第13話 グラーキの黙示録


 グラーキの黙示録。

 そう呼ばれている書物が、無貌の狩人の持つ力の原点だと彩女は言った。

 書物にはこの世界に潜む異形の怪物についての情報が記載されており、その怪物と接触したり、力を借りる方法も記されているという。


 にわかには信じがたいのだが、信じるしかないだろう。

 なにせこんな状況なのだ。もはや何が起きても不思議ではない。たとえ半信半疑だったとしても、それらの情報が正しいという前提で考えたほうがいい。


 説明の途中で彩女は立ち上がり、奥の障子を開ける。そして、屋外に広がる闇夜に目をやった。

 暗い林の中に潜む些細なものも見逃すまいとばかりに、その瞳を鋭く細めている。


「外になにかあるのか?」


 司は屋外を見つめる彩女に声をかけた。制服の背中の破けた部分から、司の巻いた包帯が覗く。

 傷だらけの少女は表情をわずかに緩めると、視線を外に向けたまま司の問に答えた。


「何か妙な様子はないかと、山のほうを確認していました。

 ……本当は、かの無貌の狩人なら……穢れよけの結界など用意に突破できるのではないかと、気がかりで……」


 彩女の不安そうな声音。

 詳しいことはわからないが、司もそのように考えていた。

 いくらこの神社が神聖な場所だからとはいえ、あの恐るべき化け物が、その程度で手をこまねくとは思えなかった。

 無理に追う必要もなく、不要なリスクを負うまでもないから引いたにすぎない――つまり、ほとんどヤツの気まぐれで見逃されたに過ぎないのではないか。

 いずれまた姿を現して、この境内まで乗り込んでこないとも限らない。


 そもそも、無貌の狩人がくだんの魔導書によって生まれた存在なら、それは悪霊と呼べるものなのだろうか。

 神社に張られている結界は穢れを遮るためのものだという。それが、無貌の狩人に本当に効果があるのかはわからない。

 彩女がどこまでのことを知っているのかは不明だが、今のうちにできる限りのことを聞いておきたいと思った。


「彩女――」

「はい。……話の続き、ですね」


 彩女はうなずくと、再び魔導書について語り出した。


「その魔道書について私も詳しく知っているわけではないのですが……グラーキの黙示録は、全部で九冊。それぞれ違う魔物について記されていると聞きました」

「九冊も!? そんなにあるのか」

「古くからある原本は十一冊だという話もうかがった覚えがあります」

「十一冊ってことは、その魔物とやらが十一匹……十一種もいるということか」

「……私の家は専門ではないので、原本の方まで深く存じているわけではありませんが」

「それでも、災害をもたらしたり世界を滅ぼしかねないような魔王みたいなのが九種はいるんだろう……。ロールプレイングゲームでもなかなかない状況だな」

「……ええ。この世界は――」


 彩女は少しだけ言葉を詰まらせた。

 何も知らない司の様子を、懐かしむように。決して取り戻すことのできない普通の感覚を、慈しむように。

 彼女は少しだけ、肩の力を抜いてから話を続けた。


「この世界は、紙一重の――ギリギリの状態で、成り立っています。

 わずかでもその天秤が傾けば、脆くも崩れてしまう……。

 いつそれが起きても、おかしくない状態なのです。

 だから……この魔導書も、世界が抱えている驚異のただ一角にすぎません」


 相変わらず、彩女は視線を社務所の外へと向けている。

 夜の闇に包まれた山の中は相変わらず静かで、虫が鳴き、風で木々がかすかに揺れているだけだった。


「……そろそろ、湯槽ゆぶねが湧く頃です。先にお風呂に入って、体を清めて来ましょう。

 この続きは、お食事のときに」

「ああ。それはありがたいよ。

 いつまでも土だらけの姿でいるわけにもいかないからな」

「ですね。私も、この格好では落ち着かないです」


 彩女は、おかしそうに苦笑しながら傷だらけの制服の裾をつまんだ。話している時も、ずっと穏やかで優しい口調だった。

 学校で会う彩女はいつも怖い顔や難しい顔をしている印象があったため、今の彼女の様子は司にとって新鮮だった。


「それでは司さん、ご案内しますので、こちらへ」

「いや。俺はここで待っているから、彩女が先に入ってきなよ」

「え……なぜ、ですか?」


 目の前の生真面目な少女は、不思議そうに首をかしげた。

 彩女のきょとんとした表情は可愛らしくて、正直に言うと、司はこの顔が好きだった。

 司は自然と破顔しながら答えた。


「だって、俺より彩女のほうがボロボロじゃないか」

「うっ……。でも私はまだ平気です。司さんが先に入ってください」

「そういうわけにはいかない。それに、こういうときは女の子に先に入ってもらうもんだろ?」

「お、女の子……」


 彩女は口をきゅっと結び、肩を小刻みに震わせている。彼女がこういう表情をするとき何を思っているのかは、やはり司には分からなかった。


「しかし……あなたは客人です。それに、お風呂は殿方が最初に入るのが慣わしではないかと……」

「そんなことないさ。今の時代は何をするにも女性を尊重するもんだ」

「そう、なのでしょうか……けど……」


 彩女は困った顔をしながら「私は大丈夫なので、どうか先に……」と言って廊下へと続く襖を開けた。どうやら引く気はないらしい。

 このまま譲り合っていても仕方ないと、司は彩女の好意を受け取ることにした。

 それに、先ほど決めたのだ。ここでは彼女のペースに合わせてみようと。

 申し訳ないという気持ちもあったが、司は少し深めに頭を下げてうなずいた。


「……そうだな。ここにいる間は、彩女の優しさに甘えることにするよ」

「優しさなんて……。でも、そうしていただけると助かります。

 私、本当にこういうの慣れていなくて……」


 くすっと苦笑すると、彩女は司を促しながら廊下へと進んだ。

 客間から少し進んだところに居間と厨房があり、浴室はその隣だった。

 浴室の前にある脱衣所に到着すると、彩女は棚からバスタオルと、そのほかに浴衣のようなものを取り出した。


「着替えとタオルはこちらを使ってください」

「サンキュ。なんだか、ほんとに旅館に泊まりに来た気分だ」

「ふふ。そんな大げさなものではありませんよ」


 彩女は嬉しそうに言った。それからもし下着が必要ならと客用のふんどしを勧めてきたので、そちらは遠慮しておいた。


「それでは……私は隣の台所で食事の準備をしているので、何か少しでも異変があれば、すぐに呼んでください。

 無貌の狩人の姿は見られないとはいえ、まだ油断のできない状況なので」

「――わかった。頼りにしている」


 司がうなずくと、彩女は姿勢を正して深く丁寧に一礼をした。




 神社の風呂場は、まるで温泉旅館の浴場のように広かった。

 洗い場の床は乱張りにした石材になっていて、浴槽は木で縁取られている。

 入浴剤なのか天然のものなのか、湯は淡く色づいていてお茶のような香りがした。

 密着したとき感じた彩女の香りに似ている、と、司は変なところに気がついた。


「なんだか、広すぎて持て余しちゃうな……」


 一人だけの広い浴室で、司は独り言をつぶやいた。

 これなら、二人で一緒に入ってもよかったかもしれないなと考えてすぐに、司はぶんぶんと頭を振ってその想像をかき消した。


「……って、何考えてんだ俺は」


 いくらなんでも年頃の男女が一緒に風呂に入るのは問題だ。

 いや、ちょっとズレているとこのある彩女なら、誘って言いくるめれば一緒に入ってくれたかもしれない――そうすればよかったと後悔しないこともない気もするが――否。やはり、そういうのはよろしくない。


 司は口元まで湯船に沈んで、ぐるぐると変なことを考え出す思考をストップさせた。

 クラスメイトの女子とひとつ屋根の下にいるからといって、妙なことを考えすぎだ。

 体が火照るにつれて思考が冷えてきて、司はふとあることに思い当たった。


 この家の人は、彩女の家族はどうしているのだろうか。母親は亡くなっていると聞いたが、父親やその他の親族は――

 この風呂場ですら司は持て余しているというのに、彩女は夕食時をすぎるまでこんな広い屋敷に一人でいる。

 誰もいない静かな厨房で、自分一人のための夕飯を作る、痩せて小柄な少女の姿が脳裏に浮かんだ。

 温かい湯船は少し名残惜しかったが、なんとなく彩女をあまり一人で待たせたくなくて、司は風呂場を後にした。




 先ほど借りた白い浴衣(正しくは襦袢じゅばんというらしい)を着て脱衣所を出ると、彩女がぱたぱたと履物を鳴らして駆け寄ってきた。

 彩女はあごが触れそうなほど近くまで来て、司の顔を見上げた。


「司さん。お風呂はもう済んだのですね。えっと、どうでしたか……?」

「ああ、すごくいいお湯だったよ。サッパリした」


 彩女は嬉しそうに微笑んだ。なんとなく、彼女が少しずつ心を開いてくれているような気がして、司のほうも嬉しくなった。


「じゃ、次は彩女の番だな。俺は客間に戻っているよ」


 そう言って立ち去ろうとした司の浴衣の裾を、彩女はおずおずとした様子で掴んだ。


「いえ、あの……司さん、私が入浴を終えるまで、ここにいてもらえますか……?」

「な、え!?」


 司が驚いて言葉を詰まらせると、彩女は申し訳なさそうに続けた。


「その……あまり遠くにいると、いざというときに駆けつけることができないので……」

「ああ、いやまあ、そうかもしれないけどさ……」


 女の子が入っている風呂の真ん前で待つのもどうかと思うのだが。とはいえ、四の五の言っていられない状況であるのも確かだ。

 心を強く持とう。司はそう自らに誓った。


「――わかったよ。俺はここにいるから、気にせずゆっくり入ってきてくれ」

「はい……ご迷惑をおかけします」

「彩女が悪いわけじゃあないだろ? むしろ俺のほうが気が抜けてた」


 悪い、と言って司は軽く頭を下げた。

 彩女はそれを否定するようにふるふると首を振ると、少し機嫌の良さそうな表情で脱衣所へと入っていった。


 そして程なくして、脱衣所の扉の向こうから水音が聞こえてきた。

 するとどうしても、いろいろと想像してしまう。それは仕方がない。男子として抗いがたいことなのだ。

 保健室で見た彩女の白くなめらかな腹部や、汗の滴る襟元を思い出してはぶんぶんと頭を振っていた司だったが、やがて彼女の傷だらけの背中を思い出したところで、浮き立っていた心が急に静まる。

 代わりに、ボロボロの体のまま身を挺して司をかばう少女の姿が、閉じた瞼の裏に浮かんだ。


 ――早く……逃げてください! ――あなたは、私が守ります!!


 恐怖を振り払い叫ぶ声。悲痛な覚悟を宿した瞳。

 その姿は、在り方は、司の心の深い部分を穿ち、複雑で様々な感情を呼び起こした。

 だが、だからこそ――


「……何か、彼女のために……俺にできることを、やりたい」


 司は自分への答えとして、その言葉をつぶやいた。同時に、浴室から聞こえていた水音が止まる。

 我ながら恥ずかしいことを言ったと思ったが、おそらく入浴中だった彩女には、その声は聞こえていないだろう。


 司はふう、と苦笑交じりにため息をついて、脱衣所の扉に体を預けた。

 その瞬間――


「と、とと――うわっ!!」


 突然、もたれかかった扉の手応えが消えた。

 ドアノブが緩かったのか、それともしっかりと閉まっていなかったのか。――内側から鍵がかけられたはずだが、それもしていなかったらしく――

 脱衣所の扉が、開いた。


「つ、司さん……あ……あぇ……?」


 倒れた姿勢のまま上に、つまり前方に目を向けると、一糸まとわぬ姿で目を白黒させている彩女の姿が見えた。


「あ、彩女……?」

「は、はわ……はぅ……。

 ――っ!」


 そのままの状態でしばし硬直していた二人だったが、正気に戻った彩女が素早く籠からタオルを取り出して自らの体を隠し、司は跳ね起きて彩女に対して背を向けた。


「ご、ご、ごめん!!」

「い、い、いえ――私こそ、鍵もかけずに……!」


 二人はお互いの顔も見ないままで必死に頭を下げる。


 そしてしばし静寂が流れた後、彩女が消え入りそうな声で言った。


「あ、あの……つ、司さん……」

「は、はい?」


 おそるおそる、司は彩女の方へと振り返る。

 バスタオルで体を隠した彩女は、顔を真っ赤にしながらガタガタと震えていた。


「えっと、彩女……?」

「その、司さん……」


 二人の声が重なった瞬間、彩女は膝をついて、がばっと床に額をつけた。


「も、申し訳ありません……お、お見苦しいものをお見せしました!」

「へ――はっ?」


 なぜか全力で謝られてしまい、司は唖然とした。

 と、同時になんとなくこの少女の考えていることを理解してしまい、司はなぜか釈然としない気持ちになった。

 違う、と。


「……違う」

「え、えと……申しわけ――」


 これだけは、伝えなくてはならない。そう、彼女のこれからの青春のためにも。

 もう一度謝ろうとする彩女を遮って、司は叫んだ。


「違う……君は今、怒っていいんだっ! ――むしろ引っぱたいていい!!」

「ふぇ、ええ!?」


 司は心の底から湧き出る想いを言葉にした。

 その意味がわからない彩女は、混乱のあまり今にも泣き出しそうな顔をしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る