第8話 棗を継ぐ者-3


 首筋や手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。


 【夢泡ネイブ】にかけられたユーシスの炎は、俺たち観客に影響を及ぼさないはずなのに。俺は二人の戦闘の間、ずっと肌が焼けるような熱気を感じて仕方がなかった。


 興奮絶頂の実況が、勝者としてハルの名を叫んだ。静まり返っていた観衆は、それで初めて、バブルが弾けたように歓声を爆発させた。


 ハルは剣を突き上げた格好のまま、呆然と立ち尽くしていたが、やがて、ふらりと支えを失った。


 後ろ向きに銅像のように倒れていくハルに気づいた少女たちの悲鳴が、ギリギリで飲み込まれる。赤い鎧の少年が、倒れるハルの背中を支えて抱き止めたからだ。


「勝った方が、気絶するな、バカめ」


 白皇の術が解けて、ユーシスは戦闘前に巻き戻されたように綺麗になっていた。対してハルは致命傷の傷口から大量に血を流し続け、加えて全身大火傷。これではどっちが勝ったか分からない。


 パチン、と泡の弾ける音がして、ハルの体は嘘のように綺麗になった。砕けた鎧も、折れかけた剣も元通りになる。そこでハルは、ようやく薄目を開けた。


「……あれ。……夢?」


阿呆あほうが」


 今日一番の大歓声に包まれて、ハルはゆっくり事情を察したらしい。大きく見開いた青い目を、うるうる感極まらせる。


 温かい拍手のなかを、ユーシスに肩を貸されて退場していくハルに、俺はたまらず客席から立ち上がった。


 退場口の出口に先回りし、二人を出迎える。ハルは俺の姿を見るや、所在なさそうに苦笑した。


「シオン、僕……戦いが苦手なんだ」


「あぁ」


「なんで友達と斬り合わなきゃいけないのか分からない。痛いし、怖いし、かと言って相手を傷つけたくもない」


「知ってる」


「でも……」


 ハルは赤面し、くしゃっと、初めて泳げた子どものように破顔した。


「さっき、僕、楽しかったよ」


 うっすらと鳥肌が立った。全身に高揚した血が勢い良く巡る感覚。その血潮のなかに一つ、小さなガラスの欠片が紛れ込んでいるみたいに、チクリと痛い。ハルは、今日、完全に戦士になった。


「おかしくなっちゃったのかな……友達を斬り殺して楽しいだなんて」


「バカだな。スポーツと殺し合いを混同してんじゃねえよ。お互いリスペクトして戦うから、スポーツは面白いんだ」


「リスペクトだと? 俺がこいつを尊敬しているとでも? ふざけるな。少し、ちょっと、「ふん、やるじゃないか」ぐらいだぞ」


 妙なところにこだわるユーシスは放っておく。ハルは不思議そうな顔をしていた。


「スポーツなんて、僕、楽しいと思ったことないよ。上手くできなくて、みんなに笑われる」


「そりゃお前、強くなったから楽しくなったんだろ」


 ハルは大切な贈り物をもらったような顔になった。


「勝負ごとを本当の意味で楽しむには強さがいる。逆に、どんな分野であれ、どれだけ強くなっても競う相手がいなきゃつまらない」


 ユーシスが珍しく口を挟んでこなかった。


「ハル、お前が思ってるより、戦いは悪いものじゃないぜ」


 ハルは少し間を空けて、強く頷いた。その瞬間、俺は師匠としての最後の役目を終えたような気持ちになった。


 互いに決勝まで上がれたら――その時は、師弟という関係ではなく、友達として、ライバルとして、俺はハルと戦いたい。


「棗流剣術を、使っていましたよね」


 背後から、刺すような女の声がして、俺はハッと振り返った。俺としたことが、気配を察知できなかった。


 長い黒髪の少女が立っていた。濃紺の袴姿に木刀を帯びた、清廉な立ち姿に思わずこちらも背筋が伸びる。


 コトハ。俺の妹にして、俺と同じ、棗流剣術の正統継承者。


「ハルクさん。どこでその剣術を修めたのですか」


 鋭い黒曜石の目がハルを射抜く。ちなみにだがコトハはまだ英語を話せない。全部日本語だ。ハルは学生時代、俺のレクチャーでたった一ヶ月で日本語を完全マスターしたので、彼にはコトハの言葉が通じるのだ。ハルはごくりと生唾を飲んでから、ちらりと俺に視線を投げた。その目が口ほどに物を言っている。「ごめんごめんごめんごめんホントにごめん」と。


「な、なつめりゅうけんじゅつ? なにそれ、僕わかんないなぁ」


「ん? 貴様、戦闘中にそのような名前を口にしていなかったか?」


「ユーシスは余計なこと言わないで!」


「そう言えば、ナツメ、お前も以前そのような剣術の名を……待てよ、ナツメリュウ? それはナツメ、お前の姓と関係があるのではないか?」


 このアホ貴族がすごい勢いで秘密を暴露していく!


 幸いユーシスの言葉は全て英語。俺とハルもユーシスに対しては英語で話すので、おつむの弱いコトハには恐らく伝わっていない、はずだ。


「……シオン、本当のことを言うしかないよ」


 英語でハルが言ってくる。確かに、コトハはハルの操る精度の高い棗流の技を、その目で何発も目の当たりにしている。とてもこれ以上はぐらかすことはできない。


 俺は一つ頷いて、コトハに向き合った。


「コトハちゃん……いや、コトハ。君に隠していたことがある」


 なぜかハルではなく俺が喋り始めたことに、コトハは少し不意を突かれたようだったが、俺に体の正面を向けてじっと言葉を待つ。


「実は、俺は……」


 たらり、とコトハの頬に冷や汗が伝う。


「君の……………………遠い親戚なんだ」


 ハルがギョッと目を剥いた。


「し、親戚? あなたと私が?」


「そう。俺の名前は棗 詩音。棗家は、実はかなり初期から本家と分家に別れているんだ」


 嘘は言っていない。本当のことだ。幕末、三代目・棗 龍斎りゅうさいの弟、虎徹こてつが、龍斎の援助を得て京都に分家を設立した。


 以降、江戸の本家、京都の分家はそれぞれ独立して研鑽を続け、殺人剣術を発展、継承してきた。


「君は本家の長女だろう? 俺は分家の長男なんだ。本家が男の子に恵まれなかったから、俺は京都で本家の剣術を叩き込まれてた」


 これは大嘘。俺は正真正銘本家の長男だし、コトハは俺の実の妹だ。


 しかし、棗の本家は男児に恵まれなかった場合、分家の長男を本家の長男として迎えるしきたりがある。コトハにとって自分は棗本家の一人娘だということになっているはずだから、俺が「本家の技を受け継いだ分家の男児」であるという設定には信憑性がある。


「まさか、君までアカネに来るとは思わなかった。今まで黙っていて悪かった、ごめん」


「では……私の名前を知っていたのは」


「小さい頃に何度か会ってるんだ。先にアカネに来た俺の存在は、君の記憶から消えているだろうけど」


 コトハは黒い目を見張り、じっと考え込んだ。やがて、何か得心したように小さく頷いた。


「そうだったのですね。納得がいきました」


「なにが?」


「私が、あなたに感じていた懐かしさのようなものです」


 心臓が跳ね上がった。ハルも背後で息を呑んだ。


「それでは、ハルクさんには、シオンさんが棗の剣術を教えたということですね。なるほど、そうでしたか」


 今に始まったことではないが、コトハはこんな時でも、ひどく落ち着いている。


「……ただ、私はあなたが棗流を使っているところを一度も見たことがありません。なぜさっきの試合で使わなかったのですか?」


「君が見ているから、こんな風に不安にさせたくなかった。ハルも、同じ理由で最初は力を隠そうとしてくれてた」


「では、次の試合で存分に使われてください。あなたの話を信じるかは、それを見て決めます」


 俺が頷くと、コトハは「試合終わりに失礼を致しました」と深く頭を下げた。それからきびすを返しかけて、この日本語のやり取りを一人静観していたユーシスを、ふと見つめた。


 軽やかな身のこなしで小走りにユーシスへ駆け寄り、「あの」と言いかけて、隣のハルクに「すみません、通訳してください」と頼んだ。


「な……なんだ、貴様は」


「れんじゅつというのは私には良く分かりませんが。あなたの戦いは美しかったです。これからもご武運を」


 ハルが通訳してやると、ユーシスはどんどん真顔になっていった。あれは嬉しいときの顔だ。


「……ふん、女に誉められても嬉しくなどないな」


「誉めてくれて嬉しい、ありがとうだって」


 ハルの正しい通訳にコトハは一つ頷き、もう一度頭を下げてから走り去っていった。


「貴様、ちゃんと通訳したんだろうな」


「もちろん」


「……ところで、誰だ、あの女は。貴様らの知己か?」


 ユーシスが他人に興味を示すのは珍しいので、俺とハルは思わず目配せした。


「まぁどうでもいい。さっさと上に上がるぞ、次の試合が始ま――」


 ズガァン、と、大地が上下に激しく揺れた。


『しょ……勝負あり……!』


 俺たちは急いで闘技場の方を振り返った。いつの間に次の試合が始まっていたのか。そしてその決着は、既についてしまったようであった。


 大地に、禍々しい大剣が突き刺さっている。そこから数メートルに渡って地割れのような亀裂が走り、白皇の術が解けて復活したらしき対戦相手は、そのそばで、決着がついた今もなお腰を抜かしていた。


『開戦直後の決着……勝者は、マリア・シンクレアです!』


 リーフィアの実況に、レッドテイルの野蛮な歓声が起こる。名を呼ばれた小さな少女は興味無しとばかりに大剣を引き抜き、さっさと退場する。


 マリアが、未だに退場口にたむろしていた俺たちとかち合う。ハルは身を乗り出しかけて、口をつぐんだ。


「次はよろしく、ハル。その次はよろしく、シオン」


 歩みを止めずに、小さな位置にある頭がハルとユーシスを素通りし、そのまま俺の横を通りすぎる。すれ違いざま、俺は振り返らずに投げかけた。


「約束は覚えてるよな?」


「あぁ、そんなこともあったわね」


 マリアは足も止めずに行ってしまった。まるでこの大会に興味などないとでも言いたげだ。それならば、彼女はなぜこの大会に参加したのだろう。


「ハル。あいつに勝てよ」


「……うん。不思議だけど」


 ハルは薄く笑って言った。


「今は負ける気がしないんだ」

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