森の妖精との不思議な日々

水谷一志

第1話 BLACK(ブラック):黒

 五月病―。これは辞書によると、

「新人社員や大学の新入生や社会人などに見られる、新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の総称である。」とのことである。

 確かに、これは正式な病名ではない。しかし、多かれ少なかれ、このような五月病に似た経験(学校や職場に、「明日からは行きたくない。」と思うような経験)は、誰にでもあるのではないだろうか。

 そしてここにも、そんな「五月病」のような思いを抱えた青年が、いた。

 彼の名前は麻倉健人(あさくらけんと)。年齢は、23歳。新卒1年目の、新社会人だ。彼は、学生時代は福祉系の大学で勉強し、一般的に難しいと言われている、社会福祉士の資格を大学4年生の3月に取得した。そして、翌4月から、晴れて新社会人として、某福祉事務所で、働くこととなったのである。

 しかし、彼にとっての新卒1年目の4月は、彼の思い描いていたものとは、違った。

 健人には、ささやかな夢があった。それは、

『大人になったら、お年寄りの方のために働いて、お年寄りの方に寄り添った、社会を作っていきたい。』

と、いうものである。

 元々健人は、いわゆる「おばあちゃん子」であった。もちろん、例えば健人は小学生時代から、同学年の友達と外で遊ぶのは好きだったが、それと同じくらい、おばあちゃんと遊ぶのも、好きだった。

「昔は今と違って、ものがあんまりなくてねえ。いっぱい苦労、したんだよ。」

これは、健人の祖母の口癖で、それを聞く度に健人は、

『そうなのか。いまのおれたちって、めぐまれてるのか。』

と、思うのであった。

 しかし、そんな祖母も、健人が中学2年生の時に、病気で他界した。健人はその時、病院に居合わせ、

「おばあちゃん!おばあちゃん!」

と言い、泣いた。しかし、いくら泣いたところで、健人の大好きなおばあちゃんは、戻っては来ない。それは、当時の健人にとってはあまりにも辛い「現実」であったが、誰もが受け入れなければならない、「現実」であった。


 そして健人は、その日を境に、変わった。いつも、(部活のサッカーはそれなりに頑張っていたものの)勉強には真面目に取り組んで来なかった健人であったが、

『おばあちゃんのような、高齢者の方に優しい、社会を作りたい。』

という気持ちが健人の中に芽生え、それからは、嫌いな勉強にも真面目に取り組んだ。そして、中学・高校の進路相談でも、

「先生、僕、福祉系の大学に、行きたいです!」

と伝え、将来の目標をはっきりとさせたのである。

 そして、(高校時代の猛勉強の結果)健人は某福祉大学に合格し、そこでも(好きなサッカーもしながら)しっかり勉強し、社会福祉士の資格も卒業間際に取得し、翌4月から、某社会福祉事務所の、高齢者担当部門で働くことになったのであった。

 

 しかし、そこでの勤務は、健人の想像からは、遥か遠く離れたものであった。

 その年は、月曜日が4月3日であったので、その日から、健人の勤務は始まった。健人はまず始めに、その福祉事務所の本部で、オリエンテーションを受けた。そして、オリエンテーションが終了し、定時の18時になり、

「お疲れ様でした!」

と言ってタイムカードを押そうとした時、

「君、ちょっと待ちなさい。」

と、上司の部長に呼ばれたのである。

「…すみません、何か?」

「君は、このオリエンテーションで、どういったことを学んで来た?」

「えっ、それは…主に、高齢者福祉の意義について、勉強させて頂きました。

 明日からも一生懸命頑張ります!では、お先に失礼します。」

「お前!」

健人がそうあいさつをした瞬間、その上司は急に声を荒らげた。

「上司より先に帰ろうとする奴に、そんな高尚な理念があるとは思えないね。

 君、仕事をする姿勢が、なってないんじゃないの?」

「えっ、いや、そんなつもりは…。」

「じゃあこの資料、まとめておきなさい。

 今度の会議で使うから。」

健人は、上司からの叱責の後、無理矢理仕事を押し付けられた。そして、健人がその日一人暮らしのアパートに帰ったのは、夜の10時を回った頃であった。

 

 そして、健人は次の日、事務所本部ではなく、健人がこれから働いていくことになる支部に、出勤した。その支部の支部長は女性で、(職場には履いて来てはいないものの)ピンヒールが似合いそうな、いかにも仕事ができる、という見た目の上司であった。

 そしてその支部での初日、健人は、

「麻倉君、この資料、まとめてくれる?」

と、上司に言われた。健人はその瞬間、前日のことを思い出したが、

『俺、しっかり頑張らないといけないな。』

と思い直し、

「分かりました!」

と元気に答え、しっかり仕事をしようとした。

 しかし、

「麻倉君、そんな声の出し方では、地域の高齢者の方がびっくりしますよ。

 まずは、発声練習からしなさい!」

と、上司に言われてしまった。

 さらに、

「すみません、支部長。」

「何ですかその謝り方は!全然気持ちがこもっていませんし、誠意も伝わりません。そんな謝り方では、もし何かが起こった時に、高齢者の方に失礼です。

 ここで、謝る練習をしなさい。」

と言われ、他の同僚も見ている前で、無理矢理発声練習・謝る練習をさせられた。

 そして、

「支部長、資料、まとめ終わりました。」

と健人が伝え、資料を渡して上司が目を通した後、

「麻倉君、ちょっと来てくれる?」

と、健人は呼び出された。

「はい。」

「麻倉君、…これで良いと思ってるの?」

「すみません、僕、何かミスをしましたでしょうか?」

健人は、資料に不備があったなど、ミスがあれば上司や他の同僚にも迷惑がかかるので、しっかり反省しようと思った。

 しかし、支部長からは、

「これはミス以前の問題。こんなの、まとめたうちに入りません。はっきり言って、分かりにくい!

 あなた、学生時代、国語の成績は、どうだった?」

「国語は、そんなに得意ではなかったですが、それは、今回の件と関係は…、」

「口ごたえする気!そんな権利、あなたにあると思ってるの!」

「いえ、そんなつもりは…。」

「じゃあ、さっさと仕事しなさい!」

こうして、健人はまたもや(同僚たちの前で)叱責を受けたのである。


 こうして、健人の4月は、過ぎていった。本部の部長もそうであったが、健人直属の支部長も、退勤には厳しく、健人が先に帰ろうとすると、

「ちょっと、まだ仕事、残ってるわよ!」

と、何かにつけて健人の仕事を増やし、健人の平均退勤時刻は、午後10時を回っていた。

 そのため、定時で仕事を終えていれば、日はまだ沈んでおらず、きれいな夕焼けを見ることができるかもしれなかったのに、(実際、健人は学生時代、夕日を見るのが好きであった。)それすらも4月の健人では叶わなかった。

健人は、日が完全に沈んだ午後10時に退勤し、その後一人暮らしのアパートに戻り、翌朝9時に出勤する、という生活を、繰り返していた。また、本来なら公休であるはずの土日も、

 「たとえ土日でも、高齢者の方にとっては関係ありません!」

などと難癖をつけられ、出勤させられることが多かった。

 そんな生活パターンが続き、健人は5月を迎えた。すると、健人の感覚は、段々と麻痺してくるようになった。元々5月は、桜の花は散ってしまったものの、葉桜のきれいな新緑の季節だ。健人も、(難しいことは分からないものの)この季節特有の緑色を、美しいと思ったことが何度もある。しかし、この時の健人は、そんな色彩感覚さえも、失おうとしていた。いや、本当に色彩感覚を失うわけではないが、少なくともその時の健人には、色彩や季節感なんて、どうでも良かった。ただそこにあるのは、ひたすら業務をこなしていくだけの日々、色に例えるなら、白黒の日々だ―、いや、「ブラックな職場」にかけて、真っ黒な日々、といった方が正しいかもしれない。とにかく健人は、そんな日々に追い込まれていた。


 そして、5月のある日、健人はあることをしに、職場の近くにある、小高い山に来ていた。その日は平日で、出勤日であったが、健人は、

「すみません。今日はどうしても体調が良くないので、休みます。」

と職場に伝え、休みをとっていた。(その時も電話越しに支部長に散々文句を言われたが、「すみません。」の1点張りで健人は通した。)

 健人が手に持っているのは、近くのホームセンターで買った、ロープだ。それを持って健人は、半ば吸い寄せられるように、職場のビルを見渡せる、小高い山に登った。

 最初、その健人の行動には、深い意味はなかった。ただ自分は、休みたい。1日、もう1日…いや、もう自分は疲れた。だから、永遠に休みたい。健人は小高い山への道中そんなことを、頭の中で壊れたCDプレーヤーが同じ所を何度もリピートするように、反芻していた。また、

 『俺をここまで痛めつけた上司を、俺は絶対に許さない。

 ここからなら、職場が見渡せる。俺は、そんなこの場所で華々しく最期を遂げて、最後の最後で、俺を痛めつけた奴らを見返すんだ!』

と、健人にしては珍しく侍のような気持ちも、その時の健人の頭の中には出て来ていた。

 

 山に着いた後、健人は丈夫そうな木の枝を探し、ロープをその枝に、くくりつけた。

『もうこの世に、未練はない!』

健人はそう思い、ロープを首にかけようとしたが…、

 勇気が、出ない。

 健人は、この時、いざという時に、全くその勇気が、湧いて来なかった。

『何やってるんだよ俺!ここでしっかり、最期を決めないと…!

 でも、これ、苦しいんだろうなあ。息もできなくなるし、痛そうだし…。』

健人は、ロープを枝に引っかけて、そのロープを手で持て余しながら、思いを巡らしていた。そして、

『とりあえず、今日はもう帰るか…。』

そう、健人が思った瞬間、

 彼女が、現れた。


 「ちょっと君、こんな所で何やってんの!?」

彼女は、健人の後ろに現れ、健人に声をかけた。

「わっ、あなた、誰ですか!?」

「ちょっと、私が先に質問したんだからね!

 こんな所で、何やってんの?」

その彼女は、「春」にふさわしい真っ白なワンピースを着ていた。また、髪の色は明るめの茶色であったが、やさぐれた感じは全くしない。そして、これは気のせいか、彼女の周りには、明るく光るオーラのようなものがある、健人にはそう感じられた。

 「な、何って…。

 そうだ!これで、木登りの遊びをしようと思ってたんです!

 昔、俺がまだ小さい頃に、よく木に登って遊んでたので、それを久しぶりにしてみようかな、なんて…。」

「嘘でしょ?」

そう健人が彼女に伝えると、彼女は上目遣いで、また疑わしげな表情で健人にそう言った。

 「ほ、本当ですよ!

 いや、懐かしいな~!」

「その遊びだったら、ロープを用意しなくてもできるじゃん。」

「いやだから、これは『ターザン』みたいになりたくって、いやなりたかったのは小さい時なんですけど、とりあえずこれにぶら下がって遊ぼうかと…。」

「じゃあそのロープの輪っかは何!?」

「いや、だからこれは…。」

健人は、彼女の追及に、嘘を大量に交えながら答え続けた。

 「君、嘘がばればれ。

 じゃあ私から一つ。

 君、自殺しようとしてたでしょ!?」

まんまと健人は自分の考えを見破られ、さらに動揺した。

「いや、だからそんなんじゃないですって!」

「その様子なら、図星ね。」

「だから…、」

健人はさらに言い訳しようとしたが、彼女はさらに言葉を継いだ。

 「困るなあ~。こんな所で自殺されちゃあ、ここの動物たちがかわいそう…。」

『はっ!?この人、俺の心配をしてるんじゃなかったのかよ?』

健人は彼女の言葉を聞き、一瞬のうちにそう思った。

 そして健人は…、開き直った。

「ああそうだよ!俺はここで、死のうとしてたよ!

 何か文句あるか?」

「大アリ!

 だって、ここの動物たち、純粋なんだよ。そんな純粋な動物たちが、死体なんて見ちゃったら、ショック受けるだろうなあ…。」

「し、知るかよそんなこと!

別に人間じゃねえんだし、いいんじゃねえの?」

「ああ、あなたも人間中心主義なんだね…。」

「はあ!?」

健人は、急に話の内容が難しくなったと感じ、思いっきりその彼女に訊き返した。

「あ、人間中心主義って、知ってる?

 この考え方は、自然環境は人間によって利用されるために存在するという信念のことで…、」

「そんな説明いらねえよ!あんたが物知りだてこと、ようく分かったから!

 ってか、あんた誰?」

「ちょっと、人に名前を訊く前に、まずは自分から名乗るのがマナーでしょ?」

彼女は、当然のように健人にそう言う。

 「はいはい、分かりましたよ!

 俺の名前は麻倉健人。ついでに言っとくと、23歳の社会人1年目だよ!

 あと、気になってるかもだから言っとくと、俺はこの場所から見下ろせる、そこのビルの、福祉事務所で働いてるんだ。でも、その職場がブラックで…だからここで、パワハラをした上司を見下ろして、死ぬつもりだったんだよ!

 さあ、俺は自己紹介した。で、あんた誰?」

すると彼女は、健人にとっては意外な説明をした。

 「自己紹介ありがとね。

 それで、私は、『森の妖精』!」

「…はあ!?」

健人は、口をあんぐり開けて、訊き返した。(そのあまりの勢いに、健人のアゴは、外れてしまうのではないかと心配するほどであった。)

「だから、私は森の妖精だって!」

「何、バカなこと言ってんの!?」

そう言われてみると、確かにさっきから、彼女の周りには不思議なオーラが漂っているようにも見えるが、そんな話、にわかに信じられるものではない。

 「…分かった!そうやって俺を、バカにしてるんだな!そうして楽しんで、あとで友達か誰かに言いふらすんだろ?

 お前がどうしようと勝手だが、俺はそんな話、信じねえぞ!

 じゃあな!」

そうして、健人はその場を後にしようとした。

しかし…、

 「バカ!そんなこと、しないよ。

 だって私、本当に、森の妖精なんだもん!」

「だから、そんな話信じねえって…、」

次の瞬間、彼女は健人と話をしていた、健人の正面から、健人の背後に、「瞬間移動」した。

 「…ええ~!」

そうして健人が驚いていると、彼女はさらに健人の前に瞬間移動して元の場所に戻り、こう言った。

 「ほらね。こんなこと、普通の人間にはできないでしょ?」

「え、いや、でも…。

 ということは、あなた、マジシャンか何かですか?」

「あの…。

 マジシャンが、こんな所に仕掛けを用意して、マジックする意味って、あると思う?」

「いや…ないと思います。」

健人はあまりの衝撃に、なぜか敬語になっている。

「じゃあ信じてくれる?私は、森の妖精!」

「…でも…。」

「じゃあ私からもう1つ。

 私の姿って、ある特定の人にしか、見えないみたいなんだ。

 だからこれから健人くんが家に帰って、それで私の存在が見えなかったら、私の言うこと、信じてくれる?」

「…あ、でも、俺一人暮らしなんで…。」

「じゃあ、通行人でも誰でもいいじゃない。」

「はい、分かりました…。」

そうして、健人は家へ帰ることになった。


 「でも健人くん、本当は死ぬの、怖かったんでしょ?」

「はい。というか、そもそも俺に、死ぬ勇気なんてなかったのかもしれません。

 俺、突発的にロープ買って、それであの山まで登ったんですが、いざ死ぬとなると、恐怖が先に立って…。

 まああなたが現れなくても、そのまま家に帰ってました。」

 「そっか。良かった~だってそれで、あの新緑の森の景観が守られたんだもん!」

「…あの…、俺の心配、してくれてます?」

「それはもちろん!…ちょっとはね。」

「ちょっとだけですか…。

 あと、『森の妖精』さん、あそこは森じゃなくて、小高い『山』だと思います…。」

「細かいことは気にしない、気にしない!

 私、『森の妖精』って響き、気に入ってるんだから!」

 このように、「森の妖精」を名乗る彼女と健人は話をしながら、帰路についていた。また、その間、

 「あの…すみません。

 僕の隣にいる彼女、見えます?」

と、道行く通行人に健人は突拍子もない質問を繰り返したが、

 「…え!?急に何ですか?

 誰もいないじゃないですか。」

と毎回言われ、不審な目をした通行人に、

「ですよね!

 すみませんでした。」

と、健人は謝る羽目になった。


 「ね、これで私が、森の妖精だって信じてくれたでしょ?」

「は、はい…。」

健人は、そう答えざるを得なかった。

「それで…、こうやって出会ったのも何かの縁、私が、健人くんの相談に、のってあげる!」

「えっ!?」

健人はその言葉を聞き、少し驚いた。

「相談、ですか…?」

「そうそう、相談!

 だって健人くん、困ってるんでしょ?」

「あ、はい、まあ…。」

「だったら、私が力になってあげる!

 まあ私も、何もできないかもしれないけど、ちょっとは気分転換になれば…ね!

 じゃあ次の休みの日、またあそこの『森』に来てくれる?」

「あそこは『山』ですが…。

 分かりました!ありがとうございます!」

健人は、彼女の好意に素直に感謝した。

 「あと、私に敬語なんて、いらないよ!

 実は私、健人くんと同じ、23歳なんだ。

だから、タメ口でいいからね!

 あと、女の子が自分の歳を教えるなんて、大サービスだよ!」

「…分かった。ありがとね。

 ところで『森の妖精』さん。これから何て、呼んだらいいかな?

 『森の妖精』は言いにくいし…。」

「それもそうだね。

 じゃあ、『森の妖精』にかけて、『もっちゃん』でいいよ!」

「分かった。じゃあもっちゃん、って呼ぶことにする!

 もっちゃんは、このあとあの山に帰るの?」

「うん。でも、私は瞬間移動で帰れるから、気にしなくていいよ。」

「あっ、そうなんだ…。」

「じゃあまたね、健人くん!」

そう言いながらもっちゃんは瞬間移動し、一瞬のうちに健人の元から消えていった。

「森の妖精か…。よく見るともっちゃんって、けっこうかわいかったな。」

健人は、そんなことを思いながら、アパートへと入っていった。

 そしてこの日から、健人ともっちゃん、森の妖精との、不思議な日々が始まった。


※ ※ ※ ※

〈15年前〉

 「今日から2年1組の新しいお友達になる、

元木萌花(もときもえか)さんです!」

「もとき、もえかです!よろしくおねがいします!」

4月、萌花が2年1組の教室で、みんなの前であいさつした時、健人の心の中で、何かがはじけた。

 「じゃあ元木さん、あそこの空いてる席に、座ってくれる?」

「はい!」

萌花は先生の指示に元気よく返事し、そのまま健人の隣の席へと、向かった。

「お、おれ、あさくらけんと。よろしく。」

「よろしくね、けんとくん!」

健人が隣まで来た萌花にぶっきらぼうにあいさつすると、萌花はそれにとびきりの笑顔で答える。

 『な、なんなんだよこいつ…。』

健人は、自分の中に芽生えた「ある気持ち」を、自分で認めようとはしなかった。

『なにが、もえかだよ!

 こんなやつ、どうでもいい!』

それを大人が見ると、微笑ましく映るかもしれない。しかし、当の健人にとって、その「問題」はあまりにも深刻で、学校の勉強はおろか、大好きなサッカーでさえも、手につかなくなるほどのものであった。また、普段はどちらかというと穏やかなタイプの健人であったが、萌花のことを考え出すと、途端に荒っぽい言葉が頭の中から次々と出て来る。そして、気がつけば健人は萌花のことばかりを、考えてしまうのであった。

 『おれは、あんなやつ、ぜったいにみとめないぞ!』

そして健人は、萌花のことを思う度に、そのような言葉を心の中で繰り返していた。

 しかし、萌花が健人の小学校に転校して来てから2、3日たったある日、「事件」は起こった。

 「あれ、このてさげぶくろに、『いなだもえか』ってかいてあるぞ!」

「あ、ほんとだー!」

その日、たまたま他の手提げ袋がなかったのか、それとも母親が間違えてそれを持たせたのか、真相は分からない。

 「これ、どういうことだよ?」

最初に手提げ袋を発見したクラスの男子が一気にはやし立て、萌花はクラス中の児童から、注目を浴びることになった。

「えっ、こ、これは…。」

クラスメイトに囲まれた萌花は、半泣きの状態である。

 「なんだよ!いえねえのか?」

しかし、(特に男子を中心に)クラスメイトたちの追及は容赦ない。

「いえ!いえ!いえ!いえ!」

ついに、お調子者の男子グループが、「言え!」コールをして萌花を追い詰めた。

 「これは…、『いなだ』は、

 まえのおとうさんのなまえなんだ。」

こうして萌花は公衆の面前で、母が離婚し、再婚したことを喋らされることになった。

 もちろん、小学生は大人と違うので、その詳しい経緯までは、分からない。しかし、この「事件」は、萌花をいじめの対象にするには、十分であった。

 「なんだよ!じゃあおまえ、とうさんいねえじゃん!」

「いるよ!

 わたしのおとうさんは、もときかずふみ、っていうんだから!」

「そんなとうさん、にせものだよなー!」

「…そんなことないよっ!」

 また、

「そういえば、『もえか』って、おもしろいなまえだよなー!」

「もえーだって!」

「もえー!」

「もえー!」

「やめてよっ!

 『もえか』のなまえは、『もえて、めがでてきれいなはながさきますように。』ってねがいをこめて、おとうさんとおかあさんがつけてくれたんだから!」

「だーかーらー、おまえにおとうさんはいないっての!」

「…そんなことないよっ!」

2年1組のクラス内では、主に男子を中心に、いじめっ子たちが集団で萌花をいじめる光景が、しばらく続いた。

 しかし、数日後、そんなクラスの雰囲気に、転機が訪れる。

 その日もクラスの男子たちは、

「もえー!」

などと言い、萌花をいじめていた。しかし、

「おい!」

そんな男子たちに立ちはだかったのは、健人だった。

 「なんだよけんと!」

「おまえら、もえかをみんなでいじめて、たのしいのかよ!

 バッカじゃねえの?」

「なんだけんと!けんとのぶんざいで、さからうつもりか?」

「うるせえよ!」

こうして、その男子たちと健人の間で、ケンカが起こった。

 繰り返すが元々健人は穏やかなタイプであったので、今までケンカらしいケンカは、して来なかった。しかし、健人の正義感と、甘酸っぱい恋心は、健人にそんないつもの自分を、かなぐり捨てさせたのである。

 結局、健人といじめっ子たちの男子たちは先生に呼ばれ、「ケンカはいけない。」という件だけでなく、萌花のいじめの件に対しても、十分な注意が与えられた。

 そして、萌花のいじめが一件落着したと思われた次の日、さらに事件は起きた。

 「もえか。しね。」

その日の放課後、萌花がトイレから帰って来ると、萌花の赤色のランドセルのフタの部分に、黒のマジックで落書きがされていた。

 「おっ、もえか。どうした…、」

下校しようとしていた健人が、たまたま教室に入り、立ち尽くし、声を押し殺して泣いている萌花を発見した。

 「なんだこれは!ゆるせねえ!

 ぜったいにあいつらのしわざだ!

 ちょっとまってろ、もえか!」

そう言って健人は運動場にとび出し、萌花を最近までいじめていた男子たちがキックベースをしている所に割って入って、落書きの件を問いただした。

 しかし、

「しらねえよ!おれたち、せんせいにおこられたから、もうそんなこと、しねえよ!」

と、その男子たちからは突っぱねられた。

『こいつら、うそついてるようにはみえねえな…。』

そして健人は、萌花のいる教室に戻った後、ある行動に出た。

 「どうしよう…。こんなの、おかあさんにみせられない…。」

「もえか!」

「どうしたの、けんとくん?」

「おれのランドセル、つかえよ!」

そう言って健人は、中の荷物を抜き、自分の黒のランドセルを、萌花に突き出した。

「えっ、でも…。」

「いいから!

 そのかわり、おれはもえかのランドセルで、かえる。

 これでいいか?」

「でもそんなことしたら、けんとくん、おかあさんにおこられちゃうよ?」

「どうせいっつもおこられてるよ!

 『しゅくだいしろ!』とかなんとかな!

 じゃあおれ、さきにかえるから!

 またな!」

そう言って健人は、照れを隠すようにしながら、無理矢理萌花のランドセルをとり、それを背中に背負って去っていった。

 「けんとくん…。」

冷静に考えれば、ランドセルを交換した所で、赤と黒でランドセルの色は違うし、さらにランドセルにはそれぞれ、「あさくらけんと」、「もときもえか」と名前も書かれているので、お互いの両親に見つかってしまえば、その「事件」はすぐにバレてしまうだろう。しかし、小学生であるその時の健人は、大好きな萌花のため、一生懸命考えて行動に出たのである。また、帰りの道中、健人はマジックでの落書き入りのランドセルを背負っていたので、道行く人にジロジロ見られたが、そんなこと、当時の健人にしてみれば、どうでもいいことであった。

 (ちなみにその落書きは、健人のことを好きな、同学年の他のクラスの女子がやったことが後になって分かった。その女子は、健人が萌花を庇ったことを人づてに聞いて知り、激しく嫉妬して、そんなイタズラをしたそうだ。)

 また、萌花の心境も、そんな健人を見て、変化していた。

『けんとくんって、まえにわたしをたすけてくれたし、きょうもランドセルくれたし、やさしいんだな…。

 わたし、もしかして、けんとくんのこと…。』

萌花はその時、自分の中に芽生えた気持ちに気づき、急に恥ずかしくなった。

 そして、萌花は健人に押し付けられたランドセルを背負って、家へと帰っていった。その道中萌花はずっと、両手をランドセルの肩にかける部分にあてていた。

 『これは、けんとくんのランドセル…。

 けんとくんが、いつもつかってるランドセル…。』

そう考えるだけで、そう思うだけで、こんなにドキドキするのは、なぜだろう?萌花はそんなことを思いながら、そして背中に健人の温もりを感じながら、帰り道を歩いた。

 「私にとって黒は、健人くんのランドセルの色。それは、初恋の色…。」

5、6年後、中学生になった萌花は、時折昔のことを思い出し、そんなことを考えることがあった。

 そして、この時期、2年1組での時間こそが、

 2人にとっての、初恋の時間であった。

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