『ボヘミアン・ラプソディ』 誰もがフレディに魅了される、たった一つの理由

 厳格なゾロアスター教信者の両親に嫌気が差して、夜な夜なライブハウスに入り浸る主人公。

 彼はちゃんとした名前があるが、「フレディ」を自称している。


 


 ボーカルがいなくなったバンドに声をかけ、仲間に入る。

「出っ歯で歌えるのかよ?」とメンバーから言われたが、だからこそ音域が広かった。


 


「女王陛下(クイーン)」と名乗ったバンドは、サイケなファッションに身を包み、地下バンドから一気にスターへと上り詰めていった。


 


 大手レコード会社と契約し、彼らが作り上げようとするのは、オペラのアルバムだ。



「アホか! 六分もラジオで流せるかい!」

 プロデューサー激怒。

 

 当時、


「三分以上の音楽はラジオで流せない」


 というルールが存在した。


 


 「それなりの曲があるからええやん。これでいけや!」

 と、別の曲を売り出そうとするプロデューサー。



 クイーンは彼の元を離れ、更に高みを目指す。



 だが、成功はフレディを段々と傲慢にしていく。

 その矛先は、バンドメンバーにすら向けられて……。

 

 


|俳優が実際に演奏




 オレは本作を、2019年の元旦に見に行った。映画の日だったので。

 見終わった後、歩いているオレの後ろで、すすり泣く声が多く聞こえた。

 

 オレは二回泣きそうになった。


 


 一つはのライブシーンを奥さんと一緒に見る場面だ。



 フレディは、「言葉が通じない国(多分、東京かと)」で歌うのが不安だった。




 その不安を客が吹き飛ばした。


 一緒に歌ってくれたのだ。


 それゆえに、その直後のゲイ告白シーンは切ない。


 「love of my life」


 TVに映るフレディが、 

「ボクの人生最愛の人よ、行かないでくれ」

 って歌ってるのが皮肉が効いている。


●後述●

 日本のライブシーンはカットされたらしいので、違うかも。





 もう一つは、もちろんラストのライブシーンだ。



 自分で歌ってるって聞いて、慌ててニュースをチェック。



 本当に歌っているらしい。


 


「そうでなきゃ、臨場感が出ないからね」


 と監督談。


 


 徹底的なリアリティに拘った監督は、俳優たちに楽器まで演奏させたとか。



 演奏シーンは、ほとんど自身で演奏しているらしい。


 


 また、最後のライブシーンは、観客の視点を排除したという。



「フレディと一緒にライブに出ている、という感触を味わって欲しかった」


 


 と、監督は語っている。


 


 表題のボヘミアン・ラプソディだが、

「自身のゲイ告白を表現した歌」

 との説もある。

 


 


 彼の生き様自体が、すでに物語だ。



 

「出っ歯のゲイがスーパースターになって、ロックで世界を変える話」



 このテーマだけで、既にカタルシスが発生している。


 


 最初、彼はブサイクな自分を捨てた。


「パキスタン人」って蔑称だったんだな。



 家族を、恩人を、マネージャーを、恋人を、最終的に友達まで捨てた。

 

 だが、自分が死ぬと悟った彼は、今度は刹那的な生き方を捨てた。



 全てを取り戻し、かつて自分が捨てた仲間と、手を取って立ち上がる。

 そういう物語である。

 

 彼が最初からイケメンだったら、こんな映画にはなっていない。


 彼は決して格好良くない。



 出っ歯・ヒゲ・タンクトップなど、美的センスもズレている。



「ムダを削ぎ落とした」

 とも読み取れるが、

「誰もが捨てるであろう要素を全部自身に装着させた」

 とも見て取れる。

 

 普通のオッサンがここまでやったら、誰も振り向かないだろう。


 


 だが、フレディは振り向かせてしまう。

 それだけのカリスマなのである。



 欠点だらけだからこそ、彼はここまで輝けた、とも思える。

 コンプレックスを武器に変えて、彼はのし上がってきた。


 


 だが、その自分を演出するために、どこまで努力をしていたか、というのをこの映画は描いているのだ。



 大胆にならざるを得なかっただろし、プレッシャーもあっただろう。

 事実、彼は「クリエイティブのため」と言い訳して、クスリに手を出している。

 

 決して、元々カリスマ性が備わっていたわけではない。


 


 そういった苦悩、また、彼女がいるのにゲイであるという矛盾と、常に対決する。


 


 そこにドラマが発生し、あのライブへと繋がっていく。


 


「人が死ぬ話なのに、どうしてこうも活き活きと描かれているのか」



 は、ここにヒントがある。

 


 


 


|とんでもないヤツを作る


 


●結論

 


 よく、

「益を得るのは読者を先にすべきか、作者が先か」

 という議論が、度々話題になる。


 


 個人的に、益は作者にあった方がいいかなーと。

 作者が潤っていないと、創作どころではないのだ。



 作中でも、フレディは仲間のボロ車を売って、CDの制作費に充てている。


 

 ただ、オレの個人的感想として、

「とんでもないヤツを見たい」

 という感情はある。


 


 それを生み出すには、

「自分がとんでもないヤツになるしかないのかな」 

 とも思えるのだ。


 


 映画では、フレディとバンドメンバーの亀裂が決定的になったシーンがある。

 仲間に黙ってソロデビューを決めたフレディは、


 


「オレが加入しなかったら、お前は歯科医になるしかなかったんだぜ」


 


 と、メンバーを罵る。


 


 だが、フレディはメンバーの元へ戻ってくる。

 その時に言った「ソロ活動についての感想」が、実にもの悲しい。

 天才故の孤独が、その言葉に全部詰まっているのだ。


 


 

 世間にツバを吐き、石を投げつけても、ダメな時はダメ。

 ならば、ヨイショされ続けてもダメなのだ。



 

 ボヘミアン・ラプソディは、



「どんな目に遭わされても、オレはやってやるぜ」


 


 という、開き直った男の歌だ。

 


 あなたは、それなりの作家で留まりたいか。

 なら、それでもいいだろう。


 あるいは


「周りから誤解されても、とんでもないヤツ」


 を目指すもいい。

 

 少なくとも、オレはフレディに対して、

「彼に金を落としたい!」

 と思ったよ。


「こういう生き方をすべきだ」

 なんて、説教臭い映画ではない。

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