第4章Ⅱ ヴィクトワール家の幸福な日常
1話 ここから始まる物語Ⅰ【新しい日々の一歩目】
「マリア!」
ラインハルトさんや砲艇グルーの船員さん達に別れを告げて列車に乗り込んだのは今日の早朝、そこから列車に揺られて昼前にはシャトノワ領の領都オージェに到着した。
なだらかな丘陵地帯にあるブドウ栽培とワイン作りが主要産業のシャトノワ領だけあって丘の向こうまで一面のブドウ畑。
用心の為に乗り込んだ貨物車の重い扉を開けて外に出た直後に見えたその駅舎からの風景に思わず、ようやく辿り着いたんだと見惚れていると不意に聞えて来たボクの名前を呼ぶ声に一瞬だけ身構えそうになったけど、すぐに誰か分かってボクも思わず駆け寄ってしまった。
「お母さん!」
勢いのままにボクはお母さんに飛び付いた。
子供っぽいかもしれないけどこればかりは仕方がない。
王都でのカーチェイスは何度も死を覚悟するような事が起こって、安全の筈の砲艇グルーは何でなのか分からないけど何度も故障や不意の事故に見舞われ、夜中に余所見操舵の船に衝突された時は天地がひっくり返ったような衝撃に襲われて心臓が止まるかと思った。
他にも人一人が入るのも苦労する厨房では魔石焜炉が壊れて火を吹いたり、シャワーは壊れて水が止まらなくなり……砲艇グルーは確か最新鋭の船だったよね?
とまあだからお母さんに生きて会える事が出来たからとても嬉しいのだ!
「ようこそオージェへ、お二人もご苦労様です」
「いえいえ、これも執事の務めですので」
「問題無いの、補給を断たれて包囲された時に比べたらへっちゃらなの」
ボクとお母さんが再開を喜び合っていると少し遅れて旦那様が来てロバートさんとララさんを労う言葉をかけて、二人はなんて事は無いといった感じに返答する。
「それよりもお体は宜しいので?」
「まだ少し痛みはあるが問題は無い、と言いたいがこの痒みは辛い…寝ている間に掻いてしまいそうで靴下を手にはめて寝るようにしているんだ」
それでも顔色は前よりもずっと良くなっている。
目の隈も無くなって、前よりも明るい印象になったと思う。
「さて、ここはまだ街道警邏の管轄内だ、駅前の広場に車があるから話はそこでしよう」
「どうやら上手くは行っていないようで」
「王都から離れれば離れる程、彼等の力は強くなるからね…ジュラ公爵も街道警邏の締め出しに動いてくれているけど繋がりのある領議会議員や貴族はそれなりにいる」
確かにさっきから妙な気配がする。
乱暴に貨物車の扉を開く音も響いている。
ううぅ……ここまで来てもまだ追って来るなんて…仕事熱心と言うか、迷惑と言うか……。
「では急ぎましょう」
ロバートさんを先頭に後ろをララさんが固めてボク達は駅舎から出て駅前のターミナルに出る。
中央には東部一帯で信仰されている地下水を司る女神メリサンドの銅像と“シャトノワ領の歴史はここより始まる” と刻まれた石碑が立っていて車はそこに停まっていた。
「おや…かなり古い型ですがドゥライエですか」
停まっている車を見るなりロバートさんはしかめっ面になってしまった、何でだろう?車をよく見てみると全体的に…そう!ロバートさんが乗っていた車のようなどんな悪路も物ともしないという軍馬のようなデザインじゃなくて、サラブレットのようなデザインだ。
好みじゃないのかな?
「この車馬鹿、走ればどれも同じなの」
そんなロバートさんに呆れたのかララさんは口を尖らせる。
「軍人的思考ですな、撃って当たれば何でもいいという」
「正確には撃って当たって壊れなくて、玉詰まりもしなくて少し整備を怠っても問題なく作動する、なの」
火花を散らす二人は置いておいて早く荷物を入れないと…そう言えば、旦那様は車の運転は出来なくてお母さんも同じだ、とすると車は誰が運転しているんだろう?
気になって運転席を覗いてみるとそこには……。
「驚いた?私もぉ運転できるのよぉ?」
「シェリーさん!?」
消去法だとシェリーさんしかいないけど…予想外だ、でも確かシェリーさんは元諜報員だ。
つまり元スパイだから車の運転が出来ても何も不思議な事は無い。
「おやここで運転が出来るアピールをするとは…何を考えているので?」
「当然、マリアちゃんに車の運転はぁ私が教えるっていうアピールよぉ?」
あれ?ここでも火花が…何だろう一体、まあそれよりも早く荷物を載せないと。
「全員乗り込んだ?狭いのは我慢してねぇ、それじゃあ行くわよ」
ゆっくりと丁寧に車は走り出した。
ロバートさんと違ってシェリーさんの運転は教本通りという感じだけど、乗る側としては急ブレーキや急ハンドルが無いから乗り心地はとても良い。
そんな丁寧な運転で領都から出るとすぐに生垣に挟まれた緩やかな上り坂を上って行く。
ここがシャトノワ領。
東北部でも随一と言われ、王都まで続く長大な運河を整備して西部と同じく田舎と言われていた東北部の発展に大きく貢献した、東北部どころか東部で一番発展している大領だ。
この辺りはブドウ畑ばかりだけど丘の向こうには工場とかがあって、今乗っている車の工場もシャトノワ領に本拠地を置いているとロバートさんが教えてくれた。
「大丈夫マリア?気分が悪くなったりしてない?」
「大丈夫ですよお母さん、これくらい何ともないです」
朝の満員電車に比べたら大した事じゃない。
道も綺麗に舗装されて規則正しくレンガの継ぎ目の部分を踏んで揺れている程度だから車酔いになる事も無い。
それよりもボクは気になる事が一つある。
「そう言えばお母さんはもうメルセデスお嬢様にお会いしたんですよね?どんな方でしたか?」
「え?ええぇと…ちょっと気難しいお年頃だけど、とてもしっかりとした良い子よ」
あれ?何やらお母さんの目が少し泳いでいる。
それにシェリーさんはわき見運転は危ない!
え?メルセデスお嬢様って何か問題でもあるのだろうか?
「マリアちゃん…メルは良い子だよ、ただ少し気難しというか真面目過ぎると言うか…素直に子供らしく生きられない子なんだ」
「素直に?子供らしく?」
ますますどういう事?
よく分からないけど会ってみれば分かる筈だ。
どんな人なのかはその時に確かめればいい。
♦♦♦♦
「小さいけどここが、今日からマリアちゃんの我が家だ」
「……」
小さい?
え?これで小さい?
嘘だよね?これが小さいの?
それともボクの認識が…いやララさんも愕然としているからボクの常識は間違っていない、なら旦那様の常識がボク達よりズレているんだ。
「いやはや随分と立派な屋敷ですな」
「立派…差し押さえられた屋敷や別邸に比べたら随分と小さいんだが、まあそれでも曾祖父の代まで使っていた旧邸で少し前は使用人の研修やマナー教育の為に使われていた場所だったから確かに立派かな」
「「……」」
ボクとララさんは絶句です。
これって普通は大富豪や貴族が住む豪邸だよね?建築に詳しくないからどれだけすごいのか分からないけど、広くて大きな庭がある時点で小さいという表現はおかしい!!
門の前で呆然とするボク達を他所にシェリーさんは車を裏手にある車庫に入れに行き、ボク達は旦那様の案内で門をくぐって敷地の中に入ったけど、うん普通に立派なとても立派な庭だ。
これで……これが元侯爵家の常識、早く慣れないと色々と大変だ。
ララさんはまだ我に返っていないけどさすがはロバートさんだ。
経験豊富なだけあって平然としている。
ボクも負けないように気をしっかりと持たないと!
旦那様を先頭に屋敷の中に入ると…あれ?今度は小ざっぱりしている。
いや外と違って中は残念……何て言う事は無く、すごく中も立派な造りをしている。
正面には二階に続くよく映画とかで見る様な階段が左右に、上も吹き抜けになっているんだけど、何と言うか調度品が極端に少ない…というより全くない。
屋敷が立派だったから忘れていたけど、ヴィクトワール家は莫大な借金があってお金になりそうな物の殆どは差し押さえられているんだった。
それなら調度品が全く無いのは納得出来るけど、その所為で違和感がある。
「お帰りなさいませ旦那様、それと無事に着いたのですねマリア」
「アグネスさん!はい、無事に辿り着きました」
屋敷の中を見渡しているとアグネスさんが掃除用具を抱えてやって来た。
「アグネスさん、シャーリーはいないみたいだけど」
「奥様は先程、役所から呼び出しがありベルとリーリエを伴って領役所に」
「行き違いか…だけどどうして領役所がシャーリーを呼んだんだい?」
旦那様は訝し気にアグネスさんに尋ねる、あれそう言えばこういう時に真っ先に来る筈のアストルフォが見当たらない、日向ぼっこをしていて気づいていないのかな?
「またアストルフォに関する事です」
「またか…いい加減に納得してもらいたい、あの子は魔獣ではなく聖獣なんだがな」
「ええ、ですが無教養な者には理解出来ないのでしょう。ヒポグリフとグリフォンは別種だという事を……」
またですか。
アストルフォも不憫だ。
王都ではそんな目で見られる事は少なかった、年配の人達からは逆にありがたられていた。
やっぱり王都から離れれば離れる程、アストルフォは魔獣と勘違いされるのか…あんなに可愛くてカッコいいのに!見る目が無い人が多過ぎる!!
「さて、来て早々ですがお二人には屋敷の清掃を行っていただきます」
「おや藪から棒に…まあ問題ありませんがララさんは大丈夫ですかな?」
「問題無いの、これは怪我の内に入らないの」
そう言ってアグネスさんは二人に掃除道具を手渡す。
確か以前勤めていた使用人の人達は全員、別の屋敷に転職して今はシャーリーさんが連れて来たボク達以外の使用人はいない。
これだけ広くて大きなお屋敷、ボク達が来る前は旦那様とメルセデスお嬢様の二人だけで暮らしていたのだから掃除が隅々まで行き届かせるのは無理がある。
「ボクはどこを掃除したらいいですか?」
「マリアは…休まなくてもいいのですか?」
心配そうな目でアグネスさんはボクを見るけど問題は無い。
長旅だったけどちゃんと休む事は出来ていたからまだ元気は有り余っている。
逆に何もしなくてもいいと言われたら、今日の夜は熟睡する事が出来ない。
「そうですね、ではベティーと一緒に空き部屋の清掃をお願いします。暖炉は私とララ、ロバートの三人で行いますので」
「分かりました」
ボクがアグネスさんから掃除道具を受け取った時だった。
正面の階段から誰か下りて来る音が聞こえて、それで振り向いたらそこにはまるでフランス人形のような、ともて可愛らしい女の子がいた。
青い、いやサファイアよりも鮮やかな蒼い瞳の向日葵のように黄色の濃い金髪の、とても目鼻がはっきりとした派手な顔立ちだけど旦那様に似て優しい目元が愛らしい、なるで命を宿したフランス人形のような少女が下りて来た。
ボクは思わず魅入ってしまった。
本当に綺麗だった。
たぶん彼女が旦那様の一人娘のメルセデスお嬢様だ。
ゆっくりと淑女然とした足取りで下りて来たメルセデスお嬢様はボクを見ると何故か驚いた表情をして呆然とボクを見つめて来る。
そう言えば自己紹介をしていなかった。
いきなり見知らぬ人がいっきに三人も増えたのだから当然だ、ちゃんと自己紹介をしないと!
「初めまして、本日よりヴィクトワール家のメイドとして働く事になりました、ルシオ・ベアトリーチェの娘でルシオ・マリアローズと申します。気軽にマリアと及びください」
ボクがお辞儀をするとメルセデスお嬢様は小さく「貴女が……」と呟き、続いてロバートさんとララさんも自己紹介をすると今度は目を丸くして二人を見た後、今度はあからさまに咳払いをする。
「初めまして、
まるで威嚇するように腕組みをしてメルセデスお嬢様は自己紹介をした。
なんだろう、眉間に皺が言っている所為か気が強そうというか高飛車な印象だけど、やっぱり可愛らしい顔立ちから背伸びをしているみたいで微笑ましい。
「そしてお父様、どいう事ですか?こんなに大勢の使用人を雇うなんて、ヴィクトワール家の財政を鑑みれば三人も、ましてや子供の使用人を雇う余裕はないのではなくて?」
「メル…前にも言ったけどマリアちゃんはメルと年齢こそ同じだけどメイド道の級位を持った子なんだ、それにお二人共……」
「はぁ…お父様、いくらシャーロットさんと結婚して莫大な資産を手にしたからといって不要不急の出費、つまり浪費は今のヴィクトワール家には一切許されません…マリアさんでしたか?級位を持っているからと言って貴女を雇う余裕はありません、望むなら別の働き口を紹介しますが、いかが?」
「何を言っているんだメル!?」
……これは、物言いは上から目線で高飛車だけど不思議と悪意は感じられない。
それどころか気を使われている?そんな感じがした。
まあ、それでもボクの答えは一つだけだ。
「お心遣いありがとうございます、ですがボクは転職するつもりはありません」
「なぜ?」
まあ、こればっかりは今も心の中に確かにある男としての矜持と言うか、やっぱり心根のどこかが日本人のままなのかもしれない。
「旦那様はボクの事情を承知した上で、それどころかボクを守るとまで言って、ここに辿り着けたのも旦那様のご尽力のお陰、それとシャーリーさんには御恩があります。この御恩、返すまでは…それに報いるまでは他家に使える気はありません…あと子供なので衣食住さえあれば給金はいりません」
ボクの言葉を聞いたメルセデスお嬢様は「……そう」とだけ言って部屋に戻って行った。
その後ろ姿はどこか辛そうだった。
「すまいないマリアちゃん!だけどメルを嫌わないで欲しい!」
「ふえ!?」
メルセデスお嬢様が三階の自室の方へ向かった直後、いきなり旦那様がボクの両肩を掴むと真剣な面持ちでそう言った。
嫌うって…なんでこれくらいで嫌わないといけないのか、逆にボクが聞きたい。
「嫌いになんてなりませんよ、ただ少し……」
ううん…ここから先は言わない方が良いかな。
まだ体は万全ではないみたいだし変な気苦労をかけてしまうかもしれない。
だからボクの心の中に留めて気にかける様にしよう。
メルセデスお嬢様の姿にあの時のボクと重なった事は……。
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