第1話 目覚め-1

 目を覚ますと、真っ赤だった。


 それが空の色だと、すぐには気づけなかった。赤い空を見たことがあるだろうか。夕焼け? あれは良くてオレンジだろう。もっともっと、絵の具のように真っ赤な空だ。


 目を開けた俺の視界いっぱいに、それが広がっていた。


 鮮血を煮詰めて作ったような、ドロドロの、濃密な、赤。雲ひとつ、月も、太陽さえ見当たらない。それでも一目見た瞬間から、それは空にしか思えなかった。果たして空の定義とは、なんなのだろう。


 喉がカラカラに乾いていた。


 俺は伸び放題の雑草の上に、仰向けに横たわっていた。辺りは背の高い木々に囲まれ、ちょうど俺の周辺だけ森が拓けて、赤い空をぽっかり丸く切り取っている。


「……どこ?」


 ようやく声が出たと思ったら、内心の割に随分軽薄だった。本当に焦っている時のリアクションは、案外面白味に欠けるらしい。


 体を起こし、自分の状態を確認する。下着同然の寝巻き姿。真夏の東京でクーラーのない生活だから、別におかしくない。おかしいのは、ここがどう見ても東京ではないということの方である。


「どこだよ、マジで……言葉ことはー?」


 ぶんぶん辺りを見回し、縋るように妹の名前を呼んだ。続いて父を呼ぶ。反応してくれた者はいなかった。そもそも、人の気配が全くない。


 思い出したような寒さに、俺は縮こまって体を抱いた。気温で言えば東京の晩秋と言ったところだが、吹き下ろすような風にあおられ、体感気温は真冬並み。今は八月、北海道でももう少し暖かそうなものだが。


 まだ体が冷え切っていないことを考えれば、俺がここに転がされてからそう時間は経っていないはず。


 誰が? なんの目的で? わけがわからない。俺に分かるのは、せいぜいこれが夢じゃないということぐらいだった。俺は立ち上がり、声を張り上げた。


「すみませーん、誰かいませんかー?」


 呑気な声が、森に虚しく反響した。返事をしてくれる者はない。さすがに不安になってきた。


 躊躇われたが、ここにいても仕方がないと、一思いに森へ足を踏み入れた。ぬかるんだ地面が裸足に絡みついて気持ち悪い。それでも焼け爛れたような空の光が木々に遮られて、少しだけ心が安らいだ。


 森を歩きながら、この状況について考える。一般人巻き込み型のドッキリ番組? 誘拐? なにかの陰謀? 家が多少特殊なので、怖い組織に狙われる心当たりは正直なくもないのだが、それにしたって浮世離れした空だ。


 その時。かすかに、太い男の声が、俺の鼓膜を震わせた。その瞬間、俺は弾かれたように走り出していた。


 人だ。俺以外に人がいたのだ。それだけで、迷子が母親でも見つけたような気分になった。俺は顔を輝かせて、声の方角へ遮二無二走った。


 泥を跳ねながら一歩地を蹴るごとに、人の気配が確かになっていく。正面に、木々の拓けた空間に差し込むうす紅の光が見えた。森の終わりだ。そこ目掛けてスピードを上げると一気に気配が濃くなる。近い。俺は一息に森を突破した。



 無意識に上がっていた口角が、その光景を目にした瞬間縫いとめられて、不自然に固まったまま、上がった息さえ殺された。


 そこにあったシルエットは、縦にも横にも俺が期待したものの倍大きかった。


 深緑色の体毛に覆われた筋骨隆々の胴体に、乗っかった岩石を思わせる頭部。真紅の瞳に黒い強膜きょうまくという異質な目がそこに"三つ"貼りついている。三つ目であること、大きすぎることなどを除けば、ゴリラによく似た姿の生物だった。


 そいつが、節くれだった巨大な両手で大事そうに握り締めているものの正体に気づいて、俺は掠れた悲鳴を漏らした。人間だ。小太りの男だった。


 俺はその人に用があるのだ。


 ひしゃげた黒い鼻をすんすん動かし、地鳴りのように呻きながら、巨大な怪物はジタバタもがく男を頭上に掲げてしげしげと物色していたかと思うと、三つ目のうち、一つだけをギョロリとこちらに向けた。


 それだけで、俺の足と背筋はその場に縫い付けられ、一寸たりとも動かなくなる。


 やがて、俺にとって気の遠くなるような時間が過ぎた頃、怪物はのろりと大口を開け――手羽先をかじるような気楽さで、男の肩に歯を突き立てた。


 絶叫。硬い肉の裂ける音。男の肩口から噴き出した鮮血が、真紅の雨を降らせた。びちゃびちゃと音を立てて血と泥が混ざり、酸っぱい鉄の臭いが広がる。


 怪物の手の中でもがきながら、血まみれの男は、ふと初めて俺の存在に気づいたようにこちらを向くと、飛び出した眼球を動かして、声になっていない声でごく短く泣いた。


 痙攣するように手を伸ばしかけた瞬間、怪物の顎が男の首筋に食らいついて、彼の顔が一瞬、グニュっと倍近く肥大した。


 パン――風船がはじけるような音だった。


 追加された赤がたっぷり溢れて、視界を一色に塗り潰す。地に伏した首のない胴体から、壺を倒したように液体が溢れて大地を染めていく。


 ストン、と景色の高さが一段落ちた。腰を抜かしたのだとすぐに気づけなかった。僅かに意識が帰った途端たまらず嘔吐おうとした。


 地面を虚ろに見つめて喘ぐ俺の、目前の泥が跳ねる。骨を砕く咀嚼そしゃく音と、低く荒い鼻息がすぐそばで響く。顔を上げることもできなかった。


 怪物の右手が、瞬間、目にも留まらぬ速さで閃いて俺の体を地面から毟り取った。


「ああぁ……ッ!!?」


 悲鳴さえ満足に出ない俺を、万力のような握力で握り締め、ゆっくり顔の高さに掲げる。


 醜悪な顔がぐっと近づき、ぎょろぎょろ動く三つ目に至近距離で物色される間、耐えがたい悪臭が吹きかかった。怪物が口を開くと、粘り気のある唾液が糸を引き、赤黒いミンチがその奥に垣間見えた。


 気が遠くなりかけたそのとき、世にも美しい音を聞いた。


 それは、幼少の頃より幾度となく親しんだ音で、細胞が記憶していると言ってもいいほど馴染み深いものだったから、今にも体を離れていくところだった魂を揺さぶり、俺をハッと我にかえらせた。


 聞き間違えるはずがない。上質な刃が鞘の鯉口こいぐちを滑る際の、果てしなく突き抜けて響くような抜刀音。俺の知るものよりも硬質で、甲高く、研ぎ澄まされていた。


「――ハァッ!!!」


 裂帛れっぱくの気合と共に、怪物の背後から一条の光線が横切った。怪物の三つ目が一様にひん剥かれ、にごると、途端に俺の体を握る力が緩んだ。


「痛っ……!」


 ぬかるみの上に尻餅をついた俺の前に、間もなく巨体が沈んだ。地に伏した怪物の背に、小柄なシルエットが立っていた。白い装束を風になびかせ、長剣を怪物のうなじに突き立て、威風堂々いふうどうどうと。


「……Are you hurt?」


 流暢りゅうちょうな英語を操った命の恩人は、俺と同じくらいの、日本人の女の子だった。

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