第18話 優しいウォーカー-3

 グレントロールの怒りは頂点に達したと見えた。ギュッと閉じた片目から血を滴らせながら、怒髪天を突く形相でえ猛ると、ついに背中に吊るした、もう一振りの大剣を引き抜いた。


 ハルの動きが明確に変わった。俺たちから気をそらすように横移動しながら、徹底防御の構えを示す。そんなハル目がけて、斬撃の嵐が降り注いだ。


 凄惨な金属音が無数に響き渡る。手数が倍に増えたことで、さしものハルにも余裕が失われていく。それでも歯を食いしばり、両手の剣と盾を懸命に振るって、暴風雨のような猛攻をいなし続ける。


「ハル!」


「来るなッ!!」


 踏み出しかけた俺の、考えることなどお見通しだとばかりに、ハルは金髪を振り乱して怒鳴った。そのハルの円盾にまた一つ大剣が激突し、軋む音を上げて亀裂が走る。体勢を崩したハルの肩口を次なる斬撃がかすめ、鮮血が舞う。


「でも……」


 ハルは全く攻撃に転じようとしない。無尽蔵のスタミナを誇る相手に防戦一方では、幾ら目が良くてもそう遠くなく限界が来るに違いない。今の俺たちでも、ヤツの気を引くくらいはできる。


「絶対に来るな! 来たら僕は、君を一生許さない!」


 生傷だらけの顔を死に物狂いで険しくして叫ばれては、何も言えなかった。


 剣が先に折れた。持ち手だけになった鉄剣を捨て、盾を両手で構えてハルは必死に大剣の驟雨しゅううを耐え抜く。バキ、メキ、ゴキ、と悲鳴を上げているのは盾か、ハルの体か。


 いくつめの太刀たちだったのだろうか。


 灰色の大剣が、ついにハルの盾を真っ二つにへし折った。同時に気持ちの糸も切れたか、ハルはその場に膝をついた。やばい。地を蹴った俺の体は、ユーシスを助けたときの動きなど見る影もなく、数歩ななめに走って顔から転倒した。


「ハ――ハルッ!!!」


 伸ばした右腕は、肘から先がなかった。こちらを向いて、恥ずかしそうに笑ったハルを、天から落ちてきた黒い刃が斬り裂いた。




 壊れるほどひらいた目に、焼きついた。叫び声さえ出なかった。ハルの体は噴水のように赤い血を噴き上げて、そのままゆっくり後ろに倒れた。


 横たわるハルの体から流れる血で、あっという間に水たまりができた。


 ウッ、ホッ、ウホホホホホホッ! ウホホホホッ、ウヒッ、ウヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒハハハハハハハハハハハハハハッ!


 満足げに小躍りする猿のことなど、意識の端にさえなかった。俺は一心不乱にハルの元へっていった。仰向けに倒れたハルの体には、左肩口から右の太ももまでを貫く--あまりに、あまりに深い刀傷かたなきずが走っていた。


「は……早ぐっ、医療煉術っ!」


「もうやってる!!」


 倒れこむようにして駆けつけたユーシスは、既にハルの傷口に手をかざしていた。赤い光がやんわりと手のひらに灯る。


「…………シ、オン……」


 消え入りそうなハルの声が、そっと香るように聞こえた。ハルは目を開けて、俺を見上げていた。


 ハルにまだ息があることに気づいたか、愉快げに踊っていたグレントロールはムッと表情を変えて、俺たち三人を見下ろした。俺は必死の思いでハルをその背に隠した。


 構わず剣を振り上げてニタァっと笑ったグレントロールは――そのポーズのまま、金縛りにあったように硬直した。


 俺はそこでようやく、違和感に気づいた。グレントロールの顔だ。ハルに潰された右目は既に再生し、元どおりに戻っていた、が--顔の右半分が右目を中心にして何やら青紫色に変色し、無数の血管を浮き上がらせている。


「……やっ、と……毒が、きいてきた、みたいだね……」


 背後でハルが、満足げに笑った。毒--ハッとして周囲を見渡すと、近くにハルの折れた剣が転がっている。根元から折れた刃は、よく見ると剣先から中腹にかけて、緑色の粘液で濡れていた。


 打ちかかる前、湿った布巾で剣先を拭った、あの時か。


 顔の右側を押さえて悶絶するグレントロールが、たまらず膝を折った。いったいどれほどの痛みなのか、とうとうその場にうずくまり、頭をしきりに地面に打ちつけ始める。


「つらいだろ……《ジゴクラク》の……猛毒だ」


 学園で受けた授業の一節が、脳裏に蘇った。《ジゴクラク》。ハルに何度も復習させられた。食べられる野草と見分けのつかない毒草。食べてしまえば数日間の潜伏期間を経て、地獄の神経痛に全身を侵されて七日七晩のたうち回る。


 ハルがこのフィールドでその毒草を見つけ、採取していたことに関して、そして、いつでも活用できるように準備していたことに関しては、何一つ驚きはない。ハルは、そういう男だ。


「傷の塞がるスピードを測った限り……再生時のお前の細胞の働きは……、通常の、数千倍速だ」


 ハルが言い終わると同時、グレントロールの全身の穴という穴から、目を覆いたくなる量の血が噴き出した。鼻を突く悪臭が飛び散り、悲痛な慟哭どうこくが樹海中を駆け抜け、揺らす。


「あぁ……もう、第三症状が出たんだね……かわいそう」


 ハルは他人事のように笑った。彼の言う通りなら、毒の入り込んだ患部を急速に再生してしまったグレントロールにとって、毒の巡る早さも効き目も、人間の数千倍ということになる。


 数日あるという潜伏期間も、ほんの数分。それを稼ぐための防戦一方だったのか。


 首の骨を折っても、頭を内側から爆発させても死ななかった化け物を。その再生能力を利用して、殺すため――。


「シオ、ン、ユーシス……きいてくれ……」


 地獄から響くような金切り声を上げてのたうち回るグレントロールを脇目に、ハルが俺たちの顔を交互に見た。


「《ジゴクラク》の毒、には、致死性は、ない……」


 俺の手首を、ハルがか弱い力で掴んだ。


「普通は、七日続く激痛に、気が狂って死ぬ……けど、アイツは痛みに耐えかねて、無意識に全身を再生し続けるだろう……それだけ期間は縮む……毒の効果は、もってあと、2分」


 ハルはそこで、くしゃっとまゆを歪めた。今にも失われてしまいそうな声を必死に上ずらせ、紡ぐ。


「二人で、なるべく、遠くに逃げて……ヤツは、毒の効果が切れたら、真っ先に僕を痛めつける、はずだ。死んでいても、時間は稼げると、思う」


「ふ、ふざけんなよ……」


 俺は震える声で怒鳴った。


「連れて行くに、決まってんだろ……!」


「おこ、るよ……? いいあらそってる、じか、んは、な……」


 ハルの顔色がどんどん悪くなっていく。俺は無視して、左手一本でハルの体を肩に担ぐと、右腕の断面から血が噴き出るのも構わず、唸りながら立ち上がった。


「ユーシス、歩けるか……?」


「もちろんだ!」


 ハルの傷は、動かしていい深さじゃなかった。それでもここに置いていくより一億倍マシだ。俺とユーシスは互いに体重を預け合い、一歩一歩、必死に走った。割れた花瓶から水が漏れるみたいに、どんどんハルの体から命の液体がこぼれる。


 俺達の走りは、亀の歩みに等しかった。たとえ茂みに身を隠しても、ヤツの目にかかればあっという間に見つかってしまう。ユーシスの炎も、機動力がなくてはかえって居場所を教えるだけだ。


 背後ではまだ、痛みと戦うグレントロールの絶叫が響いてきている。あれが消える時までに、一ミリでも遠くまで。まだだ。まだ止まない。止むな。足を動かせ。


「……ねぇ……しおん……」


「なんだ、痛むか?」


「ぼくは……つよかった……?」


 即答できる内容だったのに、俺は言葉に詰まった。ハルが、自分の戦いの評価を聞いてくるなんて、初めてだったから。


「……あぁ……強かったよ……俺なんて目じゃないぐらい、強かったよ。帰ったら、マリアに二人で自慢しよう。でも、アイツ信じるかな。もっとマシな嘘つきなさいよ、とか言いそうだよな」


「それなら、俺も証人になってやる。アルフォード、貴様の勇姿は、詩人が歌にのせて、世界中に広まるぞ」


「そっか……嬉しいな……」


 弱々しく鼻をすする音が、左の鼓膜を震わせる。ハルが、泣いているのに、俺は、何もしてやれない。


「か……帰ったらさ、また一ヶ月鍛えて、来月の卒業試験に二人で出ようぜ。今の俺たちなら、楽勝すぎるかもな! ……えっと、それでさ、ウォーカーになったら、もう少し綺麗な家に二人で引っ越そう。いいアイデアだろ? 広いキッチンが欲しいって、ハル、前に言って……」


 何かから逃れるように動かし続けていた口を、そっと、ハルの白い手が塞いだ。



「……しおん………………ありがとう、ね」



 その声は、ハルの口がすぐ左耳のそばにあった俺にしか、聞き取れなかっただろう。かたまった俺の口から、するりと、ハルの手が離れて胸の前にぶら下がった。


「……けどあの家も、去ると思えば寂しい気もするな。覚えてるか? 一緒に帰ったらまさかのおんなじ家でさ、じゃあ一緒に住んじまおうぜって、言ったらお前………嬉しそうに布団持ってきて………………それで……………………………………………………………………………………………………………なぁ、ハル……………………………なんか、言えよ……」


 ハルの声を、もう一度聞けたなら、他に何もいらないと思えた。俺はグレントロールより遥かに怖い何かから逃げるように、どんどん早足になりながら、必死で口を動かした。


「ナツメ…………もう」


 ユーシスの振り絞ったような声で、俺の口はようやく止まった。足も止まってしまった。同時に、背後で、永遠と続くようだった断末魔がピタリと止んだ。

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