発露雑記

夏島臙脂


会社を辞めた。それ自体になんら罪悪感も未練もないが、転職も何も考えずに飛び出てしまったためにやることがなくなってしまった。求人サイトを漁るのも二日で辞めてしまった。

 そうして部屋の中でただただ時間を浪費して三日間、ベッドの上で丸まっていると自分が蛹になったような気がしてくる。生きているのかも死んでいるのかもわからない。惰眠を貪るだけで蝶になって飛び立てたならどんなによかっただろう。死なないために生きていて、生きたくないくせに死にもしないこの存在のどこに意味があるだろう。

 親の期待だとか将来のことだとか、そんなものはとっくの昔にどうでもよくなっていてた。

 頑張れば報われるだとか、努力が実を結ぶだとか、あるいは諦めなければ夢は叶うだとか、そんな輝かしい言葉に囲まれて育った先にあったのは、こんな何でもない現実だ。

 きっと今私が死んだとて、誰も気づきはしないだろう。見つけたときはそれなりの騒ぎになるだろうか。いや、今の時代にはきっと、そんな死はありふれていて、話題になってもせいぜい一日二日のすぐに流されるニュースの一つだろうか。そんな、微々たる死だ。


 ふいに、腹がうめき声を上げた。放っておこうか悩んだが、胃に何も入っていないというのは存外に気持ちが悪く、息苦しい。眠っていたいのにここ最近寝てばかりいたためすっかり目が冴えてしまっている。

 吐き気にも似たその感覚を引き摺りながら、私は部屋の隅の冷蔵庫に向かうことにした。

 中に納まっていた肉だの卵だのを寄せ集めてキッチンに立った。


 冷凍食品の買い置きが無くなっていたから早めに買い足さないといけない。貯金はあとどのくらいあっただろうか。料理なんていつぶりだろうか。

 そんななんでもないようなことを考えながら、私はおもむろに卵を一つ掴んだ。

 白く硬いそれを手の中で弄んで、シンクに軽く叩き付けると、小気味のいい音とともにしっかりとヒビが走る。

 ステンレス製のボウルの中に中身を落とし込むと、暗い室内で双方は鈍い光を拾って私にその存在を主張し始めた。

 無精卵であるはずの卵黄は妙に艶があって、今にも雛鳥になってしまいそうな迫力があった。そこに命はないとわかっている。しかし、私とこの卵では明らかに後者の方がいかにも生きているようであった。生き生きと死んでいた。


 そうだ。私はこのような死にざまを知っている。あまりにもありふれていて、ちっぽけな命の死であるはずが、私に今も強く踏み込んでくる死を。私の脳裏に未だ蔓延るあの死骸もまた、今の私よりもはるかに、生き生きとした死にざまを晒していたはずだ。


 私がまだ10になるかならないか、そのくらいの頃だっただろうか。

 当時私の住んでいた家は海から山へと続く1本の坂道の脇にあり、隣にはヒノキやクスノキが生い茂っていた。もう少し登ると幾つか集合住宅があったため、車の通りも少なくなかった。


 我が家の眼前に広がるそんな道路の真ん中に、鼠が息絶えていたのは。


 鼠は猫ほどの大きさをしたドブネズミのようで、毛の色はたしか、薄い茶色だったように思う。見える部分の殆どは潰れた肉ばかりで、毛の色なんてものは曖昧だった。鼠らしいこと以外生きていた時の姿などは何一つとしてはっきりわかることはなかった。

 おそらく前日の豪雨にたまらず側溝から飛び出したのを、たまたま通りがかった車によって一撃でぺしゃんこにされたのだろう。

 学校に向かうべく家を飛び出した私の目にまず飛び込んだのは、気味悪そうに顔をゆがめた登校途中の子供たちの顔だった。

 無理もない、鼠は四肢を大の字にアスファルトへと投げ出し、その胴に詰まった桃色の身を盛大に見せびらかしていたのだ。あの、子供の手のひらほどもない小さな心臓のはじけた姿は、今でも私の頭を気まぐれにかすめていくことがある。

 うえぇ、だのキモーイ、だのと人の家の前で好き勝手言っている子らとともに、学校へと向かえば、まずクラスで持ち上がる話題は鼠であった。

 肉が見えた、気味が悪かった、帰りにはなくなっているだろうか、ビョーキを持ってるかも、うろ覚えの知識と初めて見る動物の真新しい死骸への野次は、その邪見な言葉とは裏腹に、子供たちの笑い話のタネとして、その日一日有効に活用されたのを覚えている。

 彼らは道の真ん中に現れた鼠の話ばかりしていたが、私たちの通う通学路には、存外いたるところに動物の死骸というモノが転がっていた。虫などは日常茶飯事だったはずだ。

 ワゴンの黒いタイヤに潰されていくキリギリス、雨とともに流れ去ってしまう潰れた蛙、死んだ蛇の骸で遊ぶ男児、襲われ地に落ち、その傷のために飛ぶことなく死に果てた燕に、どうして気づかずにいられようか。

 そういうモノを見たおかげで、蛙や蛇やムカデなどの虫たちが枕を埋め尽くす夢を見たこともあった。

 小さな命の死とは、存外あちこちに広がっているものだ。見慣れてしまえば、誰もその死を憐れむことなどない。

 たまたま大きな鼠が道の真ん中にぺしゃんこになっていた。ワタが胴の形そのままに黒い地面に縫い止められて衆目にさらされていた。それは私たち子供の通学に置いて、何一つとして珍しいものではなかったはずなのだ。

 だというのに、あの鼠は私の見てきた死のなかで特に滑稽で、異彩を放ち、なおかつ憐れにすら映った。あまりにも鮮明に、私にその死にざまを見せつけてきたのだ。

 帰りにはなくなっていると予想された鼠は、依然としてそこに居座っていた。


 母は昔からグロテスクなものが苦手だったから、あの鼠を最も嫌っていた。父に向かって早く退かしてくれと頼んでいたのを覚えている。兄らといえば、鼠よりもテレビやら買ったばかりの小説に夢中で、おそらく今聞いても鼠のことなど露とも覚えてはいないだろう。父もいずれ烏なり猫なりが持ち去っていくと決め込んで、さして興味もないようであった。

 夕飯時であったのもあるが一家の話題にもならない鼠の死が、私には妙な哀愁をもって感ぜられた。


 翌朝になっても鼠はそこにいた。子供はもう物珍しげな目をさっさと潜めて不快そうに顔を背けていた。

 さて、いつになればあの鼠は我が家の目の前からいなくなるだろうか。もしかするとあれは自分が死んだのもわかっていないのではないか。そんな当時ですら馬鹿馬鹿しいと思えることが頭をよぎる程度には、鼠は私の頭の隅に巣を作り、延々と脳髄を回っていた。

 初めの日から四日経とうと、五日経とうと、鼠は一向に退く気配を見せない。それどころか、幾度も通る車によってより平たく延べられてしまい、いよいよアスファルトと同化でもするんじゃあるまいかとさえ思えた。白く細い腸の管もすっかり潰れて、今やただの肉塊である。

 鼠を鼠たらしめていたのは、よくぞと言ってもいいほど綺麗に形を残した頭部のみであった。

 日曜になって、母がふと吐き気のためにとんと家事ができなくなった。最近大病を乗り越えたばかりだったのもあって不安を覚えたものの、母は違うと否定した。一週間ほど前から軽く症状はあったのだとか。

ふいに合点がいった。鼠が出てきた時期と変わりないのだ。そうして私は母にその原因を話して聞かせると母もまたはっと顔を見合わせた。

無論鼠の祟りだのという世迷言は言わない。ただ耐性のない母が毎日洗濯の度に顔を突き合わせていたために体調にまで影響してしまったのだろう。

すると、母は矢の如く家を出た。庭に落ちていた長い木の枝を掴み、じりじりと鼠に忍び寄っていくと、噛みつかれまいとでもするように母は鼠の背に枝を差し込んだ。

 あっという間とはこういう事を言うのだろう。鼠は実にあっけなく地面を離れてしまった。そこに一片の肉片も血潮も残すこと無く、まるで桃の皮のように剥がれて側溝のどぶの中へと還っていった。


母はそれから数時間もしないうちに回復し、夕飯を食べながら事の顛末を父に話し終えると、もう鼠の話はしなくなった。

 悪いことではない。むしろ精神衛生の面考えれば、鼠は早々に退かされてもおかしくなかったのだ。だがあんなに私に纏わりついていたはずの鼠がいなくなり、私はまるで寂しいような心持ちを覚えてしまった。

 やるせないような、物悲しいような気持ちのまま側溝を覗けば、そこにはもう鼠と呼べるものはどこにもなく、私の頭を始終埋めていたモノはすっかり消え失せてしまった。



 今一度卵を眺めた。菜箸で真ん中から割ってしまえば、その美しい円形が崩れてドロリと溶ける。

 たったそれだけだ。たったそれだけで、あの生き物らしさは失われ、ともに鼠も何処かへ失せた。あとは軽快な音とともにかき混ぜてしまえばただの具材へと様変わりする。

 滑稽で軽々しい命だ。だがそういうものを強く感じた時に限って鼠は頭をよぎる。見事に死んで、私に存在を叩きつけたあの鼠は今も道の真ん中で、私に思い出される日を待っているような気がした。

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