ジョン・ディクスン・カーを読まなかった男たち -The Hollow Woman-

かんにょ

第一幕 語られざる事件

 これから語る密室殺人事件は、私の友人ヘル博士が手がけた事件の中でもとびきり奇妙で、不可能趣味にあふれた難事件である。

 だが事件の特殊性とは裏腹に、本国イギリスにおいては、この事件はいまひとつ知名度がふるわないようだ。

 だがそれも、事件が極東の神秘の国ニッポンで起きたことを思えば、無理らしからぬことだろう。これは実にもったいないことだ。この事件ほど、謎と神秘を悦びとする探偵小説マニアの渇を満たらしめる事件はないからである。

 そして他ならぬ私自身、この事件にたいしては一種忘れがたい印象を抱いているのである。


 事件は大抵のヘル博士の事件がそうであるように、酒場で始まる。

 髭をそらない連中の陽気な声でざわめくカウンター、年代物が充填された酒樽が山と積まれ、アルコールの匂いが染みついた板張りの壁に、朱々と燃えるマントルピース。

 そんな光景のさなか、時おりビールを呷っては、雷鳴のような笑い声を高らかにあげる、小粋で愛すべき男が超然と安楽椅子に腰かけていた。

 まさしく、我らが名探偵のヘル博士である。

「ヘル博士。お久しぶりです」

「おおう、乱ポールか! 待ちわびて君が来ることをすっかり忘れておったぞ!」

 ヘル博士と私は楽しいお喋りに花を咲かせた。そして私も十分に酔いが回ったころ、博士は不意にこんなことを言った。

「なあ、君。旅に出たいとは思わんかね?」

 私はヘル博士の言葉に驚いて顔を上げた。

「旅ですって! 旅って……どこへです、いったい」

 博士は如何にも芝居がかった動作で、諸手を高く掲げて叫んだ。

「ニッポンじゃよ、乱ポール! おお神秘の国、ニッポンじゃ! わしら英国人が失いつつある謎とロマンを――あるいは冒険という名の女神を――いまだその内に秘めたる東洋の黄金郷じゃ!」

「し、しかし、そんな急に言われても……」

 私は博士のの突飛な提案に難色を示した。

 だが博士は、

「ハッハー。なるほどなるほど。いかにもわしの提案は突飛じゃ! しかしの、世の中の提案と呼べるもので、およそ性急でないものはないのじゃよ!」

 ヘル博士はなにやら格言のような言葉を言った。

「なに、これはのう、例の『下着蒐集狂事件』の解決を二人で記念して、ちょいとした自分たちへの褒美にと考えておるわけじゃ。ほれ、君もあの事件では、相当に骨を折ったじゃろうからな」

「たしかに、あの事件はずいぶんな難事件でしたからね……」

「そうじゃ、わしらには休息が必要なのじゃ!」

 このように博士からの説得を受け続けるうちに、酒の力か、はたまた相手の気をほぐす博士特有の話しぶりの効用か、私もこの旅に対して前向きになってきた。

「まあ、しかし、家内が許せばですがね……」

 幸いにも、妻の「泥シー」もまたこの意見に賛成のようだった。

 かくして我々は祖国を遠く離れた極東の神秘の土地へと足を踏み入れることになったのである。

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