第1話 目覚め-2

 俺と目が合うなり少女は目を丸くして、気まずそうにはにかむと慌てて言語を変えた。


「えーっと……けがはない? 怖かったよね」


 気遣わしげにまなじりを下げてそう言うと、少女は白いスカートの前を押さえつつ怪物の背から飛び降りた。尻餅をついた俺の目の前に、音もなく着地する。艷やかな髪の毛が、清廉な香りとともにふわりと舞い上がる。


 一目惚れなんて信じていなかった。


「立てる?」


「あ……はい」


 差し出された華奢な手をドギマギしながら握ると、見た目と全く釣り合わない腕力で軽々引き上げられた。


「日本語、久しぶりに使うから、変でも許してね」


「はぁ……」


 近すぎる距離をさりげなく離してから俺は上の空で返事をした。微笑む可憐な少女の背後には、うなじから青紫色の血をどくどく流してピクリとも動かない怪物が倒れている。少し離れたところには首のない人間の死体も転がっていて、いったいどこに目を向ければいいのか、脳が迷っているみたいだった。


「私はカンナ。君、名前は?」


「……なつめ詩音しおん


「シオン君ね。年も近そうだね! 私たち仲良くなれそう」


 屈託なく笑う少女、カンナに、俺は彼女が言うほどの親近感を抱けなかった。初対面の中学生男子に、こんなストレートで純潔な物言いをする中学生女子など俺の知る限り日本には存在しない。


 この少女は、違う世界の、いや、この世界の住人なのだと思った。


「聞きたいこと、知りたいことが山ほどあると思うけど、ごめん、少し我慢して。君みたいな人が、まだたくさんいるの。助けられるか……助けられないかは、本当に時間との勝負」


 カンナは痛ましく顔を歪めて、首のない男性の死体を一瞥した。


「ひとまず君をギルドまで送るね。それまでの間、少しなら質問に答えられるから」


「ギルド?」


 訪ねた俺は不安そうな顔をしていたのだろうか。カンナが優しく笑った。


「強い人たちがいっぱいいるところ。世界で一番、安全なところ」


 行こ、とカンナが再び手を差し伸べる。その手を握れることが、このとき俺にはどれだけ幸せだったか分からない。ためらいなく伸ばした俺の手はしかし、中腹で、ピタリと止まった。


 カンナの背後で、音もなく、奴が起き上がった。


 血走った三つの目が全てカンナの後頭部を射抜いていた。極太の両腕が、今にも彼女の華奢な体を握りつぶそうと伸びてくるのがやけにゆっくり見えた。


 その時、声も出ないほどの恐怖よりも勝って、俺の全身を支配したのは何か動物的な本能だったように思う。端的な命令が頭の中を駆け抜けて、次の瞬間には体が動いていた。


 ――トドメを刺せ。


 弾けるように地面を蹴った。カンナの腰に手を伸ばし、納められていた剣の柄を握るや否や、彼女と体の位置を入れ替えるように旋回。ぬかるんだ土を踏みしめ、回転の勢いそのままに剣を抜く。見開いた両目は、ぐるりと回る視界の中でもずっと怪物を捉え続ける。


 短く悲鳴をあげたカンナの頭を支えて屈み込み、怪物の伸ばした両腕から逃れると、記憶にないほどの声量で叫んだ。死ね、と。力任せに叩きつけた白銀の刃が、硬く重い手応えごと怪物の首をぶった切った。


 勢い余ってぬかるみを滑走し、剣をマサカリのように振り下ろした格好で停止した俺の呼吸が、思い出したように早まる。背後で重たいものが崩れ落ち、生命の途絶える気配がした。


「あ……ありがとう」


 俺の肩越しに、怪物が今度こそ絶命したのを確認したカンナが、呆けた声でそう言った。その声はほとんど俺の耳に届かなかった。


 肉を断つ感触が頭から離れない。脳に、得体の知れない、気持ちいい物質がドバドバ分泌されて、おかしくなりそうだった。


「……っ!?」


 思い出したように、俺の体が前につんのめった。勢い余って、剣がぬかるみに突き刺さる。


 細身な外見とは裏腹に、カンナの剣はとんでもなく重かった。鉄製の物干し竿でも握っているかのようだ。さっきはよくもあれだけ振り回せたものである。


 両手でふんばり、腰を入れてどうにか持ち上げ、名残惜しさを感じながらカンナに剣を返した。カンナはひょいっと片手で受け取り、手ぬぐいで血液を拭き取ってから鞘に納めた。


「ごめん、まさか助けられちゃうなんて。ちゃんと死んだの確認したつもりだったんだけどなぁ」


 弱ったように頬をかいて苦笑し、それからいわく疑わしい目つきを俺に寄越した。


「……この世界に来たのって、今日だよね?」


 慌てて頷いてから、俺は両手をブンブン振った。


「い、家が剣術の道場で! て言っても、さっきのは自分でもよく覚えてないっていうか……」


 なつめ家は鎌倉時代より続く、それなりに名の通った剣術家の一族だ。時代とともに廃れ、今では近所の小、中学生が「習い事」で通うようなクラブチームにまで成り下がってしまったが、跡取り息子である俺ばかりはお気楽な剣道をするわけにもいかなかった。


 物心ついた時から父に木刀を握らされ、学校の時間以外はほとんど稽古の毎日。八歳で真剣を渡されると、本格的に棗家秘伝の殺人剣を叩き込まれた。まったく時代錯誤もはなはだしい。おかげで恋人はおろか、ろくな友人も作れなかった。


 甲斐性のない俺は、頻繁に稽古を抜け出したり試合でわざと負けてみたりと、最近はささやかな反抗期に突入していたところだったが、剣の扱い方はすっかり体に染み付いてしまっていたようだった。


 それでも、動揺しないではいられない。


「……生き物なんて、初めて斬ったな」


 恐ろしかった。生き物を殺したことが、ではない。生き物を殺して、気持ちいいと感じてしまった自分がだ。


 震えの収まらない俺の手を、そっと小さな温もりが包み込んだ。


「君が斬ってくれなければ、私が死んでいたよ。だから、ありがとう。君は命の恩人だね」


 それはお互い様だろう、ぐらい言いたかったが、手を握られた動揺のあまりろくに言葉も出なかった。


「走れる? 急いでギルドに戻らなきゃ」


 色んな感情を押し殺して俺は頷き、「行こう」と言って駆け出した彼女の背中を追いかけた。

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