第二章 蟲のさざめき

第22話 海に行こう!


 無貌の狩人の起こした事件から、だいたい三ヶ月の時が経った。

 黒河くろかわつかさ飛鳥あすか染無しむは、いつものように学校へと続く山道で自転車を走らせていた。

 草木は茂り、道脇の林からは蝉の鳴き声も聞こえる。朝の山道は眩しいほどの夏模様を描いていたが、それでも司の心は晴れなかった。


「なんだ司。今日も冴えない顔してるな」


 そう話しかけてきたのは、司のすぐ脇を走っている染無だ。男みたいな口調だが、れっきとした女子である。

 司がその軽口に言葉を返すことなく黙りこんでいると、彼女は困ったように頭をかいた。


「あ〜、なんていうか……あんまり抱え込むなって。斉藤ってやつのことは残念だったが――」

「そうだな。本当に残念だ……」

「い、いやその、荒木ってやつも、ちょっと休んだらすぐ学校に来るさ」


 むっつりと黙り込む司に、染無は慌てて取り繕った。

 染無が善意で言っているのはわかっているが、今その話を出されても、悲しみが蘇るばかりで何も答えることができない。そして、ときにその歯がゆさは苛立ちへと変わってしまう。

 司は、そんな自分が嫌だった。

 それでも――


「ま、まあ、ともかく……あ、あれだ。今度また一緒に釣りにでも行こうぜ? 香山少年も誘ってさ」


 慌てて無理に話題を変える染無の姿に、司はふっと吹き出してしまった。

 ――それでも、こうして気をかけてくれる友人がいるおかげで、前を向くことができているのも事実だと思う。

 司は一つため息をつき、まとわりつく暗い感情を抑え込んでから、染無に感謝をした。


「……そうだな。久しぶりにどこかに行きたい。みんなで」

「お、おう。じゃあ司がなにか企画してくれよ。アタシはそういうの――苦手だからさ」

「待て、なんでこの流れでそうなるんだ?」

「うるせ。アタシは他人とつるむようなガラじゃねぇんだよ」

「あーはいはい。じゃあ気が向いたらな」


 司は苦笑しながらそう言った。




 いつものように校門で染無と別れ、司は教室へと向かった。

 その途中、廊下で偶然、よく知る女子生徒の姿を見かけて司は声をかけた。


「おはよう。彩女」

「あ、司さん……おはようございます」


 司の姿を見た白山しらやま彩女あやめは、柔らかい物腰で一礼した。

 その表情は穏やかで、最初に会ったときに比べてずいぶんと丸くなった印象だ。そして、それは司に対してだけではなく、クラスのみんなに対してもそうだった。

 最初のうちこそ彩女は冷たい性格だと思われていた。

 だが、意外なことかもしれないが、その生真面目でやや天然なところも相まって、今ではすっかりいじられキャラとして定着しているのだ。


「……荒木くん、今日は学校に来るでしょうか」

「さあ」

「その……早く元気になるといいですね……」

「そうだな」

「……」


 司が気のない返事をすると、二人とも黙り込んでしまう。

 司と彩女は会うたびにどちらともなく話題を切り出しては、気まずさに口ごもる。最近は、いつもそうだった。

 互いが互いを気遣っているため、どこかぎこちなくなってしまうのだ。


 微妙な空気のまま、教室に入り席に着く二人。教室の中の人影はまばらだ。

 少し前までは彩女はもっと遅い時間に登校していたのだが、今は彼女も同じくらいの時間に登校しているようだ。なので先ほどのように、彩女とは校門や廊下でよくすれ違った。もしかしたら、司の時間に合わせて来てくれているのかもしれない。


 司が自分の席に着くと、今度は”香山少年”こと香山かやま創一そういちが声をかけてきた。


「やあ司くん、おはよう」

「おう、おはよう創一」


 軽い調子で司が返すと、創一は少し驚いた後、顔に笑みを浮かべた。


「なんていうか……司くん、今日は調子よさそうだね」

「まあな、いつまでも落ち込んではいられないし……」

「……そうだね」


 そんな会話を、創一は笑顔を崩さずに続ける。

 やがて自分の席に鞄を置いた彩女が、司たちの方へと歩みよってきた。

 少し前までは、放っておくと授業が始まるまで一人で席に座っているので、いつも司たちが誘いに言ったものだった。

 その頃に比べれば、ずいぶんと積極的になってくれたものだと思う。


「おはようございます。香山くん」

「おはよう、白山さん。今日はなんだか涼しげだね」

「ええ。いつもの格好だと、さすがにもう熱くて……」


 言われてみれば、今日の彩女は薄着だ。冷え性だという彩女は最近まで制服の下にシャツや厚手のタイツを着ていた。だが、今日は他の女子生徒と同じ半袖の制服にソックスという出で立ちで、いつもより涼しげに見える。

 というより、司としてはむしろいつものほうが、暑そうに見えて気になるのだが。


 そうしてしばらく三人で談笑していると、がらりと引き戸を開けて教室に入って来る一人の女子生徒と目があった。

 すると、彼女はわざとらしい忍び歩きでこちらに向かってくる。

 入り口に背を向けている創一と彩女は、その隠密した女子生徒の接近にまだ気づいていないようだ。

 司がなにか言おうとすると、彼女はしーっと唇に指を当てた。

 その女子生徒は彩女の背後まで接近すると、後ろから両手でがばっと彩女の胸を掴んだ。


「あーやや♪」

「きゃああーっ! ――み、美波ちゃん!?」

「えへへへ」


 その女子生徒――藍原あいはら美波みなみは、いやらしい手つきで彩女の薄い胸を上下左右にもみまわす。

 そのたびに、彩女が「んんっ」と切なげな声を漏らすのを、司は唖然として見つめた。ふと創一の方に目を向けると、真っ赤になって顔をそむけながらも横目でチラチラと美波たちのほうを見ている。

 彩女は身悶えながら、美波へと抗議をした。


「や、やめてください……!」

「ふぇっふぇっふぇ。よいではないかー、よいではないかー」

「もうっ!」


 彩女なら掴んでいる美波を振りほどくくらいわけないと思うのだが、女の子同士でじゃれ合うのは満更でもないということだろうか。

 だがさすがに周りの目が気になるので、この辺で止めておかなくては。

 なにせ彩女も美波も、ただでさえクラス内で目立っているのだ。


「……おはよう美波。そろそろ離してやれって」

「あー、おはよう司くーん!」

「うわっ! 今度は俺かよ!?」


 美波は「どーん」と自分の口で言いながら、勢いよく司に抱きついてきた。

 少女のボリュームのある胸の感触が肩に伝わり、恥ずかしさと同時に司を妙な気分にさせた。

 周りの、特に男子の鋭い視線が、今度は司と美波に突き刺さる。


「やめろ。美波、離れろ――」

「あはは。美波ちゃん、今日は一段と元気だね」

「創一くんもおはよー! うん。今日は司くんたちを旅行に誘おうと思って!」


「旅行?」司が首をかしげる。「旅行ってどこに?」


「島だよ」

「島?」


 美波は人差し指を立ててもったいぶりながら、ふふっと不敵に笑った。


「そう、島だよ。休みに入ったら、みんなで海で遊ぼう!」


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