せめて

山本てつを

第1話 A面

 彼女から

「大切な話があるの」

 と、カフェに呼び出された。

 こういう時の『大切な話』は、まぁ、『別れ話』なんだろうな……。

 いくら鈍いぼくでも、それくらいの察しはついた。


 いつもの店。

 いつもの女性店主。

 いつものテーブルで向かい合ったぼくと彼女。

 彼女はいつものラテ。

 ぼくもいつものブラック。

 そして。いつもと違う彼女の真剣な目。

 その目を見ると、ぼくの気分は直滑降で沈んでいった。

「あのね……」彼女がためらいがちに口を開いた。

 そんな、申し訳無さそうに言わなくてもいいよ。覚悟はついている。

「あのね……。言いにくいんだけれど……」

「なに?」ぼくの方から『さよなら』のセリフを言ってあげるのが最後の優しさなのかもしれないけれど、その勇気を絞り出す事はできなかった。

「あのね……。実は……」

『他に好きな人ができたの』のパターンかな……。

「あのね……。赤ちゃんが、できたの……」

 は!?

 はぁ!?

 あ、あ、赤ちゃんだって!

「え、えーと、え、つまり、つまりあれだ、ぼ、ぼくが、ぼくは、父親になったって言う事?」

 彼女はうつむいたまま

「うん……」

 と、弱々しく言った。

 涙が一粒、テーブルに落ちた。

「ごめんね……」

「謝ることなんてないよ、ビックリして慌てちゃったけれど、君が悪いわけじゃないから!」

「うん……」

 彼女がまた弱々しく言った。


 思わぬ変化球だった。だからついつい取り乱してしまった。

 しかし……。

 そうか、ぼくは父親になったのか……。


年貢の納め時ってやつだ。

 ついに覚悟を決める時がきたらしい。

 いいさ。ぼくは彼女を愛している。二人の間にできた子供なら、もちろん愛さずにはいられない。

 これは父親になった人間の責任だ。

 今年で二十八歳、けして早すぎるわけでもない。


 ぼくらはカフェを出て、彼女が医者からもらった妊娠証明書を持って、二人で役所へと向かった。

 何か話をしなくてはと思ったけれど、何も言葉が出て来なかった。

 彼女も黙ったままだった。

 長いような短い時間。ぼくらは役所へ着いた。


 妊娠届けの窓口へ行き、妊娠証明書を出した。

 すぐに女性のガードマンが二人やってきて、ぼくらの後ろに立った。

 ぼくは彼女の手を取り

「じゃあ、いってくるよ」と、言った。彼女は泣いたままだったが、その口は何かを伝えようとしていた。

 大丈夫。

 ぼくらはずっと一緒さ。


 ガードマンにはさまれ、ぼくは役所の奥の部屋へと続く廊下を歩いて行った。

「ずいぶん落ち着いているわね」ガードマンが言った。

「そうですか?」

「ええ。ほとんどの人はこの廊下を泣きわめきながら抵抗してつれていかれるのよ」

「そう……。でしょうね」

 愛する人を守るためだ。男に産まれてしまった日から、覚悟はできていた。

それに、ぼくが泣き叫べば、彼女がつらい思いをするだけだ。

 重い鉄の扉が開き、椅子が一脚だけ置かれた狭い部屋へ入れられた。

 ぼくは椅子に座り目を閉じた。

 優しい音楽が流れていた。


 世界的な人口爆発。食糧危機。資源の枯渇。もう何十年も前から、この地球という星は、新しい人間が生まれる余地などなくなっていた。

 子供を産むならば──一人の人間が増えるのならば、一人の人間が減らなければならない。つまり、死ななければならないという事だ。

 それは子供を産み育てる母親の役目ではない。

 父親の仕事だ。

 子供のために自分が死に、一人分の空席を作ってあげる──。

 それが父親が我が子に差し出せる、唯一の愛情だ。

 まだ見ぬ我が子を守る、たった一つの愛情だ。


 部屋の中に甘い匂いが立ち込めてきた。

 ガスだ。

 あと数分で、ぼくは写真でしか知らない、父親の待つ天国への階段を登る。

 しかたがない。

 男のぼくはこれしか我が子にしてあげる事はできないのだから。

 しかたがない。


 ──けれど。

 せめて。

 せめて。

 せめて!

 せめて、赤ん坊をこの手に抱きたかった!




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