第160話 好きな人のこと(3)

真尋は美咲を地下の練習室に連れて行く。


何も言わずにピアノの前に座り、やおら弾きはじめた。


こんなに近くでピアノを聴くのは初めてだったので、美咲は少しその音にビクっとしてしまった。


音楽のことは


詳しくないけど


音が


身体の中まで入り込んでくるような。


そんな感覚に襲われる。


いつも、バカなことばかり言ってふざけている彼とは


まるで別人のように


研ぎ澄まされたナイフのように


真尋の目は鋭い光を放っていた。



『ほんっと、すっげえんだよなあ・真尋さんのピアノは。 口ではとっても言い表せないけど。 ほんっと毎回感動しっぱなしで、』



いつも


幼い笑顔をもっと綻ばせて嬉しそうに話をしてくれた


八神のことを思い出す。



『すっごい才能あるのに。 コンクールで大した成績残してないから。 もっと世界中の一流オケと競演の話がいっぱいきてもいいのに。 もっともっと世界中の人に真尋さんのピアノ、聴いてほしいのに・・』



慎吾・・・。



美咲は一度止まった涙がまた溢れてきて止まらなくなった。


頭がぼうっとして。


少しめまいがした。


「美咲ちゃん、」


南が彼女の異変に気づいて身体を支えた。


やはり


熱があるようだった。



慎吾が


愛して


愛して


やまないピアノ。


あたしはそういう慎吾ごと


ずうっと愛してるって。




「ちゃんと・・できてるみたい。」


絵梨沙はふっと微笑んだ。


「え・・」


南と美咲は彼女を見た。


「ウン。 八神さんが心配しなくても。 真尋、ちゃんとできてるし。 これなら、きっと志藤さんも斯波さんも。 納得してくださるって思うから・・。」


「ほんまに?」


南はピアノに関してはシロウトなので、彼女の言うことを鵜呑みにするしかなかった。



あたしも


よくわかんないけど。


ほんと


すごい・・


胸が


すっごく熱くなって。


ざわざわして・・


美咲は涙をこぼしながら胸の前で両手をぎゅっと握り締めた。




「だいじょぶ? 熱、38℃やって。」


南は美咲を寝室のベッドに寝かせた。


「ほんと、すみません。メイワクかけてしまって、」


「ううん。 今日は真太郎は社長と大阪に出張やし。 あたしもちょっと寂しかったから。」


南はニッコリ微笑んだ。



「・・なんか。 不思議なんです・・」


美咲は天井を見ながら言った。


「え?」


「前はね、こんな風に思わなかったのに。 慎吾がどっち向いてようと、最後にはあたしに向いてくれればいいって思ってたのに。 でも、慎吾があたしに向いてくれたとたん。 どこも見て欲しくなくなって。 あたしのことだけ・・見てて欲しくって。 なんて、自分勝手なんだろって、」


美咲は声をつまらせながらそう言った。


「自分勝手なんかじゃないよ。 それは。 幼なじみでもなく恋人同士でもなく。 もう、夫婦になるねんから。 夫婦って家族になるんやもん。 家族は気持ちがひとつにならないとやっていかれへんやろ? 生まれたときからずうっと一つ屋根の下で暮らしてきた家族やなくて。 別々の人生を歩いてきた二人がな、一緒に暮らすんやもん。 おんなじ方向向いてへんと、それはやっていかれへん。 だから、自分だけ見て欲しいし、他の誰よりも自分のこと考えてほしいって。 思うのは当然やん。」


南は美咲の額に冷たいタオルを乗せてやりながら言う。


「南さん・・」


彼女の優しい言葉に美咲はまた涙ぐんだ。


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