第104話 涼風(2)

翌日


昼ごろに美咲は八神の祖母のところにやってきた。


「ばあちゃん、起きてる?」


「・・美咲?」


そっと目を開けた。


「うん。 風が気持ちいいよ。 少し、障子を開けてもいい?」


「うん、」



美咲はそっと障子を開け放った。



青い青い空に白い入道雲。


セミの声


風鈴の音


美咲は祖母の傍らに座って、そっとうちわで風を送ってやった。




「夕方。 帰るから。 慎吾と、」


ポツリとそう言った。


「そう・・美咲に、会えてよかった。 ありがと・・」



そんなこと言われると


涙、出そう・・



その時、風に乗ってオーボエの音が聴こえてきた。


エルガーの


『愛の挨拶』


美咲は耳を澄ませるように目を閉じた。


「慎吾の・・ラッパだ・・」


祖母はつぶやくようにそう言った。



「ラッパ?」


美咲はおかしくなって笑ってしまった。



ばあちゃんは


慎吾がオーボエをやるようになっても


オーボエって


なかなか覚えられなくて。



教えても


教えても


『ラッパ』って。



懐かしくて


どうしようもなく。




実家に眠っていたオーボエを


久しぶりに取り出してみた。


音が出るか心配だったけど


ちゃんと出てくれた。


八神は庭に出てそれを吹いていた。



よくここで練習したっけ・・



『ばあちゃん! おれ、プロオケに受かった! 受かったんだよ!』


北都フィルのオーデイションに受かった時、一番最初に電話で報告したのは


ばあちゃんだった。


『え? なに? ぷ、ぷろ・・?」


耳が遠くなった祖母はそれを何度も聞き返し。



『プロのオーケストラだよ! 北都フィルオーケストラっていって、まだ新しいけどすっごくいいオケなんだ。 そこのオーボエに採用されたんだよ!』


『え~? ほんとう? プロになるの? 慎吾・・』


『うん、そうだよ。 プロになるんだ!』



涙が出るほど嬉しかった日・・


ばあちゃん、


ありがと・・



「・・慎吾は。 だいじょうぶなのかねえ、」


祖母の言葉に


「え?」


美咲は静かに聞き返す。


「のんびりしてるから。 東京なんかで・・仕事できないと思ってた・・」


「大丈夫だよ。 ちゃんと仕事してるよ。 頑張ってるよ、」


美咲は祖母を安心させるように言う。


「あの子は怖がりで。 小学校3年生まで・・一人で寝れなくて・・いつもあたしの布団に入ってきて・・」


「甘えん坊だったよね、ほんとに。」



「美咲・・慎吾をよろしくたのむね・・」


祖母は美咲の手を握った。


「ばあちゃん・・」


胸がいっぱいになった。


「ばあちゃんの大事な慎吾・・あたしも大事にするから・・ずうっと、」



涙が


零れ落ちる。



八神の透きとおったオーボエの音が


悲しく心に響く。




それでも別れの時はやってきて。


祖母が亡くなったのは


八神と美咲が東京に戻って3日が経った日のことだった。



眠るように息を引き取った、と八神の母から聞かされた。


八神はすぐに駆けつけたが


祖母の死に顔が本当に穏やかだったので


すごくすごく


ホッとした。



涙は


不思議に出なかった。


あの時


ちゃんとお別れできたって


思っていたから。


美咲と結婚したいって


ばあちゃんに


言うことができたから・・

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