第35話 転換(4)

「え・・?」


志藤はタバコを持つ手を止めて彼女を見た。


「あんなこと言ってここを突然やめたのに、こんな図々しいこと言えないですけど! 結局、あたしパリで挫折して。 もう、やればやるほど自分の力のなさがわかってしまって。 留学する時もこちらでバックアップしてくれるって志藤さん、言って下さったのにそれも断って。 一人でやれるって勘違いしてしまって。 全然、そんな実力なんかなかったくせに。 ほんっと、バカだったんです。」


泣きそうになりながら麻由子は一気に自分の気持ちを話した。


「もうヴァイオリンを辞めようかと思ったこともありました。 でも、昨日真尋さんのピアノを聴かせていただいて。 あの頃の気持ちを思い出して。 あたしはやっぱり音楽が大好きで、もっともっとヴァイオリンを弾いていたいんだってことがわかって・・」


志藤は黙って聞いていた。


「ムシのいいことだってこと、わかってます。 でも、どうしてもまたオケで・・」



必死な彼女に対して、黙りこくる志藤に


「志藤さん、彼女ほんと傷ついて帰ってきたんです。 自信もやる気も失って。 だけど、今はもう一度ヴァイオリンをやりたいって気持ちが沸いてきて、」


八神は助け舟を出した。



志藤は黙り続ける。


「志藤さん、」


ちょっとイラついて八神は声をかけた。


「あのさ、」


ようやく彼は口を開いた。


「・・北都フィルはまだまだ駆け出しのオケや。 確かに。 日本の一流のオケに比べたら、まだまだやん。 でも。 みんなにはプロとして誇りを持ってやって欲しいと思ってる。 そして、技量なら他のオケに負けないくらいになったって、おれはほんまにそう思ってる。」


静かに話し始めた。


「ダメな人が、じゃあここならって・・戻ってこれるような場所じゃないんだよ。」



優しく


しかし


厳しくそう言われ、


「え・・」


麻由子は小さな声をあげた。


「そんなに、甘くないよ。 プロなんだから。」


彼は少し微笑んだが、目の奥は全く笑っていなかった。


「し、志藤さん!」


八神はそんなことを彼女に言う志藤を責めるように言った。



麻由子はショックで


言葉が続けられなかった。



「そんなこと言うなんて! マユちゃんは、本当に悩んで。 志藤さんにしてしまったこともすごく反省してるんです。 彼女のヴァイオリンが素晴らしかったことは志藤さんだってよくわかってるでしょう?」


八神はそんな彼女を庇うように必死に言った。


「『素晴らしかった』んやろ?」


志藤は八神をジロっと見た。


「え、」


「今、彼女にその力があるのか?」


一転して厳しい口調で言う。


麻由子は耐え切れず大粒の涙をポロポロとこぼしてしまった。


「す、すみませんでした。 帰ります。」


いたたまれなくなりバッグを手に立ち上がった。


「マユちゃん!」


八神も立ち上がる。



出て行く二人を尻目に


志藤はタバコをふかして、落ち着いて座っていた。



「マユちゃん!」


泣きながら応接室から出てきた麻由子を八神は追いかける。


事業部のみんなは異様な光景に目がそちらに行ってしまった。


「あたしがバカだったんです。 ほんっと図々しいって。 志藤さんが言うことはもっともです、」


麻由子は手で涙を拭った。


「も、もう一度、必死にやってみようよ! ね?」


八神は彼女の肩を掴んでそう説得した。


「なんか、自信ない・・」


「大丈夫だから! マユちゃんのヴァイオリンが素晴らしいことはおれが一番わかってるから!」


真剣な八神に麻由子は顔を上げた。


「だから・・ もう一度、」



この子を絶対に助けたい


もう


理屈じゃなく、そう思えた。

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