第28話 つかず離れず(3)

明るくて話好きの美咲はあっという間に事業部の中に溶け込んだ。


なんか、


すっげ


憂鬱になってきた・・。



八神はもう


色んなことから逃げ出したくなってきた。





勝沼への社員旅行の準備が着々と進んでいたある日。


八神はオケの公演が秋に行われる渋谷にある音大で打ち合わせをしていた。


この音大からは北都フィルに何人か楽団員として参加をしてもらっている。



こういう雰囲気も懐かしいな。



キャンパスの光景を懐かしそうに眺めた。


ここかしこから


楽器の音が聴こえて。


自分も


こうやって夢見てた。


すっごいビッグな演奏家になりたくて。


この頃は


頑張れば何でも叶うと思ってた。




その時


中庭のベンチに一人ぽつんと座っていた女子学生に目をやった。


あれ・・?


彼女と目が合った。



「や、八神さん?」


「マユちゃん?」


約1年半ぶりの再会だった。



神谷麻由子は八神より4つ年下で。


音大1年生で、プロオケである北都フィルの楽団員オーディションに合格してきたヴァイオリニストだった。


彼女の才能は


徐々にから評価され


いづれはソロデビューの話もあった。


「帰って、たの?」


八神は彼女に近づく。


「・・はい、」


麻由子はうつむいて八神と目を合わせないようにしているようだった。


「そっか、ここ、マユちゃんの学校だったよな。」


同じ楽団員として2年間ほど過ごした。


「休暇? いつパリから戻ったの?」


八神は矢継ぎ早の質問をした。


「・・・」


麻由子は黙ったままだった。



麻由子をソロで売り出そうとしていた矢先、彼女は突然、北都フィルを辞めると言い出した。


「日本にいても、これ以上のものはないです。 あたしは日本のマスコミにちやほやされて、テレビに出たり、CDを出したりとか、そういうことをしたいわけではないんです。 もっともっと勉強をして世界に通用するソリストになります、」



みんなの前で志藤にそうハッキリと言った彼女の姿を昨日のことのように思い出す。


ある意味


今まで育ててくれたオケを


裏切るような形で彼女はパリへ発った。


自分より4つも年下の彼女のその行動は


少なからず八神にショックを与えた。


そして


自分は


気がつけば何も持っていないことを


彼女に気づかされた。



ほどなくして


自分もオケを辞めて行った。



「おれも、オケ辞めたんだ。」


八神は何も言おうとしない麻由子ににっこりと笑いかけた。


「え・・」


「1年半くらい前。 マユちゃんが辞めて3ヶ月くらいしてからかな。 なんか限界感じちゃって。 それで、しばらく実家でくすぶってたの。 でも、志藤さんが事業部で仕事しないかって誘ってくれて。 2月から仕事してる、」


「そう、だったんですか・・」


「志藤さんも、去年取締役になって、今は斯波さんがだいたいの指揮を取ってる。」


「志藤さん・・」


麻由子は何かを思い出してしまったようで、また口を噤んでしまった。



そして、何かを吹っ切るように


「あたし、留学やめて・・日本に帰ってきたんです。」


麻由子は八神を見た。



「・・戻って来たのは、半年前です。」


彼女は


堰を切ったように涙をこぼし始めた。


「ちょ、ちょっと・・どうしたの?」


八神は目の前で女の子に泣かれて、オロオロしながら自分のハンカチを差し出した。


麻由子はそれをそっと手にして顔を覆った。



彼女との再会が


八神の今後を


突き動かしていこうとしていた。



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