第15話 南極観測考察
司は彩女に連れられて、神社の書斎を訪れた。
書斎の床は木製のフローリングになっていて、本棚に囲まれた部屋の奥には、作業をするための机と椅子があった。
この古めかしい神社の中において、書斎だけは比較的現代風の作りになっている。
疑問に思った司がそれについて尋ねると、彩女はこんな返事をした。
「ここは、もともと物置だった場所が改築された部屋なのです。古くからある蔵書庫は、そこの階段を降りた先にあります」
彩女が指差した先には、部屋から不自然に続く階段がある。
階段の下には、フローリングというよりは板張りと表現されるような年季の入った小さめの部屋になっていた。
本棚も小さく、蔵書の数は多くないが、古いものが多い。なので司は、こっちに保管されている書物は価値の高いものが多いのではないかと思った。
階段を降りた彩女は、続いて小部屋の奥を指し示した。
「そして、あの奥に……グラーキの黙示録を始めとした、危険性の高い書物を保管しています」
彩女の顔が真剣なものへと変わる。
そこには、南京錠で閉じられた単純な作りの扉があった。
危険な書物が保管されているにしては、ずいぶんと簡単なセキュリティだなと思った。だが、本命は扉そのものではなく、話に聞いた封印の術なのだろう。扉の脇には札が貼られていて、中央には釘で絵馬のようなものが取り付けられている。
悪しきものからは御札などの封印で守られている。この神社の娘である彩女や、興味本位で覗こうとする客には、この南京錠で十分ということだろう。
正直、この程度の南京錠なら少しの道具と知識があれば開けられるような気がした。だが、司はあえてここで魔導書を確認してみようとは思わなかった。
「なるほどな。じゃ、まずは手がかりになりそうな本がないか、探してみようか。
それで……具体的に、どんなものを見つければいいんだ?」
「えっと、そうですね……」
彩女は顎に指を当て、考えを巡らせている。
この神社に来てからというもの、彩女は、危険な情報や大事な事柄も含め、司に対しては包み隠さず打ち明けてくれていた。そんなふうに彼女が信頼してくれているということも、司にとって嬉しかった。
「……私も……今できることが、このぐらいしか思いつかなかっただけなので……はっきりとした目的があったわけではないのですが……」
「そうだよな……それなら、手当たり次第に当たってみるか」
「いいえ。少し待ってください……。
ええと――最も優先したいのは、無貌の狩人について書かれているものです。
その他、亡霊を操る魔物や、
「15年前?」
「はい。……前に、無貌の狩人が現れたのは15年前ということなので……その時期に起きた出来事は手がかりになるかもしれません」
なるほど。高校一年の彩女が生まれたのが15年前。彼女の母親が、無貌の狩人を封印し、亡くなったのも同じ年だというわけだ。
しかし、これにはまだ疑問があった。
「15年前はわかるんだが、なんでうちの学校なんだ?」
「それは……」
彩女は照れているとも困っているともとれない、微妙な顔をした。
「私の母が当時、豊丘村高校に通っていたからです」
「――な、高校に!?」
当然だが、高校に通っていたのなら、高校生なのだろう。
そして同時期に彩女を生んだということは――
「……ちょっと失礼なこと聞くけど――当時、彩女の母親って年いくつだったんだ?」
「その……17歳だったと伺っています」
「17!」
司は思わず絶句した。
当時の法律上では、女性なら16歳から結婚できると聞いたことがある。だが、それほど早く子を成したという話を聞いたのは初めてだ。
司や彩女とは一つか二つ学年が上なだけ。司としては、ここ1年や2年先なんて、子供どころか結婚することすらも実感が湧かない。
「そりゃあ――ずいぶんと若かったんだな」司はそんな言葉しか出てこなかった。
「ええ、本当に……信じられませんよね」
司の言葉に、彩女はため息混じりに答えた。
彼女も両親については、いろいろと思うとこがあるのだろう。本当に稀有な家庭に生まれた少女だ。
それにしても――本当のとこは、彩女はこの僅かな時間も無駄にしないため、少しでも何かできることをするために――蔵書の探索をしようと持ちかけただけだったのだろう。それでも、彼女は知識の少ない司のことを思って、その場で目的を絞り込んでくれた。
やはり、彩女の気配りや誠実さには敵わないな、と司は感服した。
「それじゃ始めるか。よろしくな、彩女」
「はい。司さん」
司の言葉に答える彩女の顔は、どことなく楽しそうだった。
専門的で分かりづらい本の多い地下の旧書斎の探索を彩女に任せ、司は新しい書斎の本を漁った。
この書斎にある本の多くを彩女は一度読んだことがあるらしいが、その全てを把握しているわけではないという。だから、改めて調べてみる価値があると彼女は言った。
本人曰く、彩女は物覚えがいいほうではないらしい。
あれだけの知識と技術があるのだから、そんなことはないだろうと思うのだが。相変わらずこの少女の自己評価は低いようだ。
司が調べているほうの書斎は新しい本が多いとはいえ、その内容は神道や武術、精神論などのものが多く、お堅いものが多い。
蔵書の3分の1を流し見たあたりで、司はこの書斎では異質な、とある本に目が止まった。
今回の調べごとには関係がないかもしれないが、気になった司は彩女に声をかけた。「なあ、ちょっといいか?」
「はい。なんですか、司さん?」
彩女がそう返事をしながら階段を登ってきた。
最初は下の名前で呼び合うことに抵抗のあった彩女だが、今はだいぶ慣れてきたようだ。
「この本なんだけど――」
司は本棚からその本を取り出した。
彩女はしっとりと濡れた黒髪を耳にかけ、司の手に持った本を覗き込んだ。
「南極観測記……ですか?」
「ああ。こういう本って、ここじゃ珍しいからさ」
「著――
……少し待ってください。たしか、こちらにも同じ著者の本がありました」
そうすらすらと暗唱して見せる彩女。これのどこが物覚えが悪いというのだろう。
少し間を置いて、彩女は再び階段を上ってきた。
その手には、一冊の本が抱えられていた。
「その本が、これと同じ作者の?」
「はい。開道光のものです」
彩女は、しばし遠くを見るような目をした。
「思い出したんです。私も、その本が好きでした。ここには同じような蔵書しかないけど……その本に書かれていることは、とても新鮮だったので。
なので、もちろんこちらの古い書斎にある本にも興味を持ったのですが……父に、『こんなもの読むものではない』と、止められてしまいました」
彩女は懐かしそうにそう語ったのち、その本の最初のページを、自らの手で開いて司に手渡す。
司は本を受け取り、うなずいた。
「親父さんがそう言うってことは、なんかあるのかもしれないな。
よし、読んでみるか」
「はい。私はもう少し下の階で本を探しています」
階段を降りていく彩女を見送ってから、司は本のページをめくった。タイトルは、南極観測考察と書かれていた。
発行年数を見ると、新しい書斎にあった南極観測記という本のほうが古いもののようだった。
発行された順に読んだほうがいいだろうと、司はまず南極観測記のほうを読むことにした。
それはタイトルの通り、南極へ行ったときの記録が、観測者自身の手で書かれているものだった。
つまり、この開道光という人物は南極観測チームの一員ということだ。日本極地研究会というチームに所属している人物らしい。
1933年、日本極地研究会の設立。
開道光も初期の頃からメンバーの一員として活躍。その才覚から神童ともてはやされる。
1940年、開道光の参加するチームが南極に到達。
南極の生態系についての調査。調査の折、氷の下の地面に力場を発見。
そして巻末のあとがきには、力場についての仮設を研究会が認めなかったことによる筆者の苦悩について書かれていた。
続いて、司は南極観測考察のほうを開いた。この本の原稿が書かれたのは1948年と記載されている。
最初のうちは南極の生態系に関する考察だった。
そこに書かれた内容はもちろん、興味深いものも多かった。だが現代人であり、この手のものに多少の知識がある司にとっては、当たり前となってしまった事柄が多いのも否めない。
そして筆者にとってもそれは同じなのか、それとも観測者としての視点に重きを置いているのか――最初のうちは、実に淡々とした文体だった。
だが、読み進めるうちにその淡々とした文体が、徐々に崩れ始める。
きっかけは、南極の力場についての仮設から。このとき司はまだ流し読みだったため、具体的な内容がそこまで頭に入っているわけではない。その上で言うと、内容はおおまかに、南極の氷の下で見つかった力場の正体が原始的生物である、というものだった。
最初はその持論の正しさと、協会からの反論に対する矛盾点の指摘だった。
それがやがて妄執のような世間への恨み言になっていき、やがて同じような内容を感情的に繰り返す――およそ考察とは呼べないものとなっていった。
南極の氷の下の力場は、ある強大な生物が発生させているものである。
進化論は根本的に間違い。すべての生物の起源は単細胞生物の突然変異である。
地球上あらゆる知識と情報は南極にある古の石版に記録されている。
この宇宙のあらゆる物質・概念は、生と死に分解できる。
その生と死の仕組みを理解できれば、概念という枠を超えた試みすら可能になる。
それこそが宇宙。――地球という小さな
生と死の概念を知ること、否、理解することこそ人類の次なるステップに続く。
――否、あらゆる概念という概念はその原理に分解することができる。
もう少しだ。届かない。
この宇宙すべてを司る生と死の2進数。それは知った。知ったが理解していない。
実に単純だ。だがそれを理解する――気づくか否かは天と地ほどの差がある。
――否、次元を超えるかどうかなのだ。天と地という表現ですら足りない。
次元を超える、そんなことすら生ぬるい。次元を超える方法などは、後少しで手が届くところまで来ている。人間の想像し得る事柄なのだ。
石版が必要だ。あらゆる知識を持つ石版が。
古の種族がその叡智を持ってしても届かぬのなら。
偉大なる種族の偉大なる一匹が発見したその功績を、かの者ら自身がもみ消すのなら。
人を超える他にあるまい。
私、そう私だ。私の知識が知り得る唯一の知識。
これは、その式である。
生,生死死生,死生生生,死死死死,死死死生
知り得る者は、続きを紡ぎたまえ。
万一に理解する者がいるのなら、採点したまえ。
私、そう私だ。私の記すこの不完全な式を、完全な答えに導いてくれ。
「……。なんだよ……なんだよ、この本」
本の内容は、そんな言葉で締めくくられていた。
どうせ理解できるものではないと、最初のうちは流し読みをしていた。だが、司はいつの間にかその不可解な文章に引き込まれ、魂が抜けたようになりながら、その本をただただ読み進めていた。
「どうかしましたか、司さん?」
気がつくと、再び階段を上がってきた彩女が、心配そうに司の顔を覗き込んでいた。よほど顔色が悪かったのだろう。
それにしても、見上げるとすぐに彩女の顔と綺麗な髪が目の前にあるのは、様々な理由で心臓に悪く、――とても困る。
「いや……なんでもないよ」
司は間近で目を合わせるのが恥ずかしくなり、目をそむけた。
そして二冊の本を閉じると、うち一冊を本棚に戻し、もう一冊を彩女に返した。
「たしかに……この本は読まないほうがいいかもしれない」
司がそう言うと、彩女は不思議そうな顔をしながらも、首を縦に振った。
「はい……司さんがそう言うのなら」
彩女の「はい」というのは、若干「はあ」みたいな言い方だった。
それから、そう言われるとどんな内容だったのか少し気になる、なんて眉をひそめつつも、口元は微笑んでいた。
彼女のそんな様子を見ていると、本の異様な内容に動揺していた心がだんだん静まってきた。
これも、彼女の持つ不思議な力の一つなのかもしれない。
書斎の本を二人であさり続けるうちに、気がつけばもうじき日付が変わる時間になっていた。
「もうこんな時間……そろそろ切り上げましょう。司さん、手伝っていただいて本当にありがとうございました」
彩女は司の前にちょこんと正座して、丁寧に座礼をした。
「そんなにかしこまらなくても……。他に俺にできることがあれば、なんでも言ってくれ」
司がそう答えると、彩女は正座したまま顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。
「はい、よろしくお願いします。でも……もう遅い時間ですし、お布団の用意をしますので、今日はお休みになってください」
それもそうか、と司はうなずいた。
何より彩女は今日一日、ずっと気を張り続けていたし――戦い続けていたはずだ。もう彼女の疲労も限度だろう。
本当は自分のことなど気にせず、すぐにでも休んでもらいたかった。だが、勝手のわからないこの家で、寝床の用意など司にはできない。
結果、また彼女に働いてもらわなくてはならないことを、司は歯痒く思った。
「悪いな、彩女。何から何まで」
「何度も言わせないでください。司さんは御客なので、どんと構えていればいいのです」
彩女はつんとしながら言った。
何か怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。こんな遅い時間だし、彩女も不機嫌になっているのかもしれない。そんなふうに、司は勘ぐった。
彩女は司をお馴染みの客間に待たせると、また屋敷の奥へとパタパタと履き物を鳴らしながら引っ込んでいく。
ほどなくして、彩女は客間のふすまから顔を出した。
「準備ができました。司さん、こちらへ――」
別にそんな気はないのだろうが、これから何かが始まりそうな彩女の言い方に、司はドキリとした。
彩女は布団の敷かれた部屋へと司を案内した。客間と同じような作りの畳の部屋で、大きさは一回り小さい。
襦袢に見を包んだ少女は、その細い手で司を布団へと促す。
「どうぞ、司さん」
「ありがとう。彩女。おやすみ」
司は促されるままに彩女が用意してくれた布団に入り込む。
司の言葉に微笑みを返しながら、彩女は窓際まで移動して静かに正座をした。
その彼女の行動に、司は違和感を感じて顔を起こした。
「彩女、どうしたんだ?」
「いえ、お気になさらず……司さんは眠っていてください。私があなたのそばで見張りをしています」
その言葉に司は一気に目が冴えて跳ね起きた。
「み、見張りって……一晩中か!?」
「はい……?」
彩女は当然だと言わんばかりに首をかしげた。
そんな無茶な、と司は思った。
だが、今度は彩女をどう説得すべきか考えると頭が痛くなって、司は目頭を抑えた。
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