谷内緑 2話

 心臓の音が周りに聞こえていないか、すごく不安になった。

 僕の小さい心臓は、もうこれ以上働けないと言っているみたいだ。

 気分もあまり良くない。

 薬が手に入る瞬間の、あの謎の嘔吐感に似てるかもしれない。


 母さんから手紙は来なかったけれど、 今更止まる事なんてできない。

 弱い僕は、不確かな道を進む事しかできない。

「今日」やるしかない。


 どんな手を使って横谷を惹き付けてくれてるかは知らないけれど、中西さんはうまくやってくれるだろうか。 

 今日の助務は僕達が陰で「レゴ」と呼んでいる、小柄ですごく地味な若い印象のおやじだ。

 渾名の理由は見た目が、玩具のレゴに似ているから。 

 小柄だから武道は剣道とかを修めているのかもしれない。



 この「レゴ」のPHSに着信があれば決行の合図だ。 

 今日の所内の感じを見ると、中断は無さそうだと思う。


 皆しきりに松を切り揃えているけど、ペースは普段よりもかなり遅い。

 事前に「今日」だと伝えた吉田さんも、皆とペースを合わせてくれている様に見える。







ピピピピッ



 そう思った矢先に決行の合図が鳴る。


 僕の心臓はどくんと大きく跳ねて、小さく細かく跳ね続けている。



「はい、内掃1班駒田です。異常ありません。はい、変わらずC地区の剪定中です。」


 レゴが言い終わると小西君が作業を止めた。 


「おやじ、ここの松の中に蜂の巣があるかもしれません。ちょっと見てもらえませんか?」


 横谷ならこの寒い季節にふざけた事を抜かすなと言い出しそうだけど、レゴは危ないから下がれと言い松を覗き込んだ。




 その瞬間──


 小西君がレゴの首に飛び掛かった。



 星さんはすぐに周りを警戒し、本山さんは運搬具であるリアカーに積まれた脚立を「脱獄用」に組み直す。


 僕はすいませんと言いながら、吉田さんの無表情な顔目掛けて全力で拳を当てた。


「よし、締め落としました。簡単に腕がきまってラッキーでしたね」


 吉田さんが大袈裟に倒れ、気絶する様な仕草を見せたとほぼ同時にレゴの首を羽尾い締めにしたまま小西君が言った。

 首を圧迫している腕はそのままに、レゴを横に寝かせやっと腕を解いた仕草は、どこかぎこちなかった。


「予定より早い。畳み掛けよう」



 僕の役割は、刑務所に残る吉田さんへの援助疑惑への保険だった。

 気分の良いものじゃない。あんな良い人を殴った僕はいつかバチが当たるかもしれない。

 現に殴った方の手が、血の流れに合わせてずきずきと痛むのを感じる。


 レゴをもう一度見ると本山さんが脚立の持ち出し時に必要な鎖と南京錠を、レゴの足と手に巻き付け拘束していた。


 星さんがリアカーを牽き、外壁の側で止まった。


「もう引き返せない。見付かろうと何があろうと後ろを見るな」


 そう言った星さんは、本山さんと二人係りで本来は逆V字で使用をする脚立をI字に外壁に寄り立たせた。



 届く──

 

 これならギリギリだけど届くぞ。


 殿は小西君自ら務めてくれた。

 僕は本山さんの後だ。




早く──

早く。




 星さんがギシギシと音を鳴らす脚立を登り切ると、高い塀の上でこちらを振り返り頷いた。

 異様な光景だなと思い息を呑むと、星さんが塀から飛び降りてすぐにドスンと重たい音がした。



 成功したんだ──


 本山さんもすぐさま続いた。

 身軽な本山さんはまるで猿を思わせる動きで登りきり、息を吐く間もなく飛び降りた。


 次は音がしなかった。

 受け身でも取ったんだろうか。


 感心する余裕も無く、すぐに震える足で僕も続いた。

 ガクガクと揺れているのは、僕の足か脚立の強度が無いのか分からなかった。




 申し訳の無い事に、登り切るのに一番時間が掛かってしまった。

 心の中で小西君に謝りながら、星さん達が飛び降りた先を見た。

 建築用具でも運ぶ様な大きなトラックが、真下で待機していた。

 行き交う車の運転手の一人が、口に手を当てて驚くのが見えた気がした。


 時間がない──


 吐きそうになった瞬間、目を瞑り飛び降りた。

 もしかしたら人によっては、足を滑らして無様に落ちた様に見えたかもしれない。

 内臓を置き去りにしようとする浮遊感の後に、足に柔らかい感触と音が聞こえた。





ジリリリリリリリリリ



 同時に耳へ突き刺さる火災ベルの様な音が、とても大きな音で鳴り響く。


 まずい──


 これは非常時に刑務所が鳴らす音だ。

 あのカメラは飾り何かじゃなかったんだ。

 気付かれるまで数分あったけれど、ちゃんと誰かが監視していたんだ。




 小西くんはまだ塀の上に来ない。



 いても立ってもいれなくなり、荷台のスポンジの様な物を掻き分け前へ進んだ。

 運転席にいる星さんと本山さんに、小西君がまだな事を伝えなければいけない。

 最悪は置いていくしかない──

 塀の上に、小西君の姿を探しながら窓をノックする。



 ウィンドウは開かなかった。


 変だな──



 何で誰もいないんだろう?

 

 

 おかしい。


 騙された?

 あの星さんに?

 いや本山さんもグルか?

 何の利がある?

 囮?


 ぐるぐる回る頭の中で、何とか周りを見る。

 

 さっきの車に通報されたと考えた方が良い気がした。


 

 僕は運転した事がない。







 気付いたら自分の足で走っていた。

 ちんたらとやっている迷惑な小西君を待たずに、受刑者丸出しの緑色の作業服で。




 裏切られるって、最悪の気分だ。



 そうだ──



 僕が捕まる前に見付け出して、殺してやる。


 いつもの様に、薬物をたんまりと血管に打ち込んでやろう。

 ODで死ねたら最高の死に方じゃないか。

 今までの女もみんな良い顔して、死んでいったんだ。





 あぁ、早く薬が欲しい──


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