第176話 あの日あの時(1)

そして。


数時間後。


八神はふら~っと戻ってきた。



「あ、どうでした?」


夏希が駆け寄ってきた。


「どうって・・」


八神はおなかを押さえた。


「なんか音とかするんですか? 火花が散るとか!」


素人な質問をし、


「そんなわけねえだろ! バカっ!」


八神は自分のことを棚に上げて、偉そうにそう言った。


「痛くはないんだけど。 なんか台の上に乗せられて。 レントゲンみたいな機械があって。 まあ、気づいたら終わってたけど、」


「そうなんだあ。 なんか呆気ないですねえ、」


夏希がガッカリしたような顔をしたのを見逃さなかった。


「おまえは何を期待してるんだっ!」



美咲といい、加瀬といい。


ほんっと!


いつか仕返ししてやっからな!



負け犬の遠吠えのように


そう思った。




八神は夕食を採りながら、恨めしそうに目の前に座る美咲を見た。


「え? なに?」


彼女が怪訝な顔をして言うと、


「人の目の前で、ガンガン、ワイン飲みやがって・・」


「自分が飲めないからって、」


「だいたい、このメシの格差はなんだよっ!」



自分の前には野菜のにっころがしと、味噌汁とご飯だけ。


「おまえはトンカツかよっ!」


「しょうがないじゃない。 しばらくは脂っこいものダメって言われたんだし。 また石ができてもいいの?」


ジロっと睨まれた。


「かわいそうだから、あたしもおんなじもの食べる~、とか言えないのかよ、」


「なんであたしまでそんな老人食食べないといけないのよ、」


「ほんっと自分勝手な、おまえ・・」


「人に当たらないで!」


また、くだらないことでケンカをするふたりであった。




そんな騒ぎがあったのだが。


八神は外出から戻ってエレベーターを降りると、その前で待っていた女性を見て驚いた。


「・・ま、マユちゃん?」


麻由子だった。


「八神さん、」


驚いた顔の八神とは対照的に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「え、どうしたの? 帰ってきてるの?」


「ええ。 休暇で。 あたし、おかげさまで今年の秋で・・留学期間を終えられることになったので。」


「そっか・・もう2年経つんだ、」


八神は時間の流れの速さを思い知る。


「それで・・志藤さんが、ソリストとして契約をしないかって言ってくださって。 そのことで、」


「ホント?」


「ええ。」


麻由子は満面の笑みでうなずいた。


八神は一度エレベーターに乗って帰ってきたのだが、また彼女を見送るために一緒に降りて行った。



麻由子はあれから猛然とヴァイオリンに邁進し、志藤からパリのコンクールで3位に入賞したとか、噂はきいていた。


彼女が留学してからは全く連絡を取っていなかったので、話をするのも久しぶりだった。


「本当に志藤さんにはお世話になって。 なんてお礼を言っていいか、」


彼女は少し大人っぽくなったような気がした。


毎日がきっと


充実しているんだろうということが


伝わってくるように


とても


落ち着いた雰囲気を感じた。


「ううん。 一番にお礼を言わないとならないのは、八神さんですよね。」


麻由子は八神を見てニッコリ微笑んだ。


「いや、だからさ・・おれ、ほんっとなんもしてないし、」


そんな風に言われると、照れてしまう。


「あたしが一生ヴァイオリンをやっていこうって、思えるようになったのは八神さんのおかげですから。 ほんと、あの時諦めなくてよかった・・」


ほんと


諦めるなんてことがなくて


よかった。




八神も心からホッとしていた。


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