真夜中の旅路

長谷川昏

前編

 窓際に置いた一人掛けのソファで目を覚まし、寺内てらうちライはまたここで眠ってしまったと自戒した。


 一週間前から滞在するモーテルの部屋には、一応ベッドが二つあるが、どちらも清潔で穏やかな眠りを約束してくれるものとは程遠い。

 シーツはいつ交換したのかと疑うべきものであるのは間違いなく、足の多くはえた何かがそこを這う姿を目にしたのは、多分見間違いではない。ついでに言えば元の色が既に判別不可能な絨毯の上には砂埃や汚れが堆積し、至る所の物陰にはしなびたポテトフライやスナック菓子の空き袋が散見できる。


 潔癖症では毛頭ないと自認している。これよりもっと劣悪な環境にいたことは今までの人生で幾度もある。ただ、人に部屋を貸してそれで商売をしているというのに、この現状を平然と放置できるその心根に対して異議があるのかもしれない。けれども自分もそれ故の安価を理由にここに宿を取った事実は確実にあり、その辺りをぐだぐたと指摘するのが筋違いなのは重々承知している。


 このモーテルに滞在して数日、ほぼ安眠を得られずにいる寝床だが、もう一方のベッドからは豪快な鼾が聞こえてくる。

 既に慣れたと言うこともできるが敢えて認識し始めると、どうにも苛立ちが毎度立ち上がる。溜息の後に窓際を離れ、ライはその傍まで歩み寄った。


 そこには一人の男の姿がある。

 長身すぎると言うか、別の言い方をすれば非常に馬鹿でかいせいで、足先がベッドからはみ出しそうなその姿を見下ろす。

 この男は旅の連れ合いというか相棒のようなものではあるが、しかし相棒というその言葉を思い巡らせると、それには懐疑を覚える。


 果たしてこの男がこちらをそう思っているかは未だ甚だ疑問で、自分としてもそれでいいのかという思いがある。でもそれはともかく、大口を開けて知性のかけらもない寝顔を晒す相手を見ていると、今度はぶん殴りたい思いが先立つ。その望みをここで果たそうと思えば多分果たせるだろうが、自分よりかなり頑健な相手の余裕を結局垣間見るだけで終わるだろうから、それはやめていつもの口攻撃にしておく。


「起きろ、穀潰し」

 頭上から言い放つと相手が身動ぎし、その手が無意識に寝乱れた長めの髪を掻く。

「ん……もう朝か」

「朝だな、残念ながら」


 相手は寝ぼけ声を上げながら身を起こすと、今度は無精髭の伸びた顎をさする。

 自分も割合長身だとライは思うが、この男、廿日市はつかいちれいはガタイもいいこともあってそこでそうしているとまるで山のようだとも思う。

「腹、減ったな……」


 その言葉にライは耳を疑った。

 昨晩カジノのレストランで、チキンやらステーキやらウオッカやらテキーラやらを、底なしの沼の如く消し去っていく姿をこの目で見ていた。確かにその光景も既に見慣れたものではあるのだが、未だに呆れ果てる光景でもある。


「朝飯なら、コーヒーと一番安いバーガーぐらいなら食える。それ以上は望むな」

 ベッドで髪を適当に結わえる相手にライは今ある現実を言い渡すが、それには疑問の混じりの言葉が戻る。


「ええっと……昨夜ゆうべはもう少し稼ぎがあったような……」

「そんなものはもうない。俺はそこそこ稼いだが、そのほとんどをお前がスッた。あのな怜、お前、あのガバガバな金の賭け方をやめろ。カジノから叩き出されて、パンツ一丁の惨めな姿になるのもお前だけならいいが、いつか俺までその阿呆展開に巻き込まれそうだ。それと馬鹿みたいに食って、馬鹿みたいに大酒を呑むのもやめろ。知らない女に馬鹿みたいにほいほい奢るのもやめろ。なぁ、これでもうしょぼい朝食しか食べられない理由が分かったか? 穀潰し」

「……毎度毎度、寝起きから手加減もなくキツイな、ライ……」

「知るか、お前が蒔いた種だ、怜」


 最後にそう言い放つと、ライはバスルームに向かった。

 錆びた蛇口を捻れば水が出るという一応最低限のことは守られているが、窓もなく一日中湿気だらけのここも碌な状態でないのは既に認知のとおりである。

 黴びた洗面台に手をつき、汚れてくぐもった鏡を覗けば、そこには二十代後半の男の酷く不機嫌そうな顔ある。


「今日も朝は来た、残念ながら」

 全てを見失うほど絶望している訳ではないが、微々たる希望がある訳でもない。

 呟いても仕方がないのも分かっているが、毎度のその呟きが出る。この言葉をいつまで繰り返せばいいかも分からないが、それを考えるのも酷く遠いことのように思える。


「なぁライ、そんな切ないことを言うなよ」

 開け放した扉向こうからは幾分しおらしい声が届くが、それに期待を持つのは愚かなことであるのはもう分かっている。緩慢に向けた視線の先には、いつもどおりの相手の表情がある。


「メシと酒と女性を見て愛でるのは、俺の唯一の楽しみなんだよ。それにほら、俺って男前だろ? なんも言わなくてもいつも女性の方からわんさか寄ってきて、それに優劣をつけて捌くのも俺としては……」

「もういい、いいからもう喋るな、余計に疲れる。朝飯、食いに行くぞ 怜」


 相棒のくだらない言葉に毎度時間を割くほど、おおらかでも寛容でもない。

 しかしその言葉で、自分のくだらない思考が中断されたのも確かだった。

 酒好きで大食いで、物事をあまり深く考えない。

 自分と全く正反対のこの男と、もう一年近くも旅を続けている不可解なその事実こそが、自らが熟考すべきことではないかとライは思う。





 部屋を出て、モーテルの駐車場を通り過ぎると、その前を横切る寂れた国道が目に入る。時折猛スピードで走り去る車の合間を縫って道路を渡り、この国のこの街に来てから、ずっと世話になっているダイナーに向かう。

 ものの五分で到着し、問題なく窓際のテーブル席に着くが、しかし早速やはりと言うか、先程放った助言という名の説教が何も意味を為していなかったことをライは知る。


「なぁ、アップルパイも頼んでいい? あと、ビールも、できればストロベリーシェイクの大も欲しい」


 朝九時のダイナーは賑わっていた。

 客達の会話があちこちで響き、陽気なカントリー音楽が店内に流れている。

 溜息もなく、ライは向かいにある能天気な顔を見る。賑やかな店内とは相反する悪態が脳内に次々に浮かび上がるが、敢えて何も言わず店員を呼ぶと、有無を言わさず一番安いバーガーとコーヒーを二つずつオーダーした。


「ええー? ラーイー」

「やめろ、不気味な声を出して手を握り取るな気持ち悪い。それに頼むからしばらく黙っていてくれ。これ以上お前の声を聞いていると、無駄なことを繰り返し続けている自分の愚かさをより実感する」

「まぁまぁライ、そう自分を卑下するなって」

「はぁ? 一体全部誰のせいだと思ってる?」

「そう怒るなって。ほら、アップルパイとビールとストロベリーシェイクの大はしょうがないから諦めてやるからさぁ」


 よく考えずともいつしか向こうが譲歩する形になっているこの状態には、溜め込んでいた溜息がようやく出る。苛立ちのようなものも胸の奥で燻るが、この男と行動していればこんなことは序の口にすぎない。


「はーい、お待たせ」

 険悪な空気を覆すように、顔見知りにもなりつつあるウェイトレスが料理を運んできた。ハンバーガーやコーヒーを手早くテーブルに並べる相手に、怜が早速気軽に声をかける。


「サリーちゃん、いつもどーも、ありがとー」

「いーえ、こちらこそ毎度ありがとうね。だけど今朝もこの組み合わせってことは、昨晩の稼ぎもちょっと残念な結果だったのかしら?」

「うんまぁそんなとこ。でも俺、ここのスペシャルバーガーが食べられる日まで、サリーちゃんには毎日会いに来るつもりだからさー。て言うか本当はバーガーなんかよりそっちの方が楽しみー」

「もぅ、その言葉はありがたく受け取っておくけど、あたし結婚もしてるし、もうおばさんよ」

「そんなことないってー、もうすんごく最高にイケてるよー。俺こう見えて、実は結構歳食ってるしー」

「いやぁねぇ、あたしが知らないと思ってからかわないでよ。確かにアジア系の人達の歳は分かりにくいけどあなた、どう見ても二十代そこそこでしょ? その気持ちだけ受け取っておくわ。それじゃ、二人とも食事を楽しんで。コーヒーのおかわり、欲しかったら言ってね」


 いつもにこやかなサリーはテーブルを去ろうとするが、足を止めた。制服のポケットから何かを取り出し、並んだ皿の隣に置く。その少し厚ぼったい掌から零れ落ちたのは、鮮やかな色の包み紙が目を引くキャンディだった。


「こんなのデザート代わりにもならないかもしれないけど、おまけよ。子供達にあげようと思って準備してたの。ハッピーハロウィン。今夜はお祭り騒ぎになると思うけど、だからってあんまり悪さしちゃ駄目よ、二人とも」

 そう告げた彼女は今度こそテーブルを去り、その言葉にライは改めて店内を見回してみた。


 言われてみればオレンジや黒の風船にカボチャ、店の中は至る所賑々しいハロウィン色に染められている。もうそんな時期かと思うが、元より無宗教の自分に関係ないことだと目を離す。

 しかし正面に視線を戻せば、満足そうにハンバーガーにかぶりつく姿が無条件に目に入り、そのやたらと幸せそうな顔を見ていると次は軽い脱力を覚える。だがこの相手にいつまでもああだこうだ言っても、現実が変わる訳でもない。その姿にもう一度呆れの一瞥をくれると、ライは自分の食事を続けることにした。


 この国のちょうど南部中央に位置するここは排他的だと聞いていたが、そうでもない。様々な土地を巡っていれば、時には警戒心どころか剥き出しの敵対心を抱かれることもある。でもここに来てから出会った人達はサリーを始め、皆陽気で気さくだった。無論そうでない者もいるだろうが、今のところ支障はない。

 異国の流れ者の男二人組がいても、さほど気にしていない。元々そういった人達の通過点的土地柄でもあるようだ。住人達の方も〝それなり〟のつき合い方や接し方を心得ているのかもしれなかった。


「あー、うまかった」

 食事を終え、店の外に出ると大きく伸びをした怜が隣で声を上げる。早速貰ったキャンディの包み紙を剥ぎ、何がうれしいのか楽しそうに口に放り込む。


「食事の後にすぐにお菓子? 子供か?」

「与えられたら心置きなく戴く。それが礼儀だろ? 特に俺達は。トリックオアトリート。お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞって」

「……やめろ、お前が言うと可愛くないし、なんだかいやらしく聞こえる」

「いやらしい? もしかしてそれは褒め言葉か……? ってことは俺もまだまだ捨てたものじゃないってことで……」

「馬鹿馬鹿しい」

 呆れながら告げると、隣の男は魅力的にも見える含み笑いをする。

 鼻唄混じりに国道を横切りながら、口の中のキャンディをがりがりと噛み砕いた。


〈後編に続く〉


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