最近息子の様子がおかしいんです
「最近息子の様子がおかしいんです」
とある精神科医の診療室に一人の女性が訪ねてきた。年齢は五十代くらい。やせていて頬がこけ、頭には何本か生えている白髪が目立つ。一言で彼女の状態を表すならば、やつれていた。
「息子さんの様子がおかしい……と。どのようにおかしいか、話せますか?」
精神科医は言った。女性はブルッと震えて話し出した。
「パソコンに……パソコンに向かってブツブツと何か言ってるんです」
「そう、ですか。でもお母さん、落ち着いてください。それはただオンラインゲームを楽しんでいるだけなのではないでしょうか?」
「おんらいん……何ですか、それ」
女性は不思議そうに訊ねた。その様子を見た医師は、この女性は機械には疎いのではないかと推測した。
「最近のゲームはですね、遠くの人ともコミュニケーションをとりながら遊ぶことができるんです。ほら、電話といえばあなたにもおわかりでしょうか? 電話する機能がゲームについていてですね、それで会話しながら誰かと一緒にゲームを楽しんでいるのでしょう。それなら別段おかしいことではありませんので安心してください」
医師は女性をなだめるように言った。だが、女性はどうにも腑に落ちないといった様子だった。
「そうなんですか……でも、話してる言葉がおかしいんです。どう聞いても日本語でないというか、その……」
「オンラインゲームは外国の人とも一緒にできますからね。きっと外国語を話していたんでしょう」
「だといいのですが……」
「もしかして、毎日そればかりやっていて、日常生活に支障が出ているのですか? それなら依存症の可能性がありますので、治療の対象になり得ますが」
「いいえ、たぶんそうじゃないです。一応仕事もしていますし、職場で変なことをしたという話も聞きません。ちゃんと食事はとってますし、夜はしっかり寝ているようです。おかしいのは帰って夕食を取ってから寝るまでの間だけです」
「ふむふむ。まあ、それなら多分問題はとは思うのですが……少し様子を見られては?」
「……わかりました。とにかく、また来ます。先生のおっしゃるとおり、少し様子を見て、次来た時にご報告いたします」
「そうですか。何かあったらすぐに連絡してください。では、お大事に」
話は終わり、女性は診療室から出て行った。彼女の後ろ姿を見送った精神科医は、近くにいる看護師に次の患者さんを呼ぶように伝えた。
それから数日後。医師の元に再び件の女性が現れた。彼女は前回同様に心配そうな顔で診療室に入ってきた。
「こんにちは。息子さんはどうでしたか?」
医師は訊ねた。
「私、息子が何をしているかこの数日間監視していました」
女性は俯きながら言った。
「監視……そこまでしなくてもいいですよ。で、どうでした、様子は?」
「やはり、おかしいと思います。やはりずっとパソコンに向かっていました」
「ゲームをしていましたか?」
「……よくわかりませんでした。ただ、パソコンに向かって何かをしているのは確かですが」
「そうですか。変わらずに食事と睡眠はちゃんととっていますか?」
「はい、とっていました。よくも悪くもこの前から何も変化がありません」
「なら、大丈夫ではないでしょうか。何が心配なのですか?」
「話している言葉がです」
「言葉。外国語を話していることがそんなに気になるのですか?」
「ええ。もし危ない世界に足を突っ込んでいるかもしれないと思うと心配で」
「おそらく、
「いいえ、先生。まずはこれを聞いてください。先生に言われてから息子の部屋に設置しておいた監視カメラの映像と盗聴器の音声です」
医師はおいおいそこまでするか、と思った。本当に治療が必要なのは彼女の方なのではなかろうか……。
女性はスマートフォンを取り出し、アプリを立ち上げ、監視カメラの映像を見せてきた。かなり慣れた手つきで操作していたので、意外にも機械の扱いに長けているのかもしれない。なぜそのような人がゲームひとつで慌てているのだろうか、と医師は疑問に思った。
映像には、斜め左後ろからの視点で小太りの男が椅子に座ってパソコンに向かっている姿が映っていた。ギリギリ唇の端っこが見えるくらいの角度で、表情までは見て取れないが、唇が動いているか動いていないかくらいは確認できる。映像の中の彼はキーボードに手を乗せていたが、そのままじっと動かずただモニターを見つめていた。
「……これ、動画ですよね? 静止画じゃないですよね?」
「はい、動画です。ね、先生。パソコンを使っているのに手も動かさないなんて、おかしいでしょう?」
「はい、まあ……たしかにおかしいですね。少し不気味、というか」
「でしょう? でも、これで終わりじゃないんです。まだ続くんです一番気になってるのは、息子の「言葉」ですから」
「あれ、音量は上げてますよね? 一言も発していないように思いますが……」
「これからですので、見ててください」
女性の言う通り数秒動画を再生し続けると、ついに音がした。だが、その音は異様だった。
ギギギ……パキッ……キキッ。
静止画のような動画から謎の音がした。画面から見える範囲のものからは到底出てこないような無機質で奇妙な音だった。
ピーピー、ピキン。パパパパパン。ピチーピチー。ギギギ……。変な音はそれから間断なく鳴り響き続けた。
もしや、と思い、医師は息子の姿を注視した。彼の唇がわずかに動いている。この音は、彼の口から発せられているものだと医師は理解した。
「お気づきになられましたか、先生。この音、全部息子の声なんですよ……。おかしいでしょう? 変でしょう? 不気味すぎてもう私は眠れません。先生、なんとかなりませんか」
「確かに変ですね……私もこんな症状を見たのは初めてだ。直せるか保障はできませんが、できる限りのことはやってみます。今度、息子さんも連れてきてください。診てさしあげましょう」
「ありがとうございます、先生。どうか、よろしくお願いします」
また数日後にその母親は息子を伴って現れた。息子は不機嫌そうな顔をしており、何で俺がこんなところに、と小声で何度もグチグチと言っていた。
「こんにちは。あなたが息子さんですね」
医師は女性の息子に挨拶をした。息子はやや拒絶的な態度で答えた。
「ああ、そうだよ。さあ、俺のどこがおかしいのか言ってくれよ。突然こんなところに連れてこられて俺は迷惑してるんだよ」
「まあ、まずは落ち着いてこの椅子にかけてください」
医師は息子に椅子に座るように促した。近くにいた看護師が椅子をもう一脚用意し、母親にも座るように勧めた。
「えーと、まずはあなたの名前をお伺いしましょう」
医師は言った。
「なんだよ、わざわざそんなところから聞くのかよ。俺の名前は——」
息子は突然言葉を切った。そして、医師の机に置いてあるパソコンをじっと眺め始めた。
「どうされましたか? このパソコンに何か……?」
息子はパソコンを直視したまま硬直していた。医師は目を丸くして彼を見た。
「大丈夫ですか! 息子さん! お母さま、これは……」
医師は母親のほうを見やった。だが、反応はなく、母親もまた同じようにパソコンのモニターを見つめて固まっていた。
「なんということだ……看護師さ……そんな」
看護師も固まっていた。医師はこのわけのわからない状況にパニックになっていた。
やがて、息子が口を開いた。
「キキキ……ビビ……リロロロロロ……キヒッ」
続いて、母親と看護師も口を開いた。
「ウィーウィー……シュロロロロ……パキンピキン……キーン」
「ああ、ダメだ。私はいったいどうすれば……」
医師は一瞬パソコンを見た。すると、なんだか変な気分になってきて、いつの間にか動きを止め、モニターの光をじっと見つめていた。
「トゥイトゥイ……ヒ……キョイーンキョイーン」
医師は唇を素早く動かしながら言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます