彼』と形容したことは間違いではなかったようだ。これでまず、彼の謎が一つ解けた。
「聞いているのか?」
「ああ、聞いてはいるよ」
「いいさ。そのうちに解るさ。お前の意識の脆さを実感する時が」
そう言い残して彼は太陽の光が届かない暗い海の奥へ消えて行った。
僕は彼の向かった方を呆然と眺めていた。向こうへ行けば他の世界へ行けるのだろうか。暗闇を抜けた先にはどんな世界があるのだろうか。それとも、ただ、闇が広がっているだけなのだろうか。
幾つもの疑問を残して去っていく彼。
僕は、彼が苦手だ。
水曜日は定休日。休みの日には十二時にアラームが鳴る。コールは二回以内で止める。目を覚まし、未読メールを上から眺めて、画面を閉じる。コーヒーを淹れて煙草を片手にベランダへ向かった。昼の穏やかな風は、夏の空気と匂いを運んでくる。
いつも、気が付くと午後一時を回っていて、キッチンにある最後の菓子パンを胃に入れて、布団の中へ帰る。布団の中で時が過ぎるのをただ、ぼーっと待ち、日が落ちるのを合図に起き上がる。
外出に必要最低限の身支度だけ済ませて、近所のスーパーへ買い出しに行く。この日の買い物で、一週間分を買い溜める。
一週間に一度の重労働に帰宅後は夕飯を作る気力は残らない。引きっぱなしの布団へ潜りこむ。
木曜日、毎朝のルーティンは崩さない。が、木曜日は体のどこかが必ず筋肉痛に見舞われる。一種間で最も憂鬱な日。痛む体に、可動範囲は制限される。
開店から一時間と少し、今日初めて扉の鐘が音を鳴らす。
入って来たのは、三十代後半のおばさん。通称、居座りおばさん。その名の通り、例の来店から閉店までコーヒ一杯で居座るおばさん。
「いらっしゃいませ」
華美な服を纏い、ギラギラ光るバックと贅肉を揺らしながら本棚の前で吟味している。カウンターを背に「ブレンドをお願い」とだけ言って。
腕を組み、しゃがんだり立ったりと忙しい人だ。
「かしこまりました」
壁一面に敷き詰められた本棚から数冊、ファッション雑誌を抜き取って僕のちょうど正面、真ん中右側の席に座った。
「お待たせしました」
雑誌を避けて少し離れた場所にブレンドを出す。
「あら、ありがとう」
おばさんを眺めていても特に面白味も、新しい発見も特には見当たらなかったので、少し早めの昼食をとる。
昼食は、水曜日に買い溜めした菓子パン。沢山ある中から適当に一つだけ抜き取って持ってくる。今日はイチゴのジャムパンだった。封を開け、口を開けた矢先、おばさんが尋ねてきた。
「ねえマスター。マスターは何かスポーツをやっていましたか?」
おお、この人、喋るのか。めんどくさいな。
「小学生の息子が部活でバスケットボールを始めたのよ」
「はい」
「それでね、最近、部活だけじゃ満足できなくなってきたみたいなの。だから、ここ周辺でバスケットゴールのある公園とか、バスケットのチームとか知らないかしらと思ってね」
「そうですか。ですが、お力になれず申し訳ありません」
「そうですか……。知ってそうなお友達はいらっしゃります?」
友達は……。
「いません」
友達が、いない。自分には友人と呼ぶべき相手はいないに等しい。
そもそも、友達の定義が曖昧すぎるのも原因のひとつだ。曖昧にした挙句、自ら作った壁で人間関係の溝を深め、挙句の果てには関わりが疎遠になる。
メールやSNSなどの繋がりにも、うんざりだ。
何故、互いに情報の共有を求め合い、連絡を強要し合うのだろうか。甚だ理解できない。
便利とは幸せの価値観を麻痺させる代物。だから僕はメールを一週間に一度しか返信しない。
人は、慣れる。慣れるようにできている。幸せに包まれすぎると、いつしかその幸福を『当たり前』の事象と誤認してしまうようになる。それと同様、メールやSNSで、人との繋がりが近ければ近くなる程、誰かが居てくれるという幸せを忘れる。隣に、近くに誰かが居てくれているということは『当たり前』ではない。僕はそれを忘れたくない。幸福なんてのは必要最低限でいいのだ。手に余らせた途端、それは当たり前に変わるのだろう。
故に僕は友達が少ない。信頼できる相手を自らが肯定しない言葉では表現したくない。これ以上の幸福を欲するのは傲慢である。
「あら残念。確かにそうね、考えればマスターがそういった遊びをしている様には見えないもの」
「はい」
「あ、ごめんなさい。良い意味でよ、良い意味で。あまり深く考えないでね。それじゃ、私は仕事行くから」
「ありがとうございます」
午前の営業はおばさんが帰ると同時に終わった。
しかし、その日の午後、事件は起きた。今となっては、扉が開き、鐘が鳴らす音は普段よりも音が鈍かった気がする。
「いらっしゃいませ」
二人組の男性客が入って来た。この時間に来るという事は、大学生だろうか。
一人は地味なポロシャツに裾がボロボロになったジーンズ。もう一人は派手なシャツに赤色の長袖チェックを羽織り、こちらもまた履き古したジーンズ。髪型にも一切凝っている様には見えない所から、多分何かのヲタクだろうと予想をする。
「お、いい感じの喫茶店ですね」
「え、そうですかね? まあ、確かに雰囲気は良い感じですけど」
二人とも特徴的な喋り方だ。仲が良さそうに見えるのにどうして敬語なのだろう。
「ご注文は何になされますか?」
カラン、コロン。扉が開き、鐘が鳴る。
「あら、今日は先客がいるのね~」
「いらっしゃいませ」
オカマだった。
何故だろう。このオカマが入ってくる時は鐘がいつも以上によく聞こえる。警鐘なのか……。オカマが入って来た時点でそれはもう、僕に何かしらの影響を及ぼす。やはり警鐘だ。
その間にヲタク達は奥の席へ腰を掛ける。
「すみません、メニューはいただけますか?」
赤チェックが若干、声を張ったような声をかけてきた。
「メニュー表はありません。当店、ブレンドとアメリカンのみの取り扱いです」
「料理とか、そういうのは?」
今度はポロシャツのヲタクが口を開いた。何だか二人共の声には棘のような痛みを感じる。何かあるのだろうか。
いや、違う。僕は知っている。複数人という意識は、個人の自意識を誇張させる。きっと、これだ。誰かと一緒に居られることはそんなにも胸を張れるものなのだろうか。
集団になればなるほど見える事が増えると言う。が、そんなの事はあるはずがないと僕は考える。自分が誰かの目になる事なんてできないし、誰かが見ているものを自分が見えることもない。見えたことを伝え合えばそれは伝わるかもしれないが、それではタイムラグが大きい。
つまるところ、一人でも集団でも今現在の個人が見えている事は大差がない。そう、見落とすのだ。メニュー表なら彼らの前の壁にかけてある。手前の方だけ適当に探して、あとは聞けば何とかなると思っているのだろう。なんて愚かだ。特に最近の人は判断や回答をあまり自分では考えず、他人に委ねる傾向があると思う。そして、そういった人間に限ってこう考える。「もっと見やすい所に置けよ」と。
答えを委ね、自らが望まない返答が帰って来た途端、誰かの所為。これでは四つの目と二つの脳は、ただの飾りになる。宝の持ち腐れだ。
「じゃあ、ブレンドひとつ」
「自分もブレンドで」
「マスタぁ、私もブレンドでぇ~」
ヲタク達と二席離れた所からオカマの注文も受ける。
暫くの間を置いてブレンドを自分が飲む分も含めて四杯分作った。その間、ヲタク達は何やら不気味な笑みを浮かべながら携帯を眺めていた。オカマはこちらをじっと見つめている。
「お待たせしました」
三つのコーヒーカップをそれぞれの前へ出す。
三人はほぼ同時に一口目は飲んだ。
しかし、ヲタク達はそれ以降手を付けようとはしなかった。オカマが飲み終わるまで一口も。
どれくらい時間が経っただろうか、オカマは相変わらずこちらを眺めてみたりと気の向くまま過ごしている。ヲタク達はその間、就活の話を重点に話していたと思う。僕と言えば読書に浸っていたため、断片的にしか聞いていなかったので、詳しくは聞いていないが、大学生も大変なもんだと他人事の様に考えてしまった。
この店は数年前になくなったおじいちゃんから引き継いだ店で、これといった就活などせずにこのお店を手に入れた。経営など、その他諸々のことはおじいちゃんが残してくれた本(おじいちゃんが残していたのは自らが経営してきたことをメモしたノートで、コーヒー豆の仕入れ先等の営業には必要不可欠な情報ノート)に載っていたので何一つ不自由なく自分のお店を手に入れた。常連客の多くは、おじいちゃんが営業していた時からのお客。オカマもその一人だと思う。
十分ほど経ち、ヲタク達は席を立ちあがった。たっぷりと残ったコーヒーを残して。
「会計は別で。いくらですか?」
「一杯五百円です」
「まじかよ」
ヲタク達はなにか互いに小声でぼやきながら、二人とも嫌そうに小銭を出した。
「ねぇ、アナタたちぃ」
オカマがヲタク達にコンタクトを取った。まさかのこのタイミングで……。嫌な予感しかしない。オカマの声はいつもより数段低かった。怒って……いるのか?
「これは、どういうこと。マスターが淹れたコーヒーを残して何処へ行くつもり」
怒っていた。ドスのきいた、こわいおっさんの声で。これは地声だろうな。
「そりゃあ、ねぇ……」
ヲタク達は若干、後ろへ引き気味に互いに目を合わせた。
すると、赤チェックの方が「はぁ」とため息をひとつ、口を開く。
「不味かったからです。こっちは金払ってるのに、嫌な顔された対応されて、おまけにコーヒーも不味いときた。そりゃ残すでしょ。飲めねーもん」
二人は顔を合わしながら互いに頷いている。若干、ポロシャツの方が怯えている。
それより、また顔に出てしまっていたのか……。美味しくないのも反論する余地などない。多分、全面的に僕が悪い。
しかし、そんな僕に反してオカマは顔を真っ赤にして言い放った。
「馬鹿野郎! 金を払うのは当たり前の事だろう。当たり前のことができないくせに、お前等揃って何様だ!」
怒鳴った。赤鬼が憤怒していた。ポロシャツの方なんて恐怖の顔を浮かべて腰を抜かしている。しかし、赤チェックの方は負けずに仁王立ちで構えている。
「俺たちはお客様だろ。金払ってる客への対応がなってないだろ、どう考えても」
「はぁ? お前、それ本気で言ってんのか?」
「ああ」
「それだったら今すぐ中学校からやり直して来い。馬鹿な事言って。中学戻る前に私がある程度だけ教えてあげるわ」
怒っていても、一人称は私らしい。そこはブレない。
「そもそも、お客様は神様って考えが間違ってるのよ。アンタ達は数いる客の中の一人でしかないの。あなた一人が来なくたってこのお店は回るの。この意味が分かる?」
答えは一つ。分かっていない。分かっていれば行動には移さない。しかし、問われた方の大概は決まってこう答えるのだ。
「は、分かってるに決まってんじゃん」
ほらね。これは子供だけに限った事ではないだろう。が、しかし、やはり考え方が子供なのだ。余計な意地を、無駄な虚勢を張りたがる。
「ガキが。だからお前みたいな客は要らないんだ。まず、客は人間だ。それが大前提って事も知らないなんて。己を見返すことだってしない」
「客が人間である様に、店員だって同じ人間だって事を忘れるな。互いに我慢しながら折り合いをつけるのが筋なんだよ。店員の態度が悪かったからやり返した? 甘ったれんな。店員の態度が悪くなる原因は自分にあると思え。そうやって自分の行動をひとつひとつ振り返りながら直すことが客のやるべきことだ。人の所為にする前に己を正せ。それすらできないくせに一丁前に語ろうとするな。その程度で就活の話? アホらしくて聞くに堪えない。面接官に中学生扱いされたくないなら接客のアルバイトから始めるんだな。まあ、お前みたいなやつほど根拠のない自意識過剰に溺れて痛い目見るんだけどな。」
オカマの言うことは往々にして正しい。これは多分、僕に向けて言っていると言っても過言ではない。僕の場合、多少立場は違うだろうが。だから、根拠のない自意識過剰。それが僕の胸に突き刺さった。言葉では形容し難いことが胸でつっかえた。
「意味不明だわ。これだから老害は」
そう吐き捨てた赤チェックは店を出て行った。それに続いてポロシャツも。
愚者は常に愚行を繰り返す。きっと赤チェックの彼は大変な未来を歩むのだろう。いや、違うか。赤チェックの様な考え方が多い現在では、彼らは自らが愚者であることにすら気付かず、それは時と共に愚行は常識に変ってゆくのだろう。きっと大変なのは企業やサービス業であり、僕達だ。
「マスタぁ、叫んでしまって申し訳ない」
「あ、大丈夫です。これは言葉が違いますね。ありがとうございました」
「いえ、お礼を言われる事ではないわ。私は、恩返しをしているだけなの。おじいさまから頂いた事を今のマスタぁに返している、私の勝手な自己満足よ。おじいさまはマスタぁの事をとても良く言っていたわ」
「それに、気が付いているかもしれないけど……」
「はい。勉強になりました」
「そう。それなら良かった」
オカマは腕を組み、腰を掛けてから続けた。
「けど、それではまだ落第よ。頭でっかちなのよ、マスタぁは」
頭でっかち……。そうだ、これだ!
「無論、適度の悟りも大切。烙印が押されている事に気が付けないようでは誰だって一歩を踏み出す事なんてできやしない」
「それじゃあ、私もそろそろお暇させてもらうとするわ」
迷惑かけた料金よ。と言ってオカマは万札を置いて出て行った。彼……いや、彼女? は一体何者なのか。
「ありがとうございました」
ゆっくりと閉まっていく扉に深々と頭を下げる。
なんて僕は恵まれた人間なのだろうか。おじいちゃんのお陰で今の僕があるとは思ってはいたけれども、これほどまで助けられているなんて今の今まで思いもしていなかった。オカマは僕の事を「愚者ではない」と言った。しかし、僕はまだ愚者。おっさんやオカマ達に見守られながらここまで来られた事を考えもしなかったなんて。この愚者の烙印はきっとなかなか拭えないだろう。それでも……。
柔らかな水の暖かさを全身で感じ取り、今日は少し波に抗ってみる。悪くなかった。至福に包まれ今日も揺蕩う。
やはり今日も彼はいた。
いや違う。彼じゃない。僕だ。
「ああ、そうだよ」
「なんて愚か者だったのだろう、君が黒く見えていたなんて。黒いのは、僕の方だ」
コツリ。彼が僕のおでこをつっつく。
「違う。お前が愚者なら、俺も愚者。お前が黒ければ、俺も黒い」
「そうだね。僕達はこの烙印を背負って行こう。変わる努力を少しづつしていくんだ……」
愚かに時を過ごしてきた分を無駄にしないように、今から僕は変わるのだ、今から。
耳元でアラームが鳴り響く。さあ、目覚めの時間だ!
愚者の烙印 @teshigawarakazutake
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