第16話あらやだ! 魔物との戦いだわ!
襲い掛かる熊の鋭い爪を避けることも受けることもできひん。魔法を使うことも頭から飛んでもうた。
せやけどまだあたしには運が残っとった。咄嗟に近くにあった、ホットポカリの入った鍋を熊に投げつけた。パニくった人間の最後の足掻きやったけど、案外それは上手くいった。鍋は当たらんかったけど、中身のホットポカリが熊の顔面にかかったんや。
「ぐぉおお!?」
少し冷めとったから、熊が火傷するっちゅうことはなかったけど、突然に降りかかってきた温かい液体に戸惑って、反射的に身を少し仰け反った。そのおかげで熊の爪が直前で止まった。
「ウィンド・ショット!」
その隙を突いて、デリアが魔法を放った。風の衝撃波や。それは見事熊の腹に命中した。
せやけど低級の魔法やからそれほどダメージを与えられんかった。精々よろける程度や。
あたしは立ち上がり、改めて熊を見る。二mを優に超える体躯。凶暴な顔つき。茶色の毛並みに腹には三日月のような模様がついとる。
なかなか次の攻撃に移らん。こっちの魔法を少しだけ警戒しとるようやった――逃げるチャンスはここしかなかった。
「イレーネちゃん! デリア! 荷物持って逃げるで!」
本来なら荷物を捨てて逃げるべきやけど、こんな山ん中でそないなことしたら自殺行為や。やから持てるだけの荷物を持って逃げるんや。
「何言っているのよ! 山の中で熊に追いかけられて、逃げ切れるわけないじゃない!」
「せやかて勝てるわけないやろ! 相手は怯んどる、今しかないんや!」
「怯んでいるなら、攻撃するしかないでしょ!」
そう言うて魔力を練り始めるデリア。ああもう! さっきの約束はどないしたんや!
しゃーない、予定変更や。ここで弱らせて――逃げる!
「イレーネちゃん、援護頼むで! 遠距離からの魔法攻撃や!」
「は、はい! 分かりました!」
どうやらデリアは火の魔法を放つようや。魔力の球が真っ赤に輝いとる。水の魔法は打ち消しあって逆効果やな。せやったら――
「ファイア・ショット!」
「ウィンド・ショット!」
火の球を風の衝撃波が包み込むように加わり、通常の威力を遥かに増した極大の炎球が熊に直撃する!
熊は悲鳴や唸り声をあげる間もなく、炎に包まれる。
「これなら流石にツキノワでも――」
「まだや! 次の魔法を唱えるんや!」
勝ったと思い込んだデリアを叱責して、次の魔法を準備する。やっぱり攻撃魔法も練習しとくべきやったな。同じ風の初級魔法でもデリアのほうが格上やった。
「ぐぉおおおおおおおおお!」
おそろしいほどの、そしておぞましいほどの咆哮に危うく尻餅をつきかけた。デリアもイレーネちゃんはビビってしもうて、次の攻撃ができひん。あたし一人で放つしかない。
「アクア・ショット!」
苦し紛れに水の塊をぶつけようとしたんやけど、決め手があらへんから今度は片手で払われてまう。やはり隙がないとあかんな。
……しゃーないなあ。
「イレーネちゃん、デリア連れて、山を下りい。これはあかんわ」
「ユ、ユーリはどうする気なんですか!?」
「あたしはここに残る。少しでも足止めして、それから逃げるわ」
「ふざけないで! 庶民に守られる――」
「ええから行くんや! 行かへんと全員死んでまうで!」
この異世界に来て、初めて女の子に怒鳴ってもうた。情けないなあ。
イレーネちゃんは泣きながらデリアを抱えて、逃げようとする。
熊は物凄いスピードであたしに迫る。ほんで繰り出される爪。なんとか避けたけど、虎柄のローブを少し掠める。足場が悪い。山中での戦いに慣れとる熊に比べて不慣れや。さらに初めての魔物との戦いでどないしてええんか分からへん。
これは不味いな。
異世界に来ても、子供守って死ぬんか。あたしは。
なんや、全然変わらへんなあ。
「ユーリ! 近くにいるかもしれない冒険者を連れてくるから、絶対死ぬんじゃないわよ! まだ決着がついてないんだから!」
デリアもようやく納得してくれたようやな。あたしは目を切らずに後ろに向かって親指を立てる。
さて。熊にどう対抗すればええんやろか。
熊がこっちを睨んでくる。その目は「貴様を食い殺してやる」と言うとるみたいに残忍さに満ちとった。
「はっ! 熊ごときにやられはせえへんで! ウィンド・ショット!」
歩み寄ってきよった熊を牽制するように軽く風の魔法を放つ。見えへん衝撃波のほうが見える水の塊よりも有効かと思ったんやけど、それは正解のようでまともに直撃した。
まだまだ魔法は放てるけど、威力が弱すぎてダメージを与えられん。かといって強力な魔法も放たれへんし……
あらやだ。もしかして詰んどる?
「ぐぉおおおおおおおおおおおおおおお!」
熊が勝ち誇ったように雄叫びを上げる。そんで馬鹿の一つ覚えの爪攻撃――と思うたら、今度は左右からの同時攻撃やった。大木なら一気にへし折れるような連撃。
後ろに下がる。けど何かにぶつかってまう。振り向くとそこには大きな木。
しもうた! 振り向いたせいで熊の攻撃を避けられん!
あ、これ、死んだわ。
思わず目を閉じてしもうた――
「――豪衝撃!」
野太い男の声がした。ほんで痛みや衝撃がないのを不思議に思うて目を開けると――
そこには熊と同じくらいでかい筋肉達磨が立っとった。ほんでなんとあの大きな熊が膝をついとる。
「はあ……? 何が起きたん?」
「もう安心だ少女よ。俺がこのツキノワを退治してやろう」
筋肉達磨をよう見てみる。おそらく二十代。傷跡だらけの腕や脚、それが分かるんは半袖短パンやったからや。青い髪に白い鉢巻。真っ赤な服――前世で言うところの胴着のようなもんを着とる。裸足で手には何も付けとらん。そんな筋肉達磨があたしの前で仁王立ちしとる。
「あ、あんたは何者なんや!?」
感謝の言葉の前に思わず聞いてもうた。すると筋肉達磨は恥ずかしげもなく、堂々と名乗った。
「俺は――勇者だ」
「ゆ、勇者? それほんまに言うとるん?」
「話は後だ。まずはこのツキノワを無力化しよう」
熊はよろよろと立ち上がった。しかし筋肉達磨に襲い掛からん。警戒しとるんか、恐れとるんか、それとも両方か。
「なんだ。来ないのなら、こっちから行くぞ!」
筋肉達磨はその巨躯に似合わん速度で熊に迫り、渾身の右ストレートを熊のこめかみに放った。
どしゃっちゅー鈍い音。多分の熊の頭蓋骨が折れたんやろ。そのまま崩れ落ちてしまう。
「正義、執行完了!」
ほんで決めポーズなのか左手を腰に当て、右手は頭の上に掲げてそのまま動かへん。
とりあえず礼儀として拍手をすると、満足そうにこっちを振り向いた。
顔に斜めの大きな刀傷があって、めっちゃ怖いんやけど、不思議と目は優しかった。
「えっと、その、おおきに」
「礼など要らぬ。俺は勇者だからな。当然のことしただけだ」
「……勇者ってなんなん?」
「勇者とは――」
自称勇者が説明しようとしたときに「ユーリ!」と大きな声がした。その方向を見ると涙で顔を覆い尽くされとったイレーネちゃんがこっちに駆け寄ってくる。ほんで抱きつかれてしもうた。
「わぷ! イレーネちゃん――」
「もう! どうして一人で戦おうとするんですか!」
「ああ、ごめんなあ。心配かけてもうたな」
「馬鹿! ユーリの馬鹿!」
「あはは。ほんまにごめん」
イレーネちゃんの肩越しに気まずそうに立ち尽くしとるデリアが見えた。
「デリアもごめんなあ。あんときにはああするしかなかったんや」
「……私も悪かったわ。逃げろって言われたのに、逃げなかったから」
「なんや。えらい素直やなあ」
「うっさいわね!」
このやりとりを見とった筋肉達磨は「うむ。仲良きことを美しきかな」とにっこり微笑んどる。
「二人がこの人を連れてきたんかいな?」
「そうよ。初めは魔物かと思ったけど、事情を話したらすぐに向かってくれたわ」
あたしは改めて筋肉達磨にお礼を言うた。
「ほんまおおきにやで、勇者さん。えっと名前は――」
「俺の名前はドランだ。会話から察するに君はユーリだな」
「せやで」
さて。この勇者に対していろいろ訊きたいんやけど、体力の限界と緊張の緩和でその場に倒れてしもうた。
「ユーリ!? 大丈夫ですか!?」
「あはは。イレーネちゃん。安心したら動けんくなったわ」
「どれ。俺が担いでやろう。山小屋まで皆を連れてってやる」
軽々とあたしとあたしらの荷物を背負うドラン。なんちゅうか、ヨーゼフのおとんを思い出すなあ。
「他の者も疲れたら言うのだぞ? ここから一番近い山小屋は一時間ほど歩くからな」
そんなわけでドランに交代で背負われつつ、あたしらは山小屋へと向こうた。
ドランの目的は分からへんけど、悪い人やない。
それだけは確信できたんや。
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