失・失楽園

タウタ

失・失楽園

 山並みが沈んでいく。西の空はまだ薄っすらと光の粉を刷いたように輝いていた。ひたひたと夜が迫り、塗りつぶされた山の稜線が朧になる。筆の先から落ちた墨が滲んで広がるようだ。青、藍、紫などと、虹のようには夜は来ない。次第に暗くなる。それだけだ。鈴川は胸から上を一月の冷気にさらしながら、山と空がくっついてしまうまでその境目を眺めていた。

 冷えてきたので肩まで湯につかったが、すぐに暑くなってしまう。立ち上がると、貧弱な垣根の下に新しいホテルのネオンサインが見えた。谷間にはぞろりと土産物や飲食店が並んでいる。鈴川がいるのは山の中腹の老舗宿で、露天風呂はさらに上にある。神田は先に部屋に戻っり、露天風呂には鈴川だけだ。

 稜線はすっかり空に溶け込んでいた。対岸の山腹に点々と灯りが散らばっている。街灯だろうか。宿に来るまでずっと民家の間を登ってきた。向こう側もきっとそうなのだろう。オレンジと白がある。鈴川の視力では、決して均等に丸い光には見えない。輪郭はぎざぎざしているし、光の円の中にガラス片のように暗い部分がある。

(クンショウモ)

 理科の授業で習った淡水性の小さな小さな藻。もちろん色は違うけれど、鈴川にはそう見えた。ミドリムシ、アオミドロ、ボルボックス――なんとなくミカヅキモが好きだった。多分、ほぼ左右対称なところに惹かれたのだろう。

プレパラートを一枚割ったことを思い出して苦い気分になる。あれはどうしただろう。先生に申告しただろうか。そっと戻して知らんふりをしただろうか。くしゃ、とまるで新聞紙を丸めるような音が耳に残っている。

 鈴川は部屋に戻ることにした。



『神田さん』

『ん?』

『温泉好きですか?』

 先月初めのことだ。帰りのエレベーターの中で唐突に聞かれた。鈴川はいつも通りの無表情で、まるで出張費の申請書が書けたとでもいうような調子だった。鈴川の母親がスーパーの福引で温泉旅行を当てたらしい。彼女といっしょに行きなさいと渡されたそうだ。

『親父さんとお袋さん、二人で行かないのか?』

『今、喧嘩の最中なんです』

『そりゃ駄目だな。俺でいいの?』

『他に誘う人いませんから』

 鈴川は女性恐怖症だ。老若を問わず、女性が怖い。もちろん彼女もいない。恋人はいるが、四十五歳バツイチの同性――つまり、自分のことだ。

『彼女なんかいないの知ってるのに、なんでそんなこと言うんでしょう?』

『うまくやれってことだよ』

 鈴川は美形だ。老若を問わず、女性にモテる。「女性向けファッション雑誌の『街角美形特集』とかにいそう」とは、神田の斜め前に座る女性社員の評だ。恋人になるかどうかはさておき、彼との温泉旅行に手を上げる女性は社内に複数名いるだろう。母親としては二十九歳の息子に女の一人も引っかけてこいと言いたかったのだろうが、鈴川には通じない。神田の婉曲な説明にも首を傾げるばかりだった。

 こういうわけで、鈴川母には申し訳ないが、幸運にもタダで温泉に来ることができた。谷間の温泉地は硫黄の匂いが充満しており、いかにもという風情だった。歴史のありそうな旅館は山の斜面に沿ってヒトデのように伸びている。本館、別館、離れ、洋館と増築をくり返しているようだ。細い渡り廊下が四方に走り、各館で階が違っている。神田はとりあえず大浴場への行き方だけ覚えた。あとは放っておいても鈴川が覚えてくれるだろう。

 風呂は広く、申し分なかった。露天風呂までの道のりが長いことだけが難点だ。内湯から続く通路はすべて階段で、登り切る頃には肌が冷たくなる程度に長かった。

「失礼しますよー」

 間延びした女性の声が聞こえ、襖が開いた。襷をかけた初老の仲居が大きな盆に料理を載せて入ってくる。

「あらあら、お連れさんは?」

「まだ風呂です」

「じゃあ、火は入れずにおきましょうね」

 てきぱきと料理が並べられる。様々な形、大きさの器があっという間に卓上を埋め尽くす。場が急に華やかになった。埃よけの大きな紙がふうわりとかけられる。

「何か飲まれます?」

「じゃあ、ビールを」

「グラスはお二つ?」

「いえ、一つで」

 鈴川はつき合い程度にしか飲まない。仲居が出ていき、神田は一人残された。

辛うじて液晶といった風の小型テレビでは、身体を張るタイプのクイズ番組が流れている。クイズは簡単だ。水を電気分解したら何と何ができるか。答えるまでが一苦労で、つるつるすべる床を走って回答ボタンを押さなければならない。最近落ち目のピン芸人が顔面から転んでいる。ボタンを押したのはグラビアアイドルだった。

『お湯と煙!』

 湯気と言いたかったのだろう、と想像する。

「すみません。待たせましたか?」

 鈴川が帰ってきた。頬や首筋がほんのりと上気している。オフィスにいるときには決して見せない気怠い表情が目を引いた。それはさておき。

「鈴川、合わせ逆」

 指摘すると、鈴川は自分の襟を見下ろし、さっと顔を赤らめた。神田に背を向け、帯を解き始める。こちらを向いてしてくれても、一向に構わないのだが。

「ビールお待たせしました。あらあら」

「うわっ、あ、あ……っ」

 盆に瓶ビールとグラスを載せた仲居が戻ってくる。鈴川は慌てて襟をかき合わせ、帯をつかんで襖の向こうへ行ってしまった。ドアの閉まる音がしたから、風呂場かトイレにでも逃げ込んだのだろう。

「悪いことしちゃったかしら。こんなおばあちゃん相手に恥ずかしがることないのに」

「初心なんですよ。お姉さんはちょっと刺激が強かったみたいです」

「まあ、お姉さんだなんて。私、もう孫もいるのよ? それにしても、今の若い人は本当にきれいなのねぇ。色も白くて、お人形みたいだわねぇ」

 神田は曖昧に笑った。鈴川は別格だ。仲居はビールの栓を抜き、神田に最初の酌をした。埃よけの紙を取る。台物に火を入れるのは断った。仲居はライターをテーブルに置き、丁寧に三つ指をついて出ていった。

 まるで見計らったかのように鈴川が戻ってくる。

「大丈夫か?」

「はい。驚きましたけど」

 鈴川はちらちらと背後の襖を気にしながら座った。品書きを見るに、あと二度は来るだろう。

 あんなにおっとりとしたおばちゃん――おばあちゃん?――でも、鈴川は怖がる。鈴川の恐怖症は姉の流産に端を発している。妊婦が一番怖いらしい。それを聞くと妊娠可能な十代から四十代くらいまでが恐怖の対象のように思えるが、小学生も怖ければ杖を突いたお年寄りも怖いと言う。

 助けてやれることなどほとんどない。せいぜい、会議のとき彼と女性社員の間に座るくらいだ。それでも、近くにいるとほっとした様子を見せる。庇護欲をほどよくくすぐられながら、ちょっとした達成感を受け取る日々だ。

「食べるか」

「はい」

 神田はリモコンでテレビを消した。鈴川が台物の固形燃料に火を点ける。

一月中は正月用のメニューらしい。丸い皿の上には数の子や黒豆が一口ずつ載っている。猪口より小さな黄色の器にはゴマ豆腐が入っていて、それもまた皿の上にあった。鈴川は手元の品書きと照合しながら食べているようだ。

 やわらかく煮たやさしい味の筍。山菜とエビの白和え。梅の香りがする蒟蒻。刺身はシンプルに鯛と鮪だけ。台物は牛肉の味噌煮だった。漆塗りの椀の蓋を取ると、思い詰めたような湯気が消える。何かの練り物が透明なつゆの中に浮かび、木の芽と、透けるほど薄い大根の輪切りが一枚乗っていた。

 二人とも、しばし無言で箸を動かしていた。酒のあてには味が薄いが、食事としては申し分ない。数の子がこりこりと転がる。

「美味いな」

「はい」

「お袋さんに礼言っといてな」

「はい」

 漆の椀に、鈴川の指は描いたようだった。桃色の舌が唇に貼りついた木の芽を絡め取る。台物がふつふつと音を立てはじめていた。

声がかかって襖が開く。表情こそ変わらなかったが、鈴川は身体を強張らせた。仲居が空いた皿を下げ、新しい料理を置いていく。きちんと形を整えられた川魚の塩焼き、白子に大根おろしをのせてつゆをかけたもの、淡い黄色のシャーベットを出された。デザートかと思ったら、品書きには箸休めと書かれている。

「お味はいかがですか?」

「おいしいです」

 鈴川は真顔で答えた。そこで少し笑えば、と思うけれど、怖いのだから仕方がない。

「ありがとうございます。お酒は?」

 仲居は神田に向き直る。

「じゃあ、日本酒を燗で」

「お猪口はお一つ?」

「鈴川、飲む?」

「はい」

「二つで」

「かしこまりました」

 仲居がいなくなると、鈴川は息を吐いた。彼の場合、女性恐怖症の他に若干の人見知りも入っていると思う。自覚がないようなので、黙っている。知ってしまうと動けなくなることも多い。

 シャーベットは凍りついていて、スプーンが通らなかった。魚をきれいに食べるのは苦手だ。蟹も面倒だと思うし、みかんの白い筋は取ったことがない。

「鈴川、もう一匹食べない?」

「魚嫌いでした?」

「食べ方が面倒なものはパス」

 そういうわけで、鈴川の手元にはもう一匹魚が並んだ。代わりに白子をもらった。突出して好きな食べ物ではないが、もらわないと鈴川が居心地の悪い思いをしそうだった。

箸が器用に動いて魚を解体していく様子を、神田は刺身を食べながら眺めていた。蟹を食べると静かになると言うが、魚を食べても静かになる。いや、鈴川はいつでも静かだった。

 酒が届けられたので乾杯した。鈴川はちょっと舐めただけで、また魚に戻ってしまう。ほろほろと崩れる身を、ちまちまと口に運ぶ。自分には絶対できない。まるでそういう機械のように魚を食べる鈴川を、神田は飽かず見ていた。声をかけたら手を止めてしまうだろう。だから、黙っていた。

 魚を二匹とも骨と皮にしてしまった鈴川は、どことなく満足そうだ。くい、と猪口を空ける。

「鈴川」

 とっくりを差し出すと、素直に猪口を出した。

「なんかこうしてると、失楽園みたいだな」

 口が丸くすぼまった白い猪口だ。なんの模様も入っていない。

「失楽園、ですか」

 鈴川はその有名なタイトルを、アマゾンの奥地で見つかった新種の昆虫の名前のように発音した。薄い唇がすぼまりに触れ、すぐに離れる。

「見たことある? ないか。映画もドラマも結構前だったしな」

 二〇〇〇年になる前だったはずだ。鈴川は中学生くらいだろうか。親が見せないだろう。

「映画があるのは知ってましたけど、ドラマもあるんですね」

「俺は映画しか見てないけど、確かすごく視聴率が高かった」

「原作は読みました。学生時代に」

 鈴川はシャーベットのスプーンを取ったが、すっかり液体になってしまっているのを見て、そのまま戻した。

「何がいいのか、正直わかりませんでした」

「あはは、俺も。ちょうどお前くらいの年に見たんだよ。お盛んなおっさんだなとしか思わなかった」

 相手の女優が誰か忘れてしまった。きっと美人だっただろう。こんな人妻と不倫してみたいと全国の男性に思わせるような。

「なあ、鈴川」

「はい」

 手酌で猪口を満たす。もう一本飲んでもいいかな、という気分だ。しかし、この先ご飯と味噌汁しか来ないことを考えると、悩みどころではある。

「俺が心中してくれって言ったらどうする?」

 酒を飲み、白子を半分口に入れる。だしはほんのりと甘く、舌の上でとろけた白子と溶け合う。

「理由を訊きます」

 鈴川は魚についてきた蕪らしき漬物を食べていた。

「納得できなかったらダメってこと? 厳しいなあ。お前を説得する自信ないわ」

「いえ、理由はなんでもいいです」

「何だそれ」

「神田さんが、どうして俺と心中したいのかを知りたいだけです。例えて言うなら、好きな食べ物が知りたいのと同じです」

 酔っているようだ。鈴川は普段例え話をしない。ちなみに神田の好きな食べ物は焼きそばで、鈴川はそれを教える前から知っていた。

 とっくりを空にして、入れすぎてしまった猪口をそうっと持ち上げる。

「ふうん。じゃあ、なんとなくでもいいのか?」

 意地悪をしてみる。困り顔を想像して笑みが浮かんだ。最後の一口は温い。

「なんとなくで選んでもらえるなんて、最高ですね」

 うれしそうに目を細める。

 一瞬で酔いが回ってしまった。くらくらする。

「……敵わねぇなあ」

 酒はもういい。大人しくご飯と味噌汁でいい。



Fin.

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失・失楽園 タウタ @tauta_y

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