第38話 雲の糸


「イト……なんで……」


 美波は地面に広がった糸を呆然と眺めた。

 ――気持ち悪い――体が、熱い――。

 お腹から下と顔から上が沸騰するような熱さを感じる。それなのに、首元には震えるほどの寒気と嘔吐感が襲っていた。


 海に、海に行こう。

 ここは熱くて、寒い。

 海に、海に行こう。

 円環かえるべき場所が、きっとそこにあるから――。




 熱と吐き気にさらされた体を引きずりながら、美波は浜辺へとやってきた。

 みんなで日が暮れるまで遊んだ砂浜。

 混濁する意識の中、波打ち際に向かって一歩、また一歩と足を進める。

 ――司くんに告白した場所。


 砂を踏みしめる。灼熱の砂漠を進むように。

 満天の星空の中で、欠けた月が砂地の足跡を怪しく照らす。


「――あっ」


 膝が力を失い、がくりと崩れ落ちた。地に投げ出される四肢。足が人としての機能を失ったようにピクリとも動かない。


 下腹部に大きな異物感と焼け付くような灼熱感を感じる。

 同時に両足が押し開かれ、根本からあらぬ方向に曲がっていく。


「な、なに、なに……ああぁぁっ」


 美波の口から悲鳴が漏れた。

 異物感は、新たな触覚を得た違和感に変わった。


「なに、ナに、ナニ……?」


 甲殻に産毛の生えた、蟲の脚が砂をかいて蠢いている。


 蜘蛛の脚。


 それは、美波の下腹部とつながっていた。


「っ、いやあぁあああ!」


 美波は悲鳴を上げた。それに合わせて、蜘蛛脚がガサガサと砂をかく。

 美波は何度も悲鳴を上げた。体から生える蜘蛛の脚が、二本、三本と増えた。

 そのたびに腹部を貫くような痛みと熱さが襲う。


 腰から下が、異形の姿へ、蜘蛛のものへと変わっていく。

 下腹部が毛の生えたまだら色の皮膚に変わっていく。さらには奇怪な蟲の脚が生えてくるそのおぞましさに、美波は吐き気を覚えた。

 さらに気が狂いそうなほど恐ろしいのが、その新たな器官が持つ感覚・・だ。

 下半身から確かに感じる、触れている砂の感覚。砂浜に吹く夜の風が、原色の体毛を揺らす感覚。そして――。


「あ、あ……ああ ア……」


 自らの意思の通り、蟲の脚がカクカクと動く。美波が恐怖と吐き気に悶えると、蟲の脚もそれに合わせておのおのがぐちゃぐちゃと動き回る。それらの感覚に、否応なくその脚は自分の一部なのだと思い知らされる。

 美波はその動きを止めたくて、蟲の脚を手でつかんだ。斑点のついた湿り気のある感触に、ざらりとした体毛の感触――さらには蜘蛛の脚から感じる、柔らかい人の手の感触――。


 視界がゆらゆらと暗転した。


「は、ク……ハッ……カハッ……」


 息がつまり、無意識にしゃくり声が漏れる。美波は過呼吸というものを生まれて初めて経験した。

 気が狂いそうになった美波は、蜘蛛の脚を引きちぎろうと全力で引っ張った。


「い、イタ、い――痛い!!」


 メリメリと音を立てる異形の脚。そこから強烈な痛覚を感じ、美波は腕の力を緩めてしまう。


 これ以上は、できない――自らの脚を引きちぎるなど、そんなことは


「違う、これはあたしじゃない! ちガう違う!!」


 拒絶の意思を込め、もう一度手に力を加える。

 みしり……。粘着質な音を立てて、脚がちぎれていく。強烈な痛み。それを恐怖が振り払う。さらに力を込める。外殻がちぎれて脚の筋が覗く。伸びる。

 激痛と恐怖でパニックになった美波は絶叫しながらその筋も引きちぎる。

 引きちぎった。


「とれ、た……」


 とれた。脚が。放り投げる。床に。


「あ、あ、痛い……血が……止めなきゃ……」


 血が。流れる。痛い。流れる。色。アカじゃない。体液?


「は、くハ……。や、やだ、やだ、やだ、やだ、やだよぉー!」


 もう一本の脚を掴み、一気に引きちぎる。黄緑色の体液がシーツに飛び散る。とれた脚を床に投げ捨てる。遅れてくる痛みに悶える。


 その時、美波はちぎり取られた切り口から新たな感覚が生まれていることに気づいた。


 傷口から粘着質な液体を糸引かせながら、新たな脚が生えていた。まだ柔らかい。

 二つ目の切り口からも、赤子のように幼く色素の薄い爪の先が覗いていた。それは、切断と再生を繰り返す繊維によって、みちみちという異様な音を立てながらうごめいている。


「タ、助け……助ケて……ツカサクン……」


 美波はうずくまりながら、無意識に想い人の名を呟いていた。




 強い胸騒ぎを感じて、司は目を覚ました。

 そのまま導かれるように宿から外に出た。

 虫の知らせ。嫌な予感だった。

 導かれるように、なにかに呼ばれるように、司は砂浜へと走った。


 美波は、そこにいた。

 その半身は、蜘蛛の姿をしていた。周囲にはむせかえるような臭いのする液体が飛び散り、足元にはちぎられた巨大な虫の脚が無数に転がっている。


 女の子らしい柔らかな曲線を描く体には、おぞましい斑点と体毛が生えた蜘蛛の下半身が合わさっている。

 その痛ましい異形の姿に司は戦慄した。

 さらに蜘蛛の体から、美しくなめらかな人間の――美波の足があらぬ方向に生えている。


 美波の手は虫の体液に染まっており、何度ちぎっても生えてくる自らの蜘蛛脚をひたすらちぎっては周囲に放り投げていた。


「み、なみ……」


 呆然とする司に、美波は血の涙を流した顔を向ける。


「ああ、司くん……全部切っちゃうから…………まだ、私を見ないで……」


 半身が蜘蛛になった少女の虚ろな瞳を見つめながら、司は――石のように重くなった脚を、一歩前へと踏み出した。

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