俺という切り札


 もう死のう、死にたいと感じていたびいが、死なないために呼び寄せたのが俺という切り札だった。ま、成功してる方。


 とにかくびいは自殺はできない。俺が止める。


 タロット占い師の件の直後、びいはマンションの屋上に上った。「あなたは両思いだと言い切ったが、本当は自信がないんでしょう、認めてはどうですか?」


 タロット占い師にそう言われて、珍しくびいはムキになって反論していたが、「今の彼の、びいに対する気持ち」を占って、カップの6が出た。びいはカードを見てとても喜んでいたが……というのも、カップの6というのは、ノスタルジックな色調に、赤い頭巾の少年が、小さな少女に黄金色のカップに入った白い花を手渡している。びいは戦記の人が自分にむけて、白いエーデルワイス、永遠の愛の証を手渡してくれている、と咄嗟に読んだようだった。


「大好き……」


 だが、その声は悪魔の声だとタロット占い師は言った。実際は赤い頭巾があなたで、白いお花を差し出された戦記の人は迷惑している、と。


 想い人はあなたのことなんて思ってない、いい加減気づけ、そうはっきりと言われたことが、よほどショックだったようだった。


 まあ、いっとき、ちょっといいなと思ったのかはしれないが、男にとったらいい迷惑だろう。ファンに本気になられてもね。夢を見せるような職業と同じだよ。俺はなんとも言えない気分だったが、びいと言い争う気は無い。だいたい、言えば言うほどややこしくなるからな。


 いっときびいは、自分で、連絡を止めようと何度か……試みようとした。でも気がついた。短くても、お疲れ様メールを出さないと精神不安定になってしまう、と。思い続けてないとむしろ、どう生きていいのかわからなくなっている。もともと、何とかして戦記の人を助けてあげたい、と思っていたのに、実は自分が助けられていたこと。


 戦記の人を想うことがすでに生きる理由になっていたということ。そうなってくると、なんとか自立して少なくとももう一度会いに行ってみれば? と。金稼げよ。交通費くらい。


 俺が感じたのは、一人ででも生きていけるようになって、それでフラれるのなら、良いんじゃないか、ということだった。だってさ、普通に考えて、まだ離婚してない人に頼って来られても困るし、経済的に自立してない家事できない女の世話なんて、できないぜ。しかもすげー年上。苦笑した。俺がこの間、びいの代わりにカレーを作って、びいのお母さんのところに持って行った時、もしかして俺って、びいの子?……と、「真剣に変な感じ」したからな。まるで、鬱で何にもできない母親の代わりに料理してる母子家庭の子みたいな気分になったわ、俺。まさか俺って、パラレルで、びいの子の時とかあったわけ?


 まさかな。


 雨が降っていたのか、ちょっと手すりは濡れていた。コンクリの階段はしっかりしていて、鉄製の螺旋階段などではないから、怖くない。別に劣化もしていない。だが、歩道橋なんかとは違って、結構な高さだった。背中に光の消えた真っ暗な六甲山が大きく横たわって見えた。山側に起きている人は少ないが、灯りをつけたまま窓を開け、布団で寝ているらしき人の部屋が一つだけまるっと見えた。その他はみんな、寝静まったように気配のない夜中の3時半だった。海は見えないが、海側はどことなく空が明るいのは気のせいだろうか。


 頭上に火星か金星のような星が赤く光って見えた。この間の流星群の時に、ここに来るべきだったな。なんて流星群だっけ? ペルセウス?


 俺は、ついこの間の流星群の名前を思い出そうとしたが、全く思い出せなかった。


 まるでジグソーパズルであるような、綺麗な夜景だった。明るいのはどこかに満月が隠れているからだ。あの背の高い遥か彼方のマンションの影なのか。それとも自分たちの背後なのかはわからなかった。


 まるで息をするように、赤い点滅のランプが、あちこちの背の高いビルに息づいていた。こういう風景を見るのは久しぶりだった。パリにいた時は5階に住んでいたが、遠景は見えず、ほぼ階下と前は道を一つ隔てたアパルトマンがずっと連なっていた。星を見た覚えがないのは、頭上を見上げなかったからだろう。階下があまりにも明るいから、いつも下を見て、ギャラリー間を往来する人たちを見てた。パリの人はそういう感じだ。窓越しやベランダからよく、手を振り合った。名前も知らない顔見知りみたいな人がやたら多い村のようだった。


 引っ越してからは、一戸建てだから、窓から見えるのは、庭と近隣の家で、かすかに打ち上げ花火の音が聞こえ、まるで覗き込めばその花火のかけらが見えることはあった。


 どの家の窓からでも見ていた打ち上げ花火はいつも小さく見えた。よく考えたら、今年だけじゃないか、花火を見なかったのは。7月も1月も日本だったからな。今年の夏、日本の花火が20年ぶりに見られるかとは思ったが、残念だったね。


 そんなことを考えているのんきな俺とは裏腹に、びいは緊張していた。死ぬことばっかり考えながら階段を上っているようで、震えてた。それでもおれは、マンションの非常階段で閉め出しを食わないよう、少しだけ鉄のドアを開けて出るのを忘れなかった。たとえ締め出されても、柵を越えれば戻れるんだけど。幸い、風で鉄のドアが自然に閉まるということはなさそうだ。


 6階だから、落ちたところが柔らかければ、100パーセントでは死なない。必ず死にたいのなら、8階以上じゃないとだめだ。びいは6階まで上って、この上はもうないことを確認したら、下を覗き込み、下がコンクリで囲まれてることを確認して、ここだったら落ちたら死ぬに違いない、と、微かに震えた。


 手すりを持っても、足がすくむ高さ。


 木に引っかかったら?


 植え込みの低い木が一本生えていた。引っかかっても下手したらブロック塀に直撃する。狭い通路に落ちたら、本当にこんなとこで死ぬの?という狭さだった。どこに飛び降りても、そういうせせこましいところで死なねばならないだろう。惨めで無様な場所だ。


「怖いんだろ、無理だよ」と、俺は笑った。びいは覗き込むのもへっぴり腰だ。


 びいは体のほとんどをこっちに残して、ちょっとだけ下を覗き込んだ。尖った砂利が痛そうだ。


「死ねよ」


 俺はちょっとふざけて、そう言って笑った。できっこないから。


「怖いんだろ? 当たり前だよ……バカなこと考えんなよ。怖くて死ねないに決まってる。下、覗き込むのも怖いだろうが!」



 俺はそう言いながら、別のことを考えていた。隣の屋根、滑るかな?


 すごく近いから、飛び移れる。これって、思ったより滑って、転がって落ちたら間抜けだな。下は硬い尖った砂利だから死ぬ。


 スタントマンってすごいよな。俺にもできるかな?


 動画でよく見るような、命知らずな高い場所を飛び跳ねて移動することをやってみたい、とふと思い、滑って転がったらバカだな、と笑った。間抜けな失敗で死にたくはない。それでも、簡単に隣の屋根に飛び移れそうだった。これ、セーフティネット張ってるなら、俺、絶対できるよ。


 これくらい飛べると思っても、助走なしじゃ無理なのかなあ、と俺は真剣に考えた。できると思ってやって、うっかりの失敗で死にたくない。隣の屋根に飛び移っても、降りれるところがないから大騒ぎになるな。人んちのベランダから、失礼しますと部屋に侵入して階下に降りるわけにもいかねーし。


 スタントなしでやるトム・クルーズ、すごいよなあ。


 びいは泣いたりしてなかった。意識もしっかり持っていた。だから俺も油断した隙に、びいが急に柵越えるとか、全く心配してなかった。



「なんかさ、空がこんなに見える都会ってさ、ちょっとロマンチックじゃね?」



 けぶったような薄明るい空にぼんやりと高い高いマンションが正面に小さく見え、赤いライトがゆっくりと点滅していた。どこかに月が出てるはずだ。俺は目を凝らした。でも文字通り、月はどっちに出ているのかはわからなかった。


「こういう場所で座ってさ、ぼんやり外眺めるとか、案外良くね?」


 俺は薄く笑った。さらさらと髪が風になびくようだった。なんか懐かしいな。中3の受験時期、屋上に上ったことを思い出す。あの時、あの子はまだ生きていた。まっすぐに伸びるポプラが風にさざめくような音を立てていた夜。迷路のような場所から、屋上に出たんだ。



 びいは硬直したみたいに突っ立ってた。俺に体があれば、抱きしめてあげるのに。


 死にたい、死ぬのは怖い、と、柵に近づくことさえ、びいは怖がっていた。柵がいきなり朽ちて、墜ちていく感じがまるでリアルに起こるみたいに、一歩も動けずに。



 「な、お前、死にたくないんだよ。本当は。死にたい死にたいって、口で言ってるだけだよ」


 俺は取りなすように言った。


「こんなに綺麗な夜景なんだから、ちょっと座らないか?」



 びいは、彫像のように突っ立ったままだった。俺が「今日は満月だからさ、どこかに月が見えるはず」と、びいの手を引いた。


 手すりに近づいて、俺はびいの背中の側にいて、ちょっとだけ身を乗り出して、空を見上げた。月は見えない。多分、ちょうど自分たちの背中側の、マンションの浄化槽の陰にでも隠れてるのかもしれない。浄化槽かはわからないが、実はこの上にもう一階、高い場所があり、そこへは繋がっていないようだった。どこかから本当の屋上に登れるんだろうか。一段低いここからは、360度空が見えるわけではなかった。


「怖い……」


 びいはこわばるように言った。


 「俺の背でも見えないっつーことは、きっと、ちょうどこの裏側なんだよ、今、月の場所……」


 手すりにびいを押し付けて、俺が前へ身をやると、びいは「岬くん、怖い……」と言った。



 「怖いだろ?



 だからもう、死ぬ死ぬ言うなよ。怖いだろ? とてもじゃないが、死ねないだろ?」



 「うん……」



 「んじゃ、戻ろうな」


 俺は静かに来た階段を降りた。泥棒みたいに足音を忍ばせて。どこかの窓のマンションから、俺たちがよく見えて、警察に通報されたらまずい、とずっと心配してた。


 「誰かがマンションの屋上から、身を乗り出して、飛び降りようとしてます……!」


 もしそんな風に通報されたら、大ごとになってしまうからな。


 びいはその後から、比較的、泣かなくなった。死にたくても、死ぬのも怖いとわかってくれたらしく、俺はちょっとほっとした。そして、できるだけ戦記の人を諦めると言っていたが、諦めようとすると死にたくなってくるらしく、無気力になり、じっと動かなくなった。


 「じゃあさ、無理に諦めなくてもいいから、何か他のことをできるだけできるように頑張ろう?」と言った。


 他に言いようがないからな。


「今みたいな生きる屍だったら、戦記の人に万が一呼ばれても、恥ずかしくて会いに行けないだろ?電車に乗る元気も出ないだろ?」


 俺がとりなしてやらなかったら、一人で会いに行くのもできなかった、それを何とか、会いに行くところまで……でも、もう、きっと何もかも無理だな。


 会いたい、と言って、じゃ来る? と言われても、即答できなかったびい。


 わかんねーな。ここまで何もできなくなってしまってる理由って、何だろう。単なる自信喪失とかじゃないな。病的にやる気がない……。


エネルギーが本当に感じられない……。まるで死んだ人みたいだな。


 俺はごろっと転がって、高い天井をじっと見つめた。俺でも、王子くんでも、どうすることもできなかったからな……。


 びいが泣きながら、戦記の人の名前を呼んでいた声を思い出し、「……んっとに、しゃーないな」と思わず呟いた。俺たちにできることって、あんまりないんだよね。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る