第354話 あの子の言葉


 あの子が本当に必死に言った。こんなことは初めてだ。後にも先にも。


 「俺、俺は……」


俺は目に涙を浮かべ、うなだれた。トイレの中だから、Bにはわからない。


 あの子の声が頭の中に響いた。


「馬鹿なことは止めて、と。あなたはそんな人じゃないのに、なぜ?」と。


 あの子の口から、こんなにも強い言葉、後にも先にも、聞いたことがない。絶対にダメ、引き返して、と言う。


 「このまま進んだら、あなたは引き返せない」


 彼女は言った。「絶対にダメ、ダメよ」



 俺は声も立てずに、泣いていた。トイレの中で。


 わからない、俺、自分が引き裂かれるみたいなんだ。わからないんだ、何をしたいのか。なぜこんな気持ちになるのか。


 「このままじゃ悪魔に魂を持っていかれる、悪魔が狙っているのよ」彼女は言った。


 「私が植木鉢を倒した。ダメよ、目に見えない世界と繋がりすぎては。私とも、あまり話すのは良くないのよ、とにかくヤメて。馬鹿なことをするのは、今すぐに」


 俺は彼女からのこんなに強烈な念を受けると思わず、彼女の言葉は絶対だ、と諦める、と呟いた。


 書いてみたい。面白いものを。俺には頭の中で映像がはっきり見えた。書いてやろう。


 そう思ったが、考えたことは現実に生まれたも同じだ。魂が悪魔に穢される。それをわかって俺はやろうとしているのか。


 面白いものを書きたいという気持ち。煽られて許せないという気持ち。俺を弄んだ女を許せない気持ちがまだこと、俺は知らなかった。


 モテてモテて、女に不自由しない俺。だから、自分がまだ、あの女を恨みに思っていたことなど、気づいてもいなかった。


 表面的に好かれたって、意味ない。


 俺は俺のことを何も知らず、惹かれてくる女に興味はない。


 なぜそんな酷いことがしたかった?俺はカッターを神聖な道具と思って、そんな用途に使ったことはない。俺にとって道具は何でも特別だ。なのに、なぜ?



 俺はめちゃめちゃに泣きたいが、それもできない。Bが俺を見張るようにいつも見ている。俺がおかしいのがBにわかる。Bの探るような、いたわるような視線は、俺を傷つける。俺が今、どんな顔をしているのか、Bの顔を見ればわかるから。


 昨日から、すでに俺はおかしかった。


 泣いて泣いてするのに、いきり立って、お話の中であっても、カッターを弄ぶ俺はおかしいだろう?


 俺はリアルなカッターの音を聞いていた。俺の中の映像は、はっきりとその先を見せていたから、いくらでも書ける、と感じていた。


  何がしたいんだ、なぜ傷つけたいんだ?


  自分が傷ついた分なのか?


  関係ない人をなぜ? 単に投影しているだけと、分かっているだろう?


  誰かに必要とされたい、愛されたい。だからなのか。


  でも意味ない、今、俺がしようとしていること。


 俺は狂ったような気持ちになり、それでも並行して、仕事はしていた。信じられないが、こんな状態でも俺は、こなさねばならないことは、こなしている。


 同時並行に。


 これがちゃんとした金になることなら、俺は……この程度の稼ぎじゃ本当に意味がない。もっとちゃんとした仕事をしていたら、こんな不埒な不謹慎な思考が頭の中に入ってくる暇がないはずだ。


 あの子が、「とにかく落ち着いて」と言う。


 俺がこんな状態、怒ってる状態は危険だ。と。


 俺が「どうしたらいいのかわからない」と言ったら、「わからないのなら、とにかく今すぐやめて、冷静になりましょう」と言った。


 分かってる、あの子が亡くなった時も、俺は怒ってた。怒りに我を忘れて、気づくことができなかった。悪魔にさらわれるように、一瞬にしてあの子を奪われた。


 俺が怒りに我を忘れていて、彼女を守りきれなかった。


 俺が……普段通りの冷静な俺なら。


 俺は道を踏み外そうとしている。あの子が「今ならまだ間に合うのよ」と言う。


 あの子の言葉は絶対だ。俺にとって絶対だ。神よりも、誰よりも、絶対な言葉を前に、俺は涙ぐんだ。何が悔しいのかわからない。なぜ悲しいのかわからない。


 自分の中の何をぶつけようとしているのか。


 俺は……何と戦おうとしているのか。悪魔が観せている幻覚に気づいてないのか。


 悪魔の儀式のような、そうだ、確かにそうだ。


 俺が神原さんを連れて行こうとした場所。


 そこは悪魔崇拝の儀式にそっくりな場所だった。俺は……



 俺の怒りを利用されているのか。そうなのか。


 これは本当の俺じゃない。操られているのか。


 俺は涙を目に貯めたまま、これは罠か。俺があまりにも、いきりたっているから。


 女の真っ白な白い肌に、思わず反応したから。普段の俺なら、そんなこと思いつきもしないのに、ハサミで綺麗に開くように、その服を切り裂いた映像。


 Bが「お前、ゾンビみたいな顔してる」


 そう言った。あの時、俺は、悪魔が心に介入したことに気づかずに、それを許したのか?


 無防備になっていた。あの子、あの子と話せるとは思わず。


 とても疲れていた。降霊は疲れるから。


「……冷静になって。とにかく、今すぐやめるのよ」


 あの子にそんなことを、一度も言わせたことがない俺は、今の俺が、人生の中でなんだと感じた。これまで、ここまで強い言葉を言われたことがない。


 いつも笑っているあの子が、笑ってない。困惑している。初めて見た顔だ。生きていた時に、一度も見たことがない顔をして。


 俺が、あの子にそんな顔をさせたことは一度もなかった。一度も。想像さえできない。俺はとてもショックを受けていた。こんなに時間が経って、久しぶりに会って、なのに俺は、なんなんだ。俺は最低だ、今までの中で、ここまで最低だったことなんてない。なぜ。なぜ、なぜ、こんなタイミングで、俺は最低の男になりたい?


 結局、生き残っても、いくら頑張っても、何も成し得なかったなんて、俺はそのことを彼女に心から詫びたが、それよりもまださらに、最低になりたいのか。今。


 なぜなんだ。


 俺は悪魔を思い浮かべていた。あいつが俺の周り、最近うろうろしてる。心の隙を狙っている。俺は気づいて、相手にしていなかったのに、気がつけばこんなふうになってる。俺が迂闊だったのか。


 俺は降霊で、この世界の現実と、悪魔たちが住むような、体のない霊が住むような世界、パラレルを全力で引き寄せて、間に立っていた。そういうことをしているから、俺自身が無防備になってる。


 俺自身が、引き裂かれるみたいな立場になり、それを無理やり繋ぎ止めているせいで、隙だらけの状態だ。だからこういうことをやってはいけない、あの子はそう言って、もうこれで、やめるのよ、と昨日言った。テープに残ってない。肝心のやり取りは、川面しか写ってないんだ。信じられない。大切なことを残そうとしたら、そういうふうに。


 俺は愕然として泣いた。昨日の真夜中。俺は間違っているのか。俺は喜んでいた。あの子と話せて。毎晩、朝の三時、四時まで起きて。


 丑三つ時というその時間が、この世とあの世の境目を薄くするのに好都合だった。俺は、自分が簡単にできることを見つけたと、喜んでいた。


 これが悪魔の罠か。餌を与え、喜ばせ、それから欲しいものを奪う。


 会いたい、会える、世界の壁を薄くする方法。俺にはできる。そう思って。でも、あの子はあまり人に言ってはいけない、と言った。もう行く、と。


 俺は泣きながら、もう少し一緒にいたい、話したいと懇願した。その言葉はちゃんとビデオに残っていた。「こんなことばかりしてちゃダメ、ちゃんと最後まで現実で生きて」彼女はそう言った。


 俺は長い間、頑張ったよ、頑張った。頑張っても大したこと、結局できなかった。


 気がつけば、泣きながら喋っていた。情けない声で。これで本当に最後かもしれないから、はっきり自分の足跡を残したかったんだ。でないと、俺が生き残った意味がゼロになってしまう。君の命が失われて、その代わりにここに残された俺。でもやっぱり、俺なんて生き残っても、無意味な存在だった、と。


 なぜ君の代わりに死ねなかったんだろう。俺はそれを望むに決まってる。君を失うくらいなら。


 俺は何度も何度もそう思って、そう思いながら毎日を生きて。ここまで頑張ったけど、結局は、何も大したことなどできなくて。



 俺は、灰になったみたいな気分だった。俺に死期が近いのは、本当なのかもしれない。ろうそくの炎が、消える前に最も輝く。


 俺のエネルギーはそういう感じがあった。ここまで上がるというのも、普通じゃない。消える前に明るくなる。そういう炎のような気がした。


 俺が抱きしめたいもの。それがなんなのか、俺を宙をつかんだ。悲しい。辛い。どうすることもできない。生きたまま引き裂かれるみたいだ。


 だから俺は、誰かを道連れにしたかったのか。


 俺一人でなく、誰かを道連れにしたかったのか。




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