マグナ・マテル

大月 小町

序章

〈白の塔〉


 天にも届きそうな高い塔を見上げ、フィン・フィンレイは目を細める。

 こんなにも高い塔を見たのは、生まれて初めてだった。


 塔は真っ直ぐ天に向かって伸び、装飾どころか汚れ一つない純白そのもの。

 これが何十年、何百年と放置されたままの塔だとは、とても思えない。昨日、塗り直したばかりです、と言われても信じてしまうほどに塔は白く、美しい状態を保ち続けている。

 そんな塔を見上げていたフィンは、なるほど、と納得する。


 この塔に名前はない。

 ただ昔から、〈白の塔〉と呼ばれ続けている。

 どうして〈白の塔〉と呼ぶのか分からなかったが、実物を見てしまったら納得するしかない。人の手を借りずとも、半永久的に美しい状態を保ち続ける塔を、誰かが〈白の塔〉と呼び始めた。

 この塔に名前はないが、〈白の塔〉と聞けば、誰もがこの塔を思い浮かべる。

 フィンもその一人だった。


「フィンレイ、中に入るぞ」


 しばらくそうして塔を見ていたフィンを呼んだのは、上司であるべリウス・ロウ。塔の前で立ち尽くすフィンと違い、ロウは既に塔の入り口前に立っている。


 〈白の塔〉の入り口に、扉はない。大人一人が通れる大きさを、くり抜いているだけ。扉と言うより、ただの穴と呼ぶべきだろう。

 その穴をくぐり、ロウとフィンは塔の中に入る。


「わ……!」


 塔に入った瞬間、真っ暗だった内部が温かな橙色の明かりに包まれる。光源はどこにあるのか。塔の内部をくまなく観察してみるが、光源らしきものが見当たらなかった。


「遅れるな」


「は、はい」


 都会に来た田舎者の気分。

 フィンは先に螺旋階段を上り始めるロウの後に続く。

 外側を見て分かっていたことだが、塔には窓がない。終わりが見えず永遠に続きそうな螺旋階段と、外が見えない閉塞感で、押し潰されそう。


 そう思った矢先、どこからか風が吹いてきた。夏の草原に吹くような、爽やかな風だ。

 フィンは思わず足を止め、風が吹き込んできた場所──窓を探した。

 が、窓はない。


「…………」


 風は上から吹いたのか、それとも下から吹き上げたのか。

 それすらも分からなかった。

 フィンはなんとなく、白い壁に触れてみた。塔の内壁はなめらかで、どこにも継ぎ目がない。

 どうやってこの塔は建てられたのだろう。進めば進むほどに謎が増えていく。


「フィンレイ」


 厳しい声が頭上から降ってくる。視線を持ち上げれば、声同様、厳しい表情のロウがこちらを見下ろしていた。

 フィンは慌てて階段を駆け上がり、空いていたロウとの距離を詰める。


「気持ちはわかるが、足は止めるな。先は長い」


「……すみません」


 ロウの言う通り、先はまだまだ長い。

 塔を外側から見た時点で、長い階段を上ることは分かっていたが、実際に自分の目で見てしまうと、嫌になってくる。


「この階段を、〈魔女〉は毎日使ってるんでしょうか?」


 上り始めてどれほど経過したのか分からないが、徐々に疲労感が表面に出始めた。汗がじんわりと額に浮かび、のどが渇く。

 そんな自分と違い、先を行くロウの足取りは力強いまま。

 さすがは〈竜〉を倒し世界を救った英雄。頼もしい限りだ。


「あいつは使わない。昇降機エレベーターがあるからな」


「……それ、僕らは使えないんですか……?」


「使う使わない以前に、下で昇降機エレベーターを見たか?」


 ロウが足を止め、フィンを振り返る。

 ロウの髪色は橙色の明かりに染まっているが、実際は白金プラチナブランド。瞳は元々青色だったのだが、およそ千年前に〈竜〉を倒した瞬間、血のような赤色に変化してしまったと聞いている。細身で高身長、黒い騎士服がよく似合う美丈夫は、声さえも良い。

 誰しも一つは誇れるものを持って生まれてくると言うが、べリウス・ロウは持ちすぎだ。


 対する自分──フィン・フィンレイは面白みのない茶髪に、くすんだ緑色の瞳。成長期真っ只中の十四歳なのに身長はいつまで経っても伸びないし、食べたら食べた分だけ脂肪に変わる。剣も銃も、格闘技だって上達しない。

 これほどに差があると、嫉妬もしない。

 と言うかできない。


「外から来た者は、昇降機エレベーターを使えない。この螺旋階段を問答無用で上って行くしかない」


「…………」


 そう言ってロウは、再び足を動かす。


 フィンは初めて〈白の塔〉へ来たが、ロウは幾度か来ている。

 そのたびにロウは、この螺旋階段を上ったのか。自分ならば、二度と来ない。

 ここへ来るだけでも大変だったのに、着いてからも長い長い螺旋階段を上る羽目になるのだから、二度目はない。

 たとえ評議会の命令であったとしても、断固として断る。自分なら。


「ここがちょうど中間地点だ」


 ロウが足を止めたのは、踊り場だった。螺旋階段はまだ上に向かって伸びているが、とりあえず半分は上り切ったようだ。

 妙な達成感がある。


「少し休め。井戸はそこにある。用を足したいなら、奥に行け」


「は、はい。ここは一体……」


 踊り場一帯が、緑に覆われている。畑らしきものも見えるし、ロウの言う通り井戸もある。

 フィンはのどの渇きに耐え兼ね、井戸に歩み寄り覗き込む。底は見えなかった。滑車から伸びる縄に手を伸ばし、木の桶を井戸に放る。


「…………」


 桶が水にぶつかる音が聞こえてこない。

 もしかすると水が入ってないのではないか。不安になったが少し遅れて待っていた音が聞こえてきた。縄を引っ張り滑車を回し、水の入った桶をキャッチする。

 この水はどこから来たのか、地下水なのか。

 いろいろと浮かぶ疑問を後回しに、フィンは桶のまま水をがぶ飲みする。水は思っていた以上に冷たくて、渇いたのどを急速に潤していく。


「ぷはぁ」


 桶の水を勢いよく飲んだので、口の周りは濡れているし、飲めずにこぼれた水で服も濡れてしまっている。

 だがそれすらも、汗をかいた体には気持ちがいい。生き返った気分だ。


「──行けるか?」


 休憩はほんの一時。

 フィンの次に井戸の水を飲んだロウは、既に螺旋階段の手すりに手をかけている。


「……はい!」


 本音を言えば上りたくなかったが、ここまで来て引き返すのはバカらしい。痛む足を無視して、フィンはロウの後ろに続く。


 それからどのくらい上り続けたのか分からなくなり、考えるのもやめた頃。

 ようやく最上階、目的地に到着した。喜びの余韻に浸りたいところだが、そんな余裕はどこにも残っていない。立っているのがやっとの状態。

 そんなフィンと違い、ロウは平然としている。汗もかいていない。


「こ、ここに……〈魔女〉がいらっしゃるんですか……」


 長い長い螺旋階段を上って来たのだ。いてもらわねば困る。

 フィンは呼吸を整え、使い古した布の鞄から水筒を取り出し、中身を一気に飲み干す。水筒の中には、中間地点にあった井戸の冷たい水が入っている。


「あの女は根っからの出不精だ。ここにいなければ、世界中どこを探したっていない」


 そう言ってロウは、ずかずかと挨拶もなしに足を進める。


 最上階は生活感で満たされていた。壁一面を覆う棚の大半には、厚さも年代も異なる様々な本が詰め込まれ、入りきらないものは足元で小さな塔を作っている。

 ただ足元ばかり見ていたら、頭上にぶら下がる乾燥したハーブの束にぶつかってしまう。


「……ん?」


 それらを避けながら奥へと進むフィンは、どうしてだか天井に違和感を覚えた。真っ白な天井が、ぐにゃりと歪んで見えたのだ。

 多分、気のせい。疲れすぎて錯覚でも見たのかもしれない。

 そう納得することにしたフィンは、美味しそうな香りに意識を持って行かれた。


「いたな」


 ロウが足を止める。

 そこは調理場らしく、一人の女性が今まさに、料理をしていた。美味しそうな香りの正体は、鍋でじっくりと煮込まれているスープのようだ。

 塔を上る前に食事は済ませてきたが、階段をあれだけ上ったのだ。腹は減って当然。

 場違いにお腹が鳴らないか、急に不安になった。

 それほどにスープは、美味しそうな匂いなのだ。


「ドロシー・ラム」


 ロウがこちらを見ようとしない女性の名を呼ぶ。女性は振り返らない。


「評議会からの協力要請が出ている」


 相手がこちらを見なくとも構わない。

 ロウは懐から白い紙を取り出し、要件を簡潔に告げる。


「要請に応じるのであれば、評議会はいくつかの罪状を不問とする考えだ」


 ──カン、と何かがぶつかる音。

 女性はこちらを振り返らず、作業に集中している。ぶつかる音の正体は、たまごを割る音だった。

 木のボウルにたまごを落とし、泡だて器で混ぜる。そこに牛乳を加え、バターを溶かした鉄のフライパンに流し込む。

 じゅわぁ……と食欲をそそる音と匂い。

 フィンはごくりとつばを飲み込み、皿に盛りつけられる鮮やかな黄色の物体──オムレツを直視しないよう気を付けた。


「申し訳ないが、我が家には食器が一人分しかなくてね。君達の分はないよ」


 出来上がったオムレツを手に、ようやっと女性がこちらを振り返った。


「この人が……〈魔女〉」


 夜の闇色の長い髪に、瞳は神秘的な青紫色。陶器のようになめらかな肌は、新雪を思わせる侵しがたい色をしている。背はフィンよりも高く、けれども横幅はフィンの勝ち。

 女性を見て抱く全体的な印象は、美しいの一言に尽きる。

 ただ白衣の隙間から見え隠れする手首や、しわだらけのスカートを蹴って顔を見せる足首の細さに、健康面が心配にはなる。


 彼女の名はドロシー・ラム。

 ロウとフィンが〈白の塔〉を訪れ、あの嫌気がさすほどに長い螺旋階段を上り続けて来たのは、彼女に会うため。


「食事をしに来たわけではない」


 本や紙の束が所狭しと占領するテーブルの上を乱雑にその場しのぎに片付け、ドロシーは出来立てのオムレツ、それから熱々のスープをたっぷり注いだ木の器を置く。


「一ヶ月前、世界樹が開花し、〈欠片〉を飛ばしたのは知っているな?」


 こちらを気にせず食事を始めるドロシーと、相手の都合などお構いなしで話出すロウ。

 フィンはどうすればいいのか分からず、ただ二人のやり取りを見守るだけ。


「それと同時に、巨大な魔法陣が出現した。専門家に確認を取ったところ、“召喚術”の魔法陣であると分かったが、五百年前に定められた法により、いかなる理由があろうとも召喚術は違法。現在、術者の捜索を行っているが、発見には至っていない」


 ロウの話に相槌を打つこともなく、ドロシーはいつのものかも分からない新聞を取り出し、それを読み始める。

 〈白の塔〉は、〈氷原〉〈火の谷〉〈剣の山〉〈魔の森〉に囲まれた立地条件最悪の物件。

 そんな場所に、誰がどうやって新聞を届けているのか。些細なことではあるが、フィンは気になってしまった。


「そこで評議会は、術者の捜索と同時進行で、召喚された者達の‟送還”を行うべきと判断した。召喚された者達は、召喚時の高エネルギーに引き寄せられた世界樹の〈欠片〉を体内に宿し、非常に危険。場合によっては、世界のバランスを崩しかねない。召喚された正確な人数は不明だが、少なくとも数は二十以上であると思われる」


 話は終盤。

 それでもドロシーは視線を新聞に向けたまま、食事を続けている。


「しかし問題は、送還術だ。召喚術が違法となり、先に衰退したのは送還術。現在、送還術を問題なく扱える術者はいない。──お前を除いて。誠に遺憾ではあるが、評議会はドロシー・ラムに協力要請を出すことに決めた」


 ロウの話が終わり、ドロシーはそれを待っていたかのように新聞をテーブルに置く。新聞は一ヶ月前のものだった。見出しには“母なる世界樹、百二十年ぶりの開花”とある。

 魔法陣の出現は誰もが知る事件ではあるが、評議会が圧力をかけているため公に発表されていない。裏ではお構いなしに情報や写真が出回っているが。


「……ふむ、君達が此処へ来た理由は理解した。しかしながら、協力する気はない。他をあたりたまえ」


 食事を再開するドロシーは分厚い本を手に取り、開く。

 フィンは何か言うべきかと思ったが、何を言うべきなのか分からなくて、結局立ち尽くすだけ。

 そんなフィンと違い、ロウは行動に迷いがない。ずかずかと大股でドロシーの座るテーブルに歩み寄り、


「話はまだ終わっていない」


 ドロシーの手から分厚い本を奪い取る。

 ドロシーは不満そうに目を細めた。


「こちらの意思は既に伝えた。話は以上だ。違うかね?」


 若い見た目に対し、不釣り合いともとれる話し方。違和感は拭えないが、〈魔女〉は見た目よりもずっと、年齢を重ねている。十四歳のフィンよりも、確実に年上。聞いた話だと、千年は生きているとか。


「要請と銘打っているが、事実上の強制だ。従わない場合、実力を行使する」


 黒い騎士服の中で存在を主張しているのは、銀色の鞘が眩しい細身の剣。

 かつて暴れ狂う〈竜〉の首を切り落として見せた剣は、〈魔女〉の首などバターも同然。


「ロ、ロウさん……」


 〈魔女〉が有する〈不老〉の力は、老いることのない永遠の美しさを約束するだけ。首を切り落とされれば、一瞬で命の火は吹き消える。

 フィンは場を支配する緊張感に、二の句が継げなかった。


「君は私を殺さない」


 だがドロシーは平然としている。

 すぐにでも剣を抜けるロウを一瞥し、席を立つ。


「私を殺した時点で、送還術はこの世から消失する。そうなれば困るのは誰だ? 協力を要請した評議会だ。君はそれらの責任を取らされるだろうが、性格上、責任の所在など気にしないだろう。だが評議会の決定に背くような真似はしない。だから君は、私を殺さない。その強迫は、私には無意味だ。違うかね?」


「違わないな。だがその両足を切り落とせばどうだ? 両腕は? 従わせる方法はいくらでもある」


 フィンは長い長い螺旋階段を駆け下りたくなった。

 〈魔女〉の説得は難儀すると事前に知らされていたが、これは想定していなかった。説得はもっと穏便に理性的に進められると思っていた。場の空気はどこまでも重く、息苦しい。

 外の新鮮な空気が吸いたくなる。


「足がなくとも手がなくとも、声を失おうとも、私が世界最高峰の魔術師であることに変わりはない。逃れる術などいくらでもあるが、それでも退かぬのが君だな。──評議会は毎度、厄介な男を使いに出す」


 空になった器を片付けたドロシーは天を仰ぎ見る。

 フィンも上を見て、驚く。

 どこまでも広がる青い空、風に乗って流れる雲。すぐそこに、空がある。

 おかしい。これはおかしい。

 だって天井はあった。この目で見た。

 なのにどうして──?

 塔の最上階。そこには本来あるべき屋根がなかった。


「え……そんな、嘘だ」


「嘘なものか。屋根は君の上司に壊されてしまってね。……次はこの部屋を吹き飛ばされかねない。厄介な男だよ、君は」


 ドロシーが指を振ると、蛇口から水が飛び出す。魔術で皿を洗うらしく、フィンは一瞬、そちらに目が奪われた。


「──ドロシー・ラム。評議会の要請に応じるのか応じないのか、決めてもらおう」


 ロウの手は剣の柄に添えられている。

 それをしっかりと確認してから、ドロシーはやれやれとため息をつき、肩を落とす。


「…………不本意だが応じるとしよう。手も足も惜しくはないが、家を壊されるのは面倒だ」


「感謝する」


 不承不承と言った様子のドロシーと、無表情のまま簡潔に謝辞を述べるロウ。

 そんな二人を交互に見たフィンは、ドロシーが自分を見ていることに気づき、知らず背筋が伸びた。


「それで、君は誰かな?」




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