第14話 VSディポタス-3

 全身の肌が粟立つ。


 有り得ない。なんだこのバケモノは。こんなのに、どうやって人間が勝てって言うんだ。


「シオン、目を閉じて!」


 隣のハルが閃光蛍の入った採虫瓶を掲げ、音高く平手で打つ直前に、今度は俺も反応できた。黒い外套の裾で顔を覆った直後、それさえ突き抜けてくるほど強烈な閃光で辺りが真っ白に染まる。呻く巨獣の隙に乗じて、ハルは俺に肩を貸し、立ち上がらせた。


 俺も歯を食いしばって根性を見せ、二人で転びかけながら全力の遁走とんそう。バケモノが眩惑げんわく状態から回復するより早く、数十メートル離れた茂みに飛び込んだ。


「ハァ……ハァ……悪いハル、助かった……」


「静かに! このままやり過ごそう……!」


 殺した声で短い会話を交わし、俺たちは息を詰め身を潜めた。茂みの隙間から、グローブをはめたように膨れた手で顔を覆い、苦しんでいたバケモノは、ぶんぶん首を振って、目を開けた。二、三度具合を確かめるように瞬きを繰り返し、視力も今、回復したと見える。


 キョロキョロ辺りを見回すバケモノと、こちらの距離は約三十メートル。俺たちは深く生い茂った茂みの奥に、体を極限まで小さくして隠れている。大丈夫。向こうからは、絶対に見えない。心臓の音が聞こえないように、心を落ち着かせて--


 間抜けなツラで、三百六十度を舐めるようにゆっくり見回しているバケモノの、真ん丸に光る紅い目が、俺たちのいる方角を捉え、そして、通り過ぎた。ほっ、と二人して息を吐く。ほとんど、音にもなっていないはずだったのに。



 バケモノの目玉がギュルンと回転して、ばっちり、目が合った。



 全身の穴という穴から汗が噴き出る。落ち着け。気のせいだ。自分に言い聞かせ、小さく悲鳴を上げた隣のハルを抱き寄せる。声を出して本当に居場所がバレたら、二人とも殺される。


 しかし、バケモノは真っ直ぐ俺たちを見続けていた。穴が空くほど凝視していた。目をそらせず、震えながら見つめ返す俺たちに、やがて化け物は--ニタァ、と嗤った。


 爆竹でも鳴らしたみたいにぬかるみが弾け飛ぶ。バケモノが、地を蹴ったのだ。短距離走選手のような、気持ち悪いほど綺麗なフォームで俺たちに向かって一直線にダッシュ、瞬く間にゼロ距離に迫る。俺たちは悲鳴もそこそこに左右に弾け、命辛々茂みから転がり出た。


 轟音。先ほどまで俺たちがいた茂みは、バケモノの振り上げた脚に蹴り飛ばされ、土ごと抉れて消し飛んでいた。俺とハルは、生きた心地がしないまま剣を抜いた。


 なぜバレた。どうすれば逃げられる。せめて、どうにか、ハルだけでもここから逃さなければ--


「こ……こい、クソ猿ッ!!」


 俺の罵倒に反応し、バケモノがこちらを向いた。しかし、粘着質に笑ったバケモノは、すぐさま背を向け、反対側のハルに狙いをつけた。


「ひっ……」


 強張ったハルの顔めがけて大剣が落ちる。とっさに掲げた左手の盾に、巨大な刃が食い込んで凄惨な金属音を奏でた。辛うじて受け流すも大きく体勢を崩されたハルに、今度は大剣を横に倒して、力任せに薙ぎ払う。血の気が引くとは、このことだ。


「ハルッ!」


 懸命に身を乗り出した俺の目の前で、ハルは大剣の一振りに跳ね飛ばされた。涙を浮かべて盾を構えた親友の姿が目の前からき消える。


 ハルが赤い木の幹に激突した音の凄まじさを聴いた瞬間、時が止まったようになった。頭から大木に叩きつけられたハルは、そのまま崩れ落ちて動かなくなった。


 うほ、うほ、とさも愉快げにえ、跳ねるバケモノは、背後の俺をなおも無視してハルの元へ向かっていく。口の端から漏れた唾液が、べちゃりと地面を汚す。俺は、思い出した。


 この世界に放り込まれた俺たちの、役割を。


「う……あぁァァァァァァッ!!!」


 瞳孔が開いていくのを感じながら、我を忘れて絶叫した。バケモノの背中に向かって無謀としか言えない突進。バケモノは、うほ、と振り返り、たのしげに口角を吊り上げた。


 バカ長い右腕をしならせて振りかぶられた大剣が、ギラリと下品な光を放つ。あの腕力が生み出す剣速は恐ろしいが、剣術としては稚拙ちせつもいいところ。ただ振り回すだけの単純な剣なら、軌道は読める。見極めろ。


 斜めに降ってきた斬撃の初動を、火の点きそうなほど凝視ぎょうしして見切り、俺は決死の覚悟で左側に前転した。頭上を風の如く刃が通過し、大地に着弾して泥を巻き上げる。


 俺も、親友も、このまま喰われてたまるか。餌にだってプライドぐらいある。一回転して両足を地面につけた俺は、一気にバケモノの懐に入っていた。ケモノ臭さにうっと息を詰め、跳躍。バケモノの顔が至近距離に迫る。赤く光る丸い目が、俺を捉えて大きく広がる。


「死ねッ!!!」


 バケモノの眉間に叩きつけた剣の重みが、右手から消えた。


 刀身の半ばからポッキリ折れた鋼の刃が、空虚にくるくる回って地面に落ちた。俺は折れた剣を振り下ろした体勢のまま、絶句し、空中で固まっていた。


 その横合いから、岩石のような拳が飛来して俺の体をぶち抜いた。


「ぃ……ギ……ッ!!」


 ベキベキベキベキ、右半身が立ててはならない音を立てる。くの字に曲がった俺の体は、振り抜かれた拳によって虫のように吹き飛ばされ、硬い木に激突してようやく失速、その場に落ちた。


 あれほど腕が長ければ、懐に入ってしまえば力のある攻撃はできないと高をくくっていた。それが痛恨のミスだ。二つある腕の関節のおかげで、やつに手の届かない場所は存在しない。


 ぬるま湯に全身をつけたみたいに、身体中が生温かい。右半身の骨は粉砕したか、どうあがいても動かせなかった。うつ伏せに這いつくばった俺は、どうにか尻だけ突き出して、芋虫のように、気の遠くなるほどののろさで、遠くに倒れるハルの元へ急いだ。


 バケモノはそんな俺を嘲笑うように、ニタニタ笑いながらハルの元へ近づいていく。やめろ。それさえ声にならない。骨と一緒に粉々にされた心は、誇りは、俺を気丈にさせてくれない。


 情けなく大粒の涙を流して唇を噛む俺の目の前で、バケモノはその長い腕を伸ばし、膨れ上がった指で、ハルの服をヒョイっとつまみ上げた。頭から血を流して気を失っているハルの体が、高々と吊り上げられ、ゆっくり、バケモノの顔の真上に運ばれていく。


 やめろ。やめてくれ。やめてください。どんなことだってしますから。ハルだけは、喰べないでください。お願いします。


 泣きながら、酸欠の金魚のように口をパクパクさせて、声にならない声で懇願する俺の様子を面白がって、バケモノは興奮気味にうほうほ嗤う。そして、顎が裂けんばかりに大口を開けて、そのおぞましい口を真上に向けた。


 イタダキマス。


 悪魔のような声で、そう聞こえた。両腕の潰された俺は打ち上げられた魚のように跳ねながら、絶叫した。


 バケモノの指から力が抜け、ハルの体が、するりと落ちる。


 バケモノの頭部が爆発したのは、その瞬間だった。


 爆音が轟き、黒煙を巻き上げ、バケモノの頭が燃える。呻いてのたうち回ったバケモノは狙いを外し、ハルの体はバケモノのそばに落下する。


 顔から地面に落ちる直前、どこから飛来したか、紅蓮に燃える火の鳥がサッと現れて、ハルの腰のベルトを咥えてさらっていった。低空を飛び、俺のそばまでやってきた火の鳥は、ハルの体を俺の隣に優しく下ろしてから、煙のように消えた。


「悪いが、それらは俺の知己ちきだ。手出しは許さん」


 朗々と、若い男の声が頭上から響いた。俺の真上の、太い木の枝の上に立っているようだ。気品と誇りに溢れた声、どこかで聞き覚えがある。


「だ……れ……」


 俺とハルを庇うように、その人物は俺たちの目の前に飛び降りてきた。純白のマントがひらりとなびいて広がる。中央に、金糸で薔薇のエンブレムが刺繍されたマントは--ギルド《白薔薇》に所属するウォーカーの証。


 こちらをちらりと振り返った少年の、炎のように赤い髪の毛は素直に整えられていて、記憶にない前髪が目の近くまで顔を隠し、べったり撫で付けたオールバックの頃に比べて尊大な印象が随分やわらいでいた。灰色がかった目だけは相変わらず鋭く、俺を涼しい眼差しで見下ろす。


「俺の顔を忘れたか、ナツメ」


「ユ……ユーシス……」


「ふん。なんてザマだ。仮にも俺に土をつけた男だろう」


 ユーシスが鼻を鳴らすと同時、バケモノの咆哮が大気を揺るがした。黒煙を振り払って姿を現したバケモノの頭は、多少焦げ付いているものの全くの無傷。


「聞きしに勝る硬さだな」


「なんで……お前が、ここに……」


 夢でも見ているような気分で呆然と尋ねた俺に、ユーシスは冷めた視線を寄越した。


「何を寝ぼけたことを言っている。俺は今や白薔薇のウォーカーだぞ。依頼続きで猫の手も借りたいほど忙しい中、わざわざ来てやったのだ」


 ぷいっと視線を逸らしたユーシスの顔は、よく見れば汗だくで、平静を装っているが、肩で息をするほどの消耗が見て取れた。


「まったく、死に損なっていたようだな。骨ぐらい拾ってやろうと思って来たというのに」


 とってつけたような憎まれ口に、くつくつ笑いがこみ上げて、全身にわずかながら、力が蘇ってくるのを感じた。


「生きていたのなら、仕方がないな。目の前で死なれてはウォーカーとしての俺の名に傷がつく。--お前たち二人とも、死ぬのは許さんぞ」

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