第一章 とれたて花火と夏祭り 5
これはあなたが記憶を失う前の話です。
喜一郎さんがその話を持ち掛けてきたのは、わたしが青春ミッションの『記憶』について話をしたあとのことでした。青春ミッションをクリアした際、何かしらの記憶を失う場合がある、とは先ほど説明しましたね。同じ説明をしたときの話です。屋上前の踊り場で、三人で昼食を取っていたときでした。
灯里さんがトイレに席を立ち、ふたりきりになったとき。喜一郎さんはしばらく考え込んだあと、おもむろに口を開きました。
「……小春。ちょっと訊いておきたいんだけど。もしかして、この青春ミッションに関することをすべて忘れてしまうことってあるのかな」
「ありえない話ではありませんね」
わたしが答えると、喜一郎さんは再び考え始めました。どんな記憶が奪われるかはわたしにもわかりませんが、喜一郎さんの言う通り、青春ミッションに関することをすべて忘れることもありえます。実際、あなたたちは今そうなっていますからね。
「もし全部忘れてしまったら、小春はもう一度、僕たちに青春ミッションについて説明をしてくれるの?」
「そうですね。きっと最初から、またあなたたちに説明すると思います」
何せ、記憶を失っているのですから。再び説明しなければならないでしょう。面倒ですが。
喜一郎さんはそれを聞くと、恐る恐ると言った具合に口を開きます。
「あの、小春。ものは相談なんだけど、僕のお願いを聞いてくれないかな」
「内容によります」
あなたは困ったような顔をしましたが、とうとうと話し始めました。
「もし、僕たちが青春ミッションに関する記憶を失い、君が再び説明することになったのなら――そのときは、山吹さんに呪いの原因を隠してくれないかな」
「………………」
言葉の意図が読めませんでした。喜一郎さんにどんな狙いがあって、そんなことを言っているのか。灯里さんが呪いを受けたのは、男たちを拒否しすぎた結果です。負の感情を集めすぎたせいです。それを隠したとて、喜一郎さんにどんな得があるというのでしょう。
「山吹さんさ、あれから男子とは距離を取っているみたいなんだよ。あまり仲良くしないようにしてるっていうか、ちょっと怖がっているっていうか。それもしょうがないと思うんだ。交際を断わっただけで、呪いが生まれるほどの感情をぶつけられていたって知ったら。知らなくていいなら、知らないままでいいと思う」
喜一郎さんは淡々と言います。わたしは首を傾げました。わざわざそうする意味がわからなかったからです。
「そちらの方が喜一郎さんは嬉しいのでは? 灯里さんが信用できる男子が喜一郎さんだけ、という状況になれば、悪い気はしないでしょう」
何せ、相手は世界一かわいい女の子ですからね。ほかの男子を怖がっていても、自分だけを信用してくれるというのは、魅力的な状況ではないでしょうか。
けれど、喜一郎さんは首を振ります。
「いや、山吹さんには素直に笑っていてほしいよ。自分の下心を優先する気は起きないかな。そういう状況になったらでいいから、僕のお願いを聞いてくれると嬉しい」
「考えておきましょう」
約束するとは言えませんし、言う義理もありません。喜一郎さんもダメ元で言っているのがよくわかりました。まぁ呪いの精霊にお願いなんてするものじゃないです。呪いですからね、わたし。
ただ、そのあとに「それと、呪いを放っておいたらどうなるかってやつ。あれも隠しておいてくれない?」と言われたのは、さすがに見過ごせませんでした。
灯里さんの〝不干渉の呪い〟。今はその力を抑えられていますが、あれが解放された世界を灯里さんは既に見ています。ありとあらゆるものに干渉できない、死の世界。干渉できなくなるのは物に留まらず、人に触れることも認識されることもできず、地に足を着けることも許されない。幽霊のように宙をさまよい続ける。
それが呪いを受けた者の末路。あれを知っているからこそ、青春ミッションに挑む気になるというもの。
ミッションをこなすのは喜一郎さんの仕事とはいえ、その協力者に灯里さんは不可欠なはずです。灯里さんが状況を楽観視するのは望むところではないでしょう。
けれど、喜一郎さんは何てことはないように言います。
「僕だけが知っていればいいことだよ。山吹さんが困っていたら、僕は助ける。それは多分揺るがないから。無意味に山吹さんを怖がらせる必要はないし、楽観するならそっちの方がいい。ミッションをこなすのは僕だ。僕が頑張ればいいだけの話だから」
「そんなことを言っていたのか。僕は」
小春の話を聞いて、何だか不思議な気持ちになる。全く覚えていない。記憶を奪われているのだから、当たり前なのだが。まるで他人の話を聞いている気分だった。
なぜだろう。妙に照れくさい。それは覚えていないからなのか、内容が内容だからなのか。僕は頬を指で掻きながら、軽口のように言ってしまう。
「……なんというか。記憶を失う前の僕、ちょっと格好つけすぎじゃない?」
率直な感想がそれだ。正直に言えばそう思った。灯里ちゃんがいない場で、彼女のために動こうとしているところとか。嫌なところを自分だけで抱えようとするところとか。
「いいんですよ、格好つけでも。高校生の男の子なんてそんなもんです」
「……否定はしてくれないのね」
感情のこもっていない小春の言葉に、ため息が漏れる。いやいや、普通に恥ずかしい。僕はどんな顔で言っていたんだろうか。
僕は机に肘をついて考えた。僕の格好つけは成功している。〝青春の呪い〟について、状況がここまで深刻だとは思っていなかったし、灯里ちゃんだってそうだろう。楽観視していた。『青春ミッションは必ずクリアしなくてはならない』という危機感は今、僕にだけ沸いている。
「もちろん、本当のことを言ってもいいと思いますが。本来、これらはすべて灯里さんひとりが抱えるべきことですからね」
小春は言う。灯里ちゃんに事実を言えば、彼女は僕と同じように危機感を持つ。その代わり、灯里ちゃんは心にダメージを負うだろう。今まで通りではいられない。
……それは、あまり考えたくない。
「……いや、いいよ。やることは変わらないわけだし。灯里ちゃんを僕が助けるっていうのは、昔からの約束だから。僕は約束を守るだけだ」
昔、そんな約束をした。〝灯里ちゃんがピンチになったら、僕が絶対に助けに行く〟。子供の頃の約束を持ち出すのはどうかと思うけど、覚えているのだから仕方がない。
僕の答えを聞いて、小春は薄く微笑んだ。ゆっくり口を開く。
「そうですか。あなたは、そうなんですね。記憶を失おうと、何度繰り返しても、あなたはそうなんですね」
どきりとする。彼女の優しい声色と、その表情に。
小春は精霊というだけあって、その容姿は異様なまでに優れている。人の理を越えている。芸術品のような顔立ち、色っぽい褐色の肌、不思議な色ながら似合っている銀とピンクの髪。そんな女の子が僕のベッドに座っている。ぶかぶかのセーラー服で。
今更ながらドキドキしてきた。女子に縁のない部屋だから、余計にそう感じる。
彼女は白いシーツの上に、可愛らしく女の子座りをしていた。小麦肌と白いシーツのコントラストが眩しい。スカートが広がっている様も目に毒だ。なぜベッドの上に座る。いつも自分が寝ている場所に、制服姿の女の子が座っているこの状況。何とも言い難い危うさがある。
なんだか良からぬことを考えそうだったので、何気なさを装って視線を外した。しかし、既に遅かったらしい。彼女の瞳は僕の動きをとらえていた。
「……何を想像しているんですか。このすけべ」
……すけべではない。想像まではしていない。する直前で堪えた鋼の精神を褒めてほしい。
というか、今更ながらこの状況は結構危ないんじゃないだろうか。夜に、自分の部屋に制服姿の女子を連れ込んでいるなんて。
しかも、入ってきているのは窓からだ。隠し事の香りがぷんぷんする。後ろめたさがすごい。後ろめたいことなんてないのに……。
話が終わったなら帰ってもらおうか……、と僕が腰を上げたときである。がちゃり、と何のためらいもなく部屋の扉が開いた。
「おにぃ、お風呂空いた」
「うおおおおおお――ッ!」
妹の奇襲にいち早く反応し、ベッドまで駆け抜けた。掛布団代わりのタオルケットを小春ごとひっくり返す。そのままベッドにのしかかり、薄い生地による盛り上がりをごまかした。
扉を見ると、濡れた髪をタオルで拭いている沙知の姿があった。見慣れた半袖のパジャマを着ている。奇行に走った僕に、沙知は怪訝そうな目を向けた。
「なに、どうしたのおにぃ」
「いや、なんでも、なんでもない! ありがと、すぐ入るから。あ、沙知、髪はちゃんと乾かさないと風邪引くよ」
「わかってるよ、うるさいなぁ……」
僕の小言を聞いて、機嫌悪そうにドアを閉めていった。どうやら、バレずには済んだらしい。安堵の息を吐いた。身体から力が抜けていく。危なかった。本当に危なかった……。
しかし、小春を押し倒したままということを思い出す。慌ててタオルケットを引き剥がすと、彼女は倒された姿勢のままだった。ジトッとした目を僕に向ける。
「ベッドに女子を押し倒すなんて、もうこれは言い訳のしようがありませんね。このどすけべ」
「いや、ごめんって……」
「いいからどいてください」
「はい……」
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