前編

落陽

落陽・1


 男の顔が、ぱかっと割れた。

 中から醜悪なものが飛び出してきた。


 あぁ、まただ……。


 こぼれる白い歯は、かつてこの男の爽やかさを象徴するものに思えていた。

 私を惹きつけてやまない素敵な笑顔……。

 でも、今はまったく同じ笑顔でありながら、なぜこうも違うのだろう? 白い歯は私を引き裂く牙、素敵でも爽やかでもない、醜い微笑みだ。


 二十九歳。


 何度もこんな男の顔を見てきた。

 何度か恋を重ねてきた。でも……。

 そのたびに、別れを告げたのは私のほうから。

 男はずるい。

 けして、別れを言い出さない。

 嫌な役回りを、必ず私に回すのだ。


「もう……会わないほうがいいよね?」


 未練たっぷりで、気持ちの整理がつかないうちに、こんな言葉をはかなければならない。


「何言ってるんだよ! 俺、どんなことになっても、麻衣のこと、好きだから……」


 私だって別れたくない。だから、こんなに苦しいのに。

 本心を見抜いて、男は適当なことを言う。

 私は、本当に泣きそうになる。

 その言葉を、本当に信じてすがりたくなる。


 信じたい。

 でも、信じてすがっても、そいつは悪魔だ。神様じゃない。

 割れた笑顔から飛び出したきたない物を、どうすれば美しく留めておけるのだろう?


「俺たち、愛し合っているんだ。どんな障害があったって、うまくやっていけるだろ?」


 そうだよ……。

 愛し合っていたら、どんな障害だって乗り越えられるよ。

 なのに、この男は絶対に言わないのだ。


「彼女と別れて、君と結婚する」とは……。

 そのかわり、軽はずみな言葉を連ねていく。


「君を失うなんて……そんな辛いことは、俺は耐えられない」


 私だって、あなたを失いたくはなかった。

 でも、軽はずみな言葉を連ねるたびに、あなたはどんどん醜悪になっていく。

 私はますます悲しくなる。



 彼は一ヶ月後、別の女と結婚する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る