ガン

「ガンです」


 医者は無情にもそう宣告した。椅子に座って聞いていた裕子ゆうこは、信じられないという顔で崩れ落ちた。


「そんな……お父さんが……ガンだなんて」


 裕子は力なく言った。利樹としきは裕子の肩に手を置いて、無言で慰めた。

 父の権蔵ごんぞうは数日前、突然吐き気を催し、気分が悪くなったと言って病院へ駆け込んだ。娘の裕子は大したことはないと思っていたが、医者に検査を勧められたので、念のため病院に検査入院することになった。まさかそんなに重い病気ではないだろうと考えていた裕子は思わぬ医者の反応に驚き、不安な数日間を過ごした。そして、たった今その検査結果が出たのだ。結果は患者本人には直接知らせず、代わりに数少ない肉親である娘の裕子と、その夫である利樹だけが診察室でその検査結果を聞くことになった。


 二人はガン宣告という最悪のしらせを受けて暗澹あんたんたる気持ちになり、頭を垂れていた。


「それは、本当なのですか……?」


 利樹は信じられないといった様子で恐る恐る訊ねた。


「残念ながら……」


 医者は低い声で答えた。それを聞いた裕子は、堰を切ったようにわっと泣き出し、診察室は張り裂けんばかりの悲しい叫び声で満たされた。


「嘘だろっ……お義父さん。あんなに世話になったというのに……。こっちからは何もしてやれなかった……!」


 利樹は悔しそうに拳を固めて言った。そして、医者に食ってかかるように近づき、叫んだ。


「あとどのくらい生きていられるのですか! もうどうにもならないのですか! どうにかして、治してくださいよ! あんた医者だろ? なあ!」


「お二人とも、落ち着いて。何か勘違いされているようですが」


 と医者がなだめるような口調で言った。利樹は矛を収めて椅子の戻り、顔を下に向けていた裕子は泣くのをやめて顔を上げた。


「権蔵さんのご病気は、『癌』ではありません。『ガン』です」


 医者は言った。


「えっ? どういうこと……ですか?」


 利樹は間の抜けた声を出した。ガンではなく、ガン? 一体どういうことだ?


「そうですね、紛らわしい病名ですよね。字で書くとですね……」


 医者はメモ紙を取り出し、ボールペンでスラスラと字を書きだして、それを二人に見せた。そこには『頑』という漢字が書かれていた。


「頑……? 何なんですか、それは。聞いたこともないですが……」


 利樹は医者に訊いた。


「それはそうでしょうね……何せ最近わかったばかりの病気ですから」


 医者は言った。そして続けて説明した。


「『頑』とはですね、とくにお年寄りが罹ることが多い病気です。若者がかかることもありますが、比較的珍しいですね」


「その病気は一体どんな症状が出るのでしょうか……?」


 利樹は生唾をごくりと飲んだ。


「『頑』に罹ると、物事にこだわり過ぎてしまうようになります」


「こだわり……過ぎる?」


 利樹は目を丸くして言った。そんな奇妙な病気が本当にあるのだろうか? 驚きと疑いの目で彼は医者を見た。


「そう、こだわり過ぎて、自分自身の気分を著しく害してしまう病気なのです。そのこだわりゆえに、自分の信念を頑として曲げないという症状が出るため、『頑』という名前がつきました。似たようなものに強迫性障害というものもありますが、それとは違い強迫観念から行動を起こすことはありません。……強迫観念といいますのは、たとえば、そこまで手が汚れていないにもかかわらず、もっと綺麗にしなければならないと思って必要以上に手洗いをしたり、行動をする際に別のやり方でやっても問題がないことでも、特定の決まった手順でやらないと不安で不安で仕方がなくなってしまう、などといった症状のことです。強迫性障害ではそれが強く出るのですが、『頑』の場合それがないのです。不安にかられて行動を起こすわけではなく、むしろ自分から進んでそれを行い、こだわりを見せます。ですので、強迫性障害とは似て非なるものと言えます。おそらく検査前にもそういったこだわりを見せていたと思いますが、何かあなた方にも思い当たる節がおありではないしょうか?」


 医者はそう二人に説明し、同時に手がかりも探った。裕子は泣き腫らした目を擦りながら医者の問いに答えた。


「ええ、まあ。確かに心当たりは……。父は今陶芸に凝っていまして。昔からやってみたかったんだ、と言っていて、定年退職した直後から始めました。最近では結構上手に作るようになったのですが、その分並の出来では満足できなくなってしまったようで、同じような壺をいくつも作っていて、部屋が壺で埋まりそうになっていました」


 裕子の言葉を聞いた医者は膝を叩いて「それだ」と叫んだ。


「そういうこだわりが、この病気の原因なのですよ。良い壺を作ることにこだわるあまり、それが悪心を引き起こし、このような結果になってしまったのです」


「まあ、そうなのですか……。しかし、何故こだわるとこのような症状が出てしまうのでしょうか?」


 裕子は疑問を口にした。それに対して、医者は答えた。


「最近の研究でわかったことなのですが、人が強いこだわりを見せる際、脳の下垂体から『コダワリン』という脳内物質が分泌されるようなのです。それは人にこだわりを持たせ、より良い状態へ持っていこうという気持ちにさせる良い物質なのですが、分泌過剰になりますと、もっと良いものを、もっと良いものを、という気持ちが強くなりすぎてしまいます。それにより心に焦りが生じ、焦りが原因で良いものを作ろうとしても逆に出来が悪くなってしまい、それを取り戻すためにさらに焦って取り繕おうとしてまた出来の悪いものを作り出す、という悪循環に陥るのです。そうなると思ったような成果が上げられなくなるので、気分が悪くなってしまいます。これが悪心の種です。これを何度も繰り返して心に蓄積することで、あなたのお父様のように大きく体調を崩してしまわれるわけです」


「なんてこと、父のささやかな趣味が、まさかこんな病気に繋がっているなんて……」


 裕子は驚いた様子で言った。そのあと、裕子は少し残念そうにうつむいてボソッと呟いた。


「父はもう陶芸を止めなければいけないのでしょうか……あんなに楽しそうだったのに」


「そんなことはありません。コダワリン自体は悪いものではないのです。ただ、お父様の場合量が多すぎるのです。逆に言えば、それさえ制御すれば大丈夫なわけです。コダワリンの分泌量を抑える薬があるので、それを使ってみましょう。また、物事に対する受け取り方を変える精神療法もあります。それも一緒にやりましょう。効果があるかもしれません」


 医者は明るく答えた。裕子は医者の言葉に希望を持ったためかホッと安心して、肩の力を抜いた。


「ほ、本当ですか。それで治るんですね!」


「よかったな、裕子」


 利樹は裕子の手をとってニコッと笑って喜んだ。


「ですが、まずはやってみてからでないと効果のほどがハッキリとわかりません。ですので、試してみましょう。そのためにはご家族であるあなた方の協力も不可欠です。わたくしどもも精一杯やらせていただきますので、一緒に頑張りましょう。それではよろしくお願い致します」


 医者は軽く頭を下げて言った。そうして父権蔵の治療生活が始まったのである。



 数か月後、治療の甲斐あってか、権蔵の病状はみるみるうちに回復していった。以前は強いこだわりを持っていた父も、今はこだわりを捨てて陶芸を始める前の穏やかな生活に戻りつつあった。

 もう吐き気もなくなり、医者の治療は必要ないと思えるほどに回復していたが、念のため、定期的に父を検診してもらっていた。

 そして、何度目かの診察の日。この日の父の体調は良さそうだったが、医者は父の様子を見て眉をひそめていた。


「せ、先生……。もしかして、どこか悪化した部分でもあるのでしょうか……?」


 父を診察室に連れてきた裕子が不安そうに訊いた。医者はその表情を崩さないまま神妙な面持ちで答えた。


「いや、『頑』は回復してきている。確かに回復してきているのだが、これは……」


「え、一体何があったのです。はっきりとおっしゃってください」


「少し、治療が効き過ぎたらしい。逆にコダワリンの分泌が少なくなってしまったようだ。ううむ、これではこだわりが薄すぎて、良いものを作ろうという気持ちがなくなってしまう。これはこれでまずいことだ」


「そんな……先生、どうしたらいいでしょうか」


「わたくしも治療の方法を考え直さねばなりませぬ。あなたのお父様は河原の小石のように少々丸くなり過ぎたようです。これは『頑』と同時期に見つかった病気、『ガン』ですな」

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