Create Friend

蒼木 空

短いようでとても長かった2日間

喜怒哀楽 前編

 --すっきりと整った、暗い部屋。


 開いた窓を覆う、風に揺れるカーテンの下から、ちらちらと月光が漏れる。

 本棚には色とりどりの厚い本。

 どれも常人には読めそうにない。

 部屋の隅には人の身長くらいの高さに積み上げられた紙のタワーがあり、ニューヨークのビル街を表しているかのようだ。

 その紙1枚1枚には化学式や計算式、理論などが殴り書きされている。

 そんな窮屈な部屋の中に一つの色とりどりの付箋まみれの机。

 その場所はライトで照らされていて、その中で彼は腕を組み、伏せって寝息をたてている。

 開いた窓から流れる夜風が涼しそうだ。

 その組まれた腕の下には「設計図」と書かれた、たった5枚の紙。


 彼は夢を見ていた。


 父と母が立っている。


 父が口を開き一言、すまんな、と呟いたように聞こえる。


 母も口を開いて、ゆっくりとこんなことを言った。


「あなたが未来を作るのよ」


 彼にはまだ、その意味は分からないだろう。


 --夜が明け、朝の鳥が鳴いた。


「ほべ?」

 彼は腑抜けた声を出し、頬にテープのように張り付いた紙をぺりぺりと引き剥がしながら、机から顔を上げると、頬を伝う温かいよだれが、「設計図」に全体的に侵食していたこのに気づいた。

「やばっ」

 彼は慌ててティッシュを探す。

 見つからず、パジャマの袖で「設計図」と書かれた紙を擦る。


 もちろん破れる。


 無残にも引き裂かれた紙を見ると、読めないくらいに破けていたのは5枚あるうちラストページだけだった。

「ラストページにはなんか大事なこと書いたっけ……?」

 彼は一人つぶやきながら、机に張り巡らされた付箋を目で追う。


 やっぱり見つからない。


 ということは、ラストページに書いてあることはそんなに重要な事ではない、ということなのかもしれなかった。

 彼は安堵した。




 彼の家は大きな和風の家だ。

 庭にはたくさんの木々が生え、プレハブ小屋が置いてある。


 

 彼はリビングへ行き、ソファに座り込み、テレビのリモコンを鷲掴みにすると、電源ボタンを押した。

 テレビの横に飾られた写真に目を移す。

 手前には花が供えてある。

 写っているのは、彼とその彼を抱く二人の大人。


 彼はため息をついた。


 彼はリモコンでチャンネルを変えて、朝のニュース番組にした。

 すぐ立ち上がり、キッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開けて、叔父が作ってくれた残りのカレーを取り出す。

 

 朝のニュース番組を見ながら温まったカレーを口の中へ放り込むと、皿を洗い元の場所へ片付けた。

 歯磨きをしてパジャマを着替え、テレビを消す。

 彼は家の鍵を持って、火を消したこと、電気を消したこと、テレビの電源を切ったこと、窓の鍵を閉めたことを思い出し、ガラガラと引き戸を閉め、鍵をかける。

 それをポケットに入れて店に向かった。


 彼はこの日、珍しく長い時間外出をしていた。

 約30分おきに、破れそうなほど詰め込まれた大きなホームセンターの袋や、工具の山などを抱えてプレハブ小屋に置きに戻ってきた。


 彼がホームセンターから帰還し、プレハブ小屋に閉じこもったかと思うと、すぐに奇妙な音が辺りに響き渡り始めた。

 板になにかを打ち付ける音や、電動ドリルか何かが作動する音や、熱々のフライパンに水滴を垂らした時のような音、さらには黒板を引っ掻くような音も。

 通る人が思わず立ち止まる異様さがあった。






 --辺りの林にひぐらしが聞こえ始めたころ。


 彼は顔中を真っ黒にし、軍手をはめたままプレハブ小屋からよろよろと出てきた。

 彼は背伸びをしたまま、長い間ひぐらしの甲高い音に耳をすませていた。


 プレハブの中の大部分は散らかっていた。ネジやボルト、切り抜かれたプラスチック板、糸ノコギリや電動ドリル。

 小屋の中心には彼の身長ほどあるプラスチック板で覆われた、ランプがいくつも点滅している大きな箱がある。

 その箱の後ろからは数え切れないほど多くの大小様々なケーブルが繋がれている。

 彼はプラスチック板の前に腰に手を当て、仁王立ちした。

 涙の滲む目を瞑って過去のことを思い返す。


 --3年前のこの日、彼は交通事故で両親を亡くした。彼は14歳だった。


 両親の仕事の都合で、なかなか行けないでいた旅行に出かけていた彼らだったが、その日はごく稀な豪雨の日だった。


 初めての旅行、初めての温泉、初めて見る山頂からの景色。

 彼にとって最高の体験だった。


 父親と母親も笑ってはいるが、そんなに楽しそうには見えない。日々の研究の疲れが出ているのだろう。

 父親に至っては変なことを考えていたのか、鼻血を出していた。

 母はもっと酷い。

 風呂上がりにブラシを使った時、自慢の長い黒髪がごっそり抜けたのだ。

 そんなにストレスな仕事ならやめてしまえばいいと頼んだが、未来のため、と訳の分からない事を言ってはぐらかされてしまった。

 彼はこの旅行でそのストレスが少しでも減ってくれていたらいい、と思っていた。


 帰り道、彼の父親はいつも通り、ハンドルを右に切った。


 --しかし、曲がり切った後、前から来る壁のような居眠り運転のトラックに翻弄され、左に切ってしまった。


 左は崖。

 

 車は横になり、崖を3回ほど転がって地面にごしゃりと、リンゴを潰した時のような音をたてて潰れた。


 彼は気を失った。


 次に目覚めたのは病室のベッド。

 彼は奇跡的に軽傷で助かり、2日目には一人で立ち上がれるようになっていた。

 だが、彼が立ち上がっても、見えたのは過酷な現実だった。

 彼は院長に伝えられた。


 --両親はもういない、と。


 そのことが彼に与えたダメージは大きく、退院してからというもの、完全に部屋に閉じこもってしまった。

 それを聞きつけた叔父やその娘、友達が何度も家に訪れ、掃除をしに来たり彼を元気付けようと外に連れ出そうとしたが、彼のを破るのはそう簡単ではなかった。

次第にその数も減っていき、彼は本当の一人になった。


 そんなある日、何を思ったのか珍しく部屋から出てきた彼はテレビをつけた。


 なぜかは分からない。


 そのテレビに映ったものは、よく平日の昼にやっている古い洋画。

 今週の映画は、ロボットが人間との関わりを通じて、感情を手に入れていく物語だった。

 CG技術や、俳優の演技は最低だったが、彼は不思議とその映画に引き込まれていった。

 だが、何を思ったのか彼はすくっと立ち上がり、その映画の結末を見ずにテレビの電源を切り、頬を思い切りバシバシと叩いた。

「よし」

 その言葉を皮切りに、次の日から、彼はある特定の分野の本を図書館で、その他の技術を両親が残したという権限を使って全て集めて回った。


 「設計図」を集めるのにそれほど手間はかからなかった。





 --そして今に至る。


 彼は無言で、腰に当てていた手をプラスチックの箱の四角に貼られたダクトテープに当て、上から一本ずつ剥がす。

 剥がした隙間からちょろちょろと白濁した液体が漏れ出すした。

 中の水が全て抜けると、彼はプラスチック板を少し横にずらし、取り外した。

 中にのは、人だった。正確にはアンドロイドだ。

彼は、両親の研究や本の知識を集結させ、これを作り出した。


 彼は改めて、自分が作り出したそのアンドロイドを見た。


 女の体つきに、透き通るような肌、細い腕、ツヤのある体からすらりと伸びた足。

 腰まで伸びた茶色く長い髪の毛が顔を隠している。


 彼は女が欲しかったわけでなく、ただ設計図通りに設計しただけだ。


 そのアンドロイドは、目を閉じ無表情のままだった。

 誰がどこから、どんな角度からどう見ても、アンドロイドは人間にしか見えなかった。


 彼は、仕方ないとそのアンドロイドに抱きつくような体勢でうなじの機動スイッチを押した。


 その時彼は思った。

 このアンドロイドは、俺のこの孤独な状況に対してどう思うのだろう?

 馬鹿にしてくるのでは?

 哀れに思われて逃げられてしまうのではないか?

 彼は少し躊躇したが、スイッチはもう押していた。


 ……

 …………

 ………………

 人工知能作動確認、グリーン

 音声プログラム、イエロー

 声帯振動プログラム、グリーン

 映像認識プログラム、グリーン

 色覚認識プログラム、グリーン

 味覚認識プログラム、グリーン

 聴覚認識プログラム、グリーン

 嗅覚認識プログラム、グリーン

 擬似筋肉組織動作確認、グリーン

 擬似関節可動確認、グリーン

 四肢動作確認、グリーン

 表情変化プログラム……レッド

 感情変化プログラム……レッド

 予期せぬエラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー……

 ……

 


 は、重たい瞼をゆっくりと開いた。黒い瞳。


 彼女はこの薄暗い部屋を見回した。


 彼女は自分が何なのか聞こうとしたが、うまく声が出ないようだ。

「わ……たし……は?」

「へ?」

「わたし……は……何?」

 彼はまだ、アンドロイドの名前を決めていないことを思い出した。


 音声プログラム、オールグリーン


「ぎ、き、決まっていないのなら、私が決めます

 何か暖かいものに包み込まれるような、優しい声だった。


 彼は少し考えてから言った。

「いや、俺が作ったから俺が責任持って決めるよ。納豆とか」

「…………」

 彼女は無反応だった。


 あれ? と彼は思った。

 ジョークを言ったつもりだった。見つめられているだけで何も反応がない。


 彼はもしや、と思いアンドロイドの状況を確認することにした。

「ちょちょっと背中見せて……べ、べべ別に、変なことしようとか! 思ってないから!」

 彼は焦って言ったが、彼女は無表情なままだった。そして背中の右の肩甲骨を思い切り手で押し込んだ。


 押された身体に茶色い髪が少し揺れる。


 すると、背中の皮膚のが開いた。彼はそこに埋め込まれたモニターを確認し、「感情」が無いことを確認すると、苦笑を浮かべる。

「あらま」

 そしてその瞬間、あの5には感情の入れ方が書いてあったことを思い出した。

「しまったな……」

 だが、もうどうしようもないほど最悪な状況、というわけでもない。

人工知能が内蔵されているから、感情くらい自分が教えてやれる、と彼は頷いた。


 だがどうだろう、ほんの数年前まで絶望の感情しか持っていなかった不器用な彼にそんなことができるのか。


 彼はそっと背中の扉を閉め、彼女に聞いてみた。

「えっと、名前なんだけど……」

「それを決めることに意味はあるのですか?」

 彼女は無表情のまま、言った。

 

 彼はふと思いついた。

「なら今、夏だし、ナツだ! そんで苗字は俺の四月一日わたぬきで四月一日ナツ!」

「いいんじゃない? とナツは思っています」

 彼は肩を落とした。

「最後の、思うはいらないし、そこはわーいとか喜んでほしい」

「誰かさんに感情をプログラムするのを忘れられたから、かしら」

 彼ははギクリ、とした。アンドロイドに嫌味を言われるとは思っていなかったからだ。


 口調が変わっていくのは、ナツ自身がインターネットで様々な言語情報をインストールしているからだ。




「あなたにも名前、はあるの?」

「俺はれん。これから俺たちは友達になるんだ、よろしくな。手、出して」

 ナツは言われるがままに手を出した。

「こうやって手を握って仲を深めるんだ。これを握手、と言うんだよ」

「データベースに記録」

「あ、ありがとう」


 蓮は調子に乗り、胸のバスドラムの演奏をバックに、美人をダンスに誘う伯爵のように手を引いた。

 ナツは長い髪を揺らしながらプラスチックの台から重い一歩を踏み出した。


 蓮はそのプレハブ小屋から外に出ようとした。

ふいに、ぐいと強い力で引っ張られる。

「な、何、どうしたナツ?」

「まさかとは思うけど、この汚い部屋の状態を放っておくんじゃ無いわよね?」

 一瞬だったが、ナツの瞳の色が赤色に染まった。


「あ、あとで片付けるよ!」

 無理やり手を引こうとするが、全く動かない。

ナツが重すぎる。

「後で、っていつ?」

「あ、明日明日!」

「分かったわ、明日ね」

 気の強い友達だ、と蓮はため息をついた。


 プレハブ小屋を後にし、外に出ると既に日が沈んでいた。

「暗いのだけれど」

「これは夜っていうんだ。自転の関係で太陽が……」

「今、ネットで調べたわ」

「あ、うん。それで、暗くて見えるかどうか分からないけど、ここが俺たちの家な」

「暗視補正オン……見える」

「それは良かった」

 ナツは首を右、左と家を見回した。その後すぐ、自分の右腕を出して腕時計を見る格好をした。

「なった」とナツが一言。

「え?」

「蓮が言った、になった、と言ったの」

「おお、初めて名前を呼んでくれた……なんちゃって」

 ナツは無表情だったが、どこか悪魔のような笑みをこぼしているようにも見えた。

「あとかたづけ」

「嫌だ」

 

 今度ははっきりと、ナツの瞳が血のような赤色に染まって光った。

 

「後片付けすると約束したでしょ!」

 蓮はしりもちをつきそうになった。

「ま、待てナツ! 今どんな気持ちだ?!」

「どんな気持ち? と聞かれたら、ネットで拾った言葉を使って言うと、イライラ……する」

 ナツの瞳は赤色のまま、首をかしげた。

「よし! ナツ、それは怒りと言うんだ、やったな! 感情の一つ目を覚えたぞ!」


 蓮は大きくガッツポーズをした。

 作戦第一段階は、ナツ自身が? 助かったようだ。

 このまま蓮は「喜怒哀楽」を覚えさせる事にした。


 --ぶぉん。


 瞬間、何かが蓮の目の前を横切った。

 暗さに目が慣れ始め、見えたのはナツが拳を振り切ったような姿で、目の前を横切ったのはナツの殺人未遂パンチだった。

 蓮は足がすくむのを感じ「え?」とたった一言絞り出した。

「あらごめんなさい、あなたが手を突き出しているその謎の行為が無性に……無性に……えっと、こういう時ってイラついた、でいいのかしら?」

 蓮はすくむ足を抑えながら立ち上がって言った。

「……合ってるけど、なんでだよ」


 本当に、だ。


 なぜ最初に怒りの感情なんか覚えさせようと思ってしまったのだろう?

 喜びとか楽しみの方がよっぽど良かった。

 だが、俺にはここ数年この引きこもりを叱ってくれるような人には会っていない。

そういう意味では大成功とは言えずとも、成功と言えるくらいの価値はあるだろう。


「今色々とネットで検索して知ったのだけれど」

 ナツは蓮の首から足を二、三度見ながら言った。

「うん」

「人間は服、というものを着るらしいわね」

「…………あっ」

 蓮は、周りが暗くて気付いていなかったが、ナツはプレハブ小屋から出てきてからずっと裸だった。

アンドロイドなので、蓮はそういう部分は細かく再現していなかったが……

 蓮の顔がリンゴのように赤くなる。

 ナツはそれを見逃さず追求する。

「服、が欲しいのだけれど……ってなぜ顔を赤くしているの? もしかして私が服、を着ていないことと関係があるの?」

「だーっ、言うな言うな! とりあえずついてこい!」

 蓮は目一杯開いた両手をナツの目の前で振り、ごまかしながら家へ誘導した。

 蓮は扉の前で立ち止まった。

「家、に入らないの?」

 蓮はズボンについている左右のポケットを優しくぽんぽん叩いた。

「…………ない」

 と、言いながらナツはポケットを叩いている蓮の前に立ち、扉とにらめっこしている状態になった。

 無表情だが。


「お、おい何して……」


 --ばぎぎょ。


 ナツが扉の取っ手を掴み、鍵が掛かっているにも関わらず思い切り横に引いた。


「な、何してるんだよナツ!」

「扉、開いたわよ? 入らないの?」

 蓮はポケットを叩くのをやめ、しぶしぶと不法侵入者と共に家の中に入っていった。

 後ろを振り返り、扉に哀れみと悲しみの表情を向けた。


「あ、あった、俺の母親のだけど、まだナツくらいの年齢でも普通に着れる服だな」

 蓮はクローゼットに突っ込んだ頭を引き抜いて言った。

「ありがとう」

 ナツは無表情で言った。そして目を閉じたままの蓮から渡された服を着ようとする。

「ま、待った」

 蓮が止める。

「服の着方くらい今調べたから問題ないわよ?」

「そ、そうじゃない!」

 蓮はそう言うと、そそくさとナツのいる部屋から出て行った。


「人間とは変なものなのね。インターネットで情報を網羅している私が着替え方を間違えるわけがないわ」


 ナツはズボンに頭を突っ込んだ。



「終わったか?」

「ええ」

 ナツは、ズボンを頭に、上のシャツを

「似合う?」

「…………」


 蓮の腹が鳴った。

 ナツがきょろきょろと辺りを見回す。

「今の音は何?」

「俺のお腹が鳴った、腹が減ったんだ」

 お腹をさすりながら言った。

「蓮の腹は減っていないように見えるけど」

「そういう意味じゃないんだ。とりあえず服を逆に着直してから、俺について来て」

 ナツが蓮について行くと、キッチンへ着いた。

「何、ここ」

「キッチンだよ。料理をして減ったお腹を満たすんだ」

「データベースに記録」

「ナツは何食べるんだ?」

 ナツは首を傾げた。

「分からない」

「……とりあえず、椅子に座って」

 ナツはまた、きょろきょろと辺りを見回し、椅子を見つけて座った。


 --めきし。


 これは、ナツが椅子を見つけて座った瞬間、ナツのに耐えられず椅子が潰れた瞬間の音だ。


「何見てるの?」

「いや……なんでもない」


「ほら、できた」

「こんなネジを灯油で浸したのなんて食べたくない。人間の食べ物がいい」

「ワガママなだ」

 そう言いつつも、蓮は冷蔵庫を開いた。

「うーん、俺が暮らすための最低限度の食い物しか入ってない」

 蓮の後ろからナツが冷蔵庫を覗き込み、数秒確認した後、一つの食べ物を鷲掴みにした。

「これ、食べたい」

「これ納豆だぞ」

 俺が嫌いだとも知らずに叔父さんが買ってきてくれたものだ。

「蓮も食べるでしょ?」

「ぜっっっっったい嫌だ。でもそれは人間が食べるものだ」

「ならこれにする。どうやって食べるの?」

 蓮は渋い顔で白いパックを開け、醤油をかけて納豆の食べ方を教えた。

 ナツはぎこちない箸の持ち方で納豆を2粒だけつまみ、口に入れ、噛んで飲み込んだ。

「……納豆どう?」

「…………」

 ナツは無言のまま今度は白いパックを口に運んで納豆を口に全て放り込んで、口を大きく動かした。

「ままし、ごめむみめむ」

「飲み込んでからな」

 ナツの口から白いパックに細い糸が引いている。

「これ美味しい」

 ナツは無表情で言った。

「本当かよ……よくそんなもん食えるな、腐った豆だぞ?」

「なるほど、豆を腐らせればこれが作れるのね。データベースに記録」


 その後冷蔵庫にあった納豆を全てたいらげたナツは、潰れた椅子の上で空気椅子をしたまま動かなくなった。

「もう2時か……」

 蓮は、ナツに午前2時になると自動的にスリープモードになり、情報整理や取得といった落ち着いた時間を過ごす機能を付けていた。


 --ふと気がつけば朝。


 テーブルの上によだれの湖を作っていた蓮は、眠い目をこすりながら椅子から立ち上がる。

 隣を見て、ナツがいないと知ると、そのついでに時計を見る。

 午前11時。

 後ろを振り返ると、いた。

「……なにしてんの」

「準備」

「え?」

「遊園地」

「ん?」

「……今ネットで調べたのだけれど、私に足りない感情の嬉しさと楽しさを覚えるのに最適な場所と思った、から」

 蓮は遊園地に行ったことなんてない。

 両親は研究ばかりで連れて行く暇なんて無く、友達はできる前に学校に行かなくなった。

 だがナツはその友達だ、遊園地に連れて行くのもいいかもしれない。

「分かった、行こう」

「ええ」

「ちょっと待ってて、準備してくる」

 ナツは潰れた椅子の上で空気椅子をして待った。




 --その少し後、蓮の家に一人の謎の男が訪れていた。




「電車を降りる方はー右手のドアをご利用くださいー」


「ナツ、降りるぞ。それを隠して」

 ナツは引きちぎられたつり革をカバンにそっと隠し、その電車を降りた。

 

「遊園地には納豆はあるの?」

「ない。あったらそれはもう納豆パークだろ」

「私納豆パークに行きたい」

「無理言うな」

 あるかどうかも分からないだろ、と彼は思った。

 納豆のことを考えるとどうしてもあの匂いを思い出して顔が引きつってしまう。


 2人はゲートにいた係員にチケットを渡し、遊園地の中へ入った。

「どれから行くか」

「納豆があるところがいいわ」

「ないから。最初は無難にメリーゴーランドかな」

「プラスティックの模型に乗って回転するやつね」

「言い方」


 遊園地に入ってすぐ、右手にメリーゴーランドがあった。

「ほら、そこから入ってあの台座の上の馬に乗るんだ」

 蓮はそこで、はっと恐ろしいことに気がついた。

 このメリーゴーランド、ナツの重さに耐えられるのだろうか?

 ナツを止めようとしたが、もう手遅れだった。

 ナツは台座の上の馬にまたがろうとする。

「待っ……」

 ナツは蓮をちらりと見ると、右手でグッドサインをして静かにまたがった。


 この日の気温は35度。


 蓮の背中に一滴の冷や汗が流れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る