第269話 爺さんの秘密


 長い間俺たちは、もしかして隣の爺さん、ゲイかな?と思っていた。最初に気付いたのはBで「なあなあ、俺、隣のムッシュー、ゲイと思う」と引っ越してすぐにそう言いながら帰ってきた。Bがそういうこと言うのは珍しく、俺たちには数人のゲイの知人や友人がいたが、だからどう、と取り立てて話題になることもなかった。


 だいたい俺たちが住んでいたのは、ずっとどの国でもゲイが好んで住むエリアだから、周りがゲイだらけなのも普通だ。おまけに俺たちは外から見たら、きっとそんなふうにカップルに見えてしまう。「俺は違う!」俺は、そういうオーラを一応出していたが、まあ、おそらく無駄だった気がする。


 Jさんが、お前なあ、そうトゲトゲするな、と言ったが、俺は絶対、嫌だった。男とするのはごめんこうむりたい。Jさんが「俺も男は嫌」と言った。軍なんかで男ばっかりというのは本当に微妙で、俺の性格が悪くなったのも過剰防衛のせいかもしれない。ゲイはゲイで男なら誰でもいいというわけじゃもちろんない。隣のムッシューみたいに。隣のムッシューはBのことはお気に入りだが、俺のことは毛嫌いしている。そんなふうに、まあいわば、当たり前だが、誰でもいいってわけじゃない。


 隣の爺さんのことだが、何故、俺がに確信を持ったかといえば、ガチムチな半裸の美形の男のカレンダーを爺さん家で見たからだった。


 俺ねえ、ごめん。実はショックで死にそうになった。隠してないのかよ。トイレに貼るなよ。しばらくショックで口が聞けなくて、このことをBに話したのも、2週間後だった。わかってたのに、なぜショックだったんだろうな。理由は不明だが、他人の性欲というのは、見せつけられると引くものだ。自分がターゲットに一応入ってないとわかっていてさえ、構えてしまう。生理的なものだな、うん。ゲイフォビアという言葉があるが、そんな大げさなものじゃない。自分がターゲットになるのは本当に無理だという、ごく普通の「好きでもない人から、性的対象に(もしかして)見られているかもしれない不安・不愉快さ」ってやつだな。


 まあでも、ということは、お手伝いさんや庭師は知ってたってことか。まあ別に隠すこともないけど、自分が性的な対象として見られていたかもしれないという可能性は、俺の身体中の毛を勝手に逆立てた。ごめん、俺、やっぱり生理的に無理。ものすごく嫌。爺さんと寝るか、死ぬか、選択肢が二つしかないなら、死んだほうがいいかもと感じる。我慢できない不愉快さだった。


 相手からも、お前じゃない、Bがいい、と言われるかもしれないが、それでも俺はBに「おい、俺、確信持っちゃった」とBになんとか気を持ち直してから、ようやく言った。


 でもそういえばBは、初めて爺さんのとこに行った時に「ゲイだと思う」と帰ってきて言ってたから、何を今更に、というような話だった。あれって2年以上前の話だから。面白いことに、いつもゲイセンサーはBの方が敏感。俺はそのあと、もう一度凍りついたのは、俺が食事に招待された時、爺さんの椅子の後ろに、あのカレンダーが置いてあって、立ち上がった時にパタリと倒れたからだった。


 俺ねえ、焦ったわ。えとえとえとえと。何か倒れましたけど。


 まあ、隠す必要ないと思い始めたのかもしれないが、逆に俺にはすごくストレスだった。どうやら爺さんは、外国人で言葉が全くダメ、意思の疎通が難しい俺を追い出し、エレガントで見た目いかにも若い執事のような、いや、執事じゃないな、元々ホテルのナンバー3だから、とにかく、そんな接客のプロフェッショナルの洗練された物腰のBだけを自分の側に取り込もうと、俺を追い落とすようなことを、ことあるごとに仕掛けて来ていた。いやほんとに迷惑。俺は笑って受け流しながら、これいつか我慢できなくなるんじゃないかと思うのが怖かった。俺がキレやすかったのは子供の頃だけだが、「仏の顔も三度」とグルグルそのフレーズが常に出てきては消えて、それは爺さんが感情的に不機嫌に俺に当たる度、我慢するのに必死だった。それこそ金切り声で、犬を叱りつけるのと同じ口調で俺にガミガミ言いやがる。


 頭おかしいんじゃねーか。


 でも、言いたくはないが、この国の人間は実は皆よく似ていた。気に入らないことがあると、金切り声で怒鳴る老人というのは、男女問わず、よく出くわした。不思議なことに、老人が多かった。女性の場合は、更年期か、甲状腺疾患か、リューマチだ。病気と関連性があるのかどうか知らないが、病気だと痛いとか不自由とか、思う通りにならないとかで、すぐ頭にくるというのも道理が通る。だが、俺がそう感じただけで、実際の因果関係は不明だった。爺さんは、高血圧に糖尿病。膝や腰が悪い。手術の後、さらに悪くなり、歩けない度合いがひどくなった。俺の見立てでは、リューマチでない限り、手術せずに筋肉を鍛えるのが正解と思うが、実は爺さんもリューマチなんじゃないかと思う。変形した関節を見る限り、そしてあの痛がりようは怪しい。俺が尋ねても、爺さんは詳しいことを言いたがらない。医者でもないくせに、ということだろう。


 俺は相手は老人だからと、キーキーした声であれしろ、これしろと言われても、我慢に我慢を重ねていた。なんとかやり過ごして、大人の対応を常に心がけた。でも、家族でもないのに、今や本当に我慢できない。

 

 こっちの精神医学の先生が、この国の人間の気質について、日本人には理解しがたい感情的なアコーデオン現象があることを指摘している。そのせいで日本人はこの土地の人たちにうまく順応できずに苦しむ人が多いと、本に書いていた。だから俺の認識も多分正しいと確信を持った。この国の人間は自分の気分次第でコロコロと態度を変える。それはそれは理不尽なんだが、そんなふうに感じるのは俺だけじゃないらしかった。この国の人たちのそういう理不尽で感情的な態度にこっちに住んでいる日本人たちは、多くその先生の診療所に駆け込むらしかった。だから、爺さん以外にも、似たような人はたくさんいたのだが、その中でも爺さんは本当に耐えがたいくらいに性質たちが悪かった。性質たちが悪いというのを婉曲な表現に置き換えたかったが、他に置き換える言葉が思い浮かばない。高慢?傲慢?人を人とも思わない?自分勝手?人を利用することしか考えてない?気分で人を振り回す?木で鼻をくくったような態度?


 「なあ、空いている部屋を女子学生にでも貸さないか?あんな爺さんと顔付き合わせる日々、俺もう無理。ここに可愛い女の子が居候していたら、家賃は入るし、キラキラな日々じゃね?」


 俺は半ば本当に真面目に、Bにむかってそう言った。そうしようよ、B。


 なぜか知らないがBはあまり乗り気でなく「それよりお前、部屋をなんとか人が住めるようにしろよ」と言った。俺は、だからソファベッドを一応捨てずにとってあるんじゃないか、と言った。誰か来てくれるなら、俺半日で、あの部屋、なんとかする。


 一部屋、なんとか片付けたら、人が泊まれる部屋があった。俺がたまにそこに寝ていたが、俺、実は日本にないような馬鹿でかい畳のベッドでBと寝てる方が良かった。こんなこと書いて、俺はちょっと赤面する。実はあんまり人に言えないことじゃね?何かなあ、それって。


 俺は兄貴や弟と寝ていたのは、ほんの子供の頃だけだったが、というのも、兄貴は寝相が悪すぎるし、まあ普通、あんまり一緒には寝ないよな。俺は布団の海でよくクロールしていたが、兄貴が「俺の布団を温めるな!」といつも怒鳴った。俺ね、人の布団を勝手に温める。だって暑い夏に転がっていくと、兄貴の方の布団の端が冷たいから。そんなわけでゴロゴロ、ゴロゴロ、よく転がって冷たい場所を探して寝ていた、やはり日本人は布団だよな。俺は、広いとこが好きだから、ちっちゃいシングルベッドのビジネスホテルとかだと「無理」と感じる。


 こっちの冬は寒い。セントラルヒーティングだから日本よりも部屋は暖かいものの、ずっと長い間、この国に毛布はない、と思い込んでた俺は、シーツと普通のブランケットだけで寝てた。我慢大会みたいなんだが、Bが体温高いせいで、俺はすごく助かっていた。Bが暖かい!毛布要らねえ!


 ある時、寝具屋で毛布を見つけた時に「なんだこの国にも毛布あるじゃん」と思って、買った。それでもまだBと寝てる。実は凍死しない方法って、野営だと相手が男でも抱き合って寝るって方法あるんだよ。相手が嫌な奴だったら嫌だね。


  その代わり、というか、暑い夏は、俺は一人でリビングにキャンプ用のマットレスを勝手に引いて床で寝た。Bみたいに熱い体の奴と寝るの無理。猫のように自分勝手な俺は、冬だけBと寝た。でもさ、やはり女の子が家にいると、微妙と思うんだわ。一緒に住んだことあるけど、いやそれ、同棲じゃなくて、単なるシェアハウスね。いやはや、微妙な空気流れるし、もちろん俺は、夜這いなどしない。


 しないが、Bと一緒に寝るっつーのもなんか引っかかるというか、女の子のベッドにいる方がいいに決まってる。だから何もかも微妙。俺もBも、女の子たちが間に入ると、それはそれで別バランスになるんだわ。Bはキリッとする。うーん、俺は……なんか気を遣って疲れる。Bには気を遣わないが、女の子がいると何もかも変わるだろ。まあ、Bもそれは一緒かもな。だから、確かにこの家に一人女の子がいたら、何もかも変わるな。どうかなあ。


 俺は、爺さんの良いところも認めたかったが、良いとこってどこか、かなり難しかった。爺さん、昔、美少年だった話は書いたか?たまたま昔の写真が見たいと何度か爺さんに言ったことがあって、多分それでなんだろう、爺さんがまだ少年だった時の写真が、サイドテーブルに置いてあった。わざわざどこかから持ってきたに違いなかったが、驚くような美少年だった。


 この少年が言うことなら、多少許しても良い、と思えるような美少年だ。正直、ネットを探しても、出てこないような美形だ。


 俺ねえ、これを他山の石にしないといけない、と本当に肝に銘じたわ。見かけがいいってことで、世間から甘やかされることについて、本当に慎重に生きてないとダメだと。だから俺は、爺さんのことをあまり悪く言えずに来た。万が一にでも、自分も似たような轍を踏んでいたとしたら、最悪だから。


 俺は何とか、この爺さんと友情を築きたいと努力したんだが、正直今や、もうどうでも良い気持ちで一杯になっていた。それというのも、本当に金切り声で、俺を急に罵るからであり、これね、普通の人だったら絶対我慢できてない。


 俺は皆から、Bのことにせよ、爺さんのことにせよ、我慢しすぎじゃないか、と頻繁にアドバイスをもらっていたが、俺は胆力で何とかしたかった。


 まあそのせいで胃が痛いんだろうが、殴るわけにもいかないし、ピシャッと言ってやりたいと何度も思ったが、言わない方が実際は、相手がBをこれだけ気に入っている以上、実際は得することになるから、黙っていた。さすがのBだって、まさかこの爺さんと何とかなるというのはないと思うから。俺はそのことを考えて身震いした。だめだ、やはり生理的な感覚だ。自分には我慢できない。生理的に嫌いな相手と我慢して一緒にいるという今の状態は、かなり厳しかったが、別に一緒に寝ろと言われたわけじゃないから、我慢するしかない。庭師は泊まってたわけだから。


 やはり、身の危険というようなそういう側面で考えると、途端に俺の回路はシャットダウンして、頭から「ノー!」となってしまう。だからできるだけそういうことは棚上げするしかなかった。俺は好きでもない人から迫られる経験が多すぎる。だからこんなふうになってしまったんだろう。別に好きな相手でなくたっていいんじゃないか、据えられたら食っちゃえば、と思う奴はよほど飢えてるんだと思う。愛のないセックスはほんと意味ないと心から思ってしまうと、自分で自家発電する方がよほど安全でマシだ。


 あ、この話は爺さんでなくて!女の子に迫られたら、の話だよ。当たり前だけど爺さんは論外。無理だよ、日本にいたら、こんなこと真剣に悩まない。それだけ、微妙な空気がここに流れてるってことだよ。嫌だなあ。


 俺は相手が明日も危うい年取った老人だから、多少のことは笑って受け流していたが、我慢ならなくなって来たのは、どうやら、口先で適当なことを言って、土地をやると言って釣って、なんのことはない、玄関部分の土地を掠め取る画策をしているのでは、と疑ったからだった。この話は書いたかすっかり忘れたが、俺が消耗しているのは、人を疑うことを知らないようなBをうまく謀って、弁護士と常に一緒にいる隣の家の爺さんが自分の思うように全てを計るべく、徐々に悪魔のようなサディスティックなやり方を露呈させていたからだった。今死なれたら、確実に30センチ玄関先は削られる契約書にサインしちゃってるB。まだどうなるのか決着ついてない状態で、こんなふうに関係を悪化させると本当に最悪だ。


 Bさえ居なきゃ、俺は金で釣られないから、はっきり言ってやれるんだが。でもそれでも、俺もできるだけ波風は立てたくなかった。ここまで黙ってきた苦労が水の泡になるから。


 ごく普通の家庭に育ったBだが、実は父方の祖父は一代で財をなして、全て使い切ったような実業家だった。その浮き沈みが本当に悪い影響をBに与えているのが見えた。Bの父親はものすごい知性の塊だったが、お坊ちゃんというのが隠せないように、生涯ついた仕事が常にとても不安定だった。そういう意味では俺と状況が似ている。結局、なんでもできると言いながら、実際には何もできない机上の空論を操るだけの人になってしまう。そしてはっきり言うが、Bの父の方が、俺よりもずっとずっと優秀だった。Bの父の書く文章は、誰が読んでも「これ、誰が書いたの?」というような大学教授が書くような批評クリティークだったのだ。そこまでブリリアントで目を見張るような知性が、ほぼなんの生産的活動にも十分に生かされることがこれまでなかったということについて、同情が禁じ得なかった。ちょっと俺と似てる。放浪しながら、バイトみたいな印象の人生。輝く知性があっても、深夜の工事現場でライトを機械的に振って、一晩中、交通誘導して終わり、みたいな。そうなるとアンバランスすぎるよな。もしかして、Bが俺を好いてるのって、何らかの理由が今ここに見出せる気がする。でも言っとくが、Bの父親は経営コンサルタントが行き着いた先で、医療ラボのオフィスにいた。最近、アメリカの大学でもティーチングアシスタントをしたみたいだったが、教授を目指して、教授になれなかったというのは、学閥や運も大きい。俺の周りには、そんなふうに、物凄く優秀でも、教授の椅子を逃した人たちもいて、逆に、そこまで優秀じゃなくとも、上手に椅子に座った人もいるから、人生というのは本当にわからないね。うちの父さんが院試に落ちたのも、成績じゃなくて、教授とのソリだし、俺もまあ、そうだ。いろいろ微妙だね。


 Bの母は校長先生の娘。Bの祖母はもともと二人とも先生、地元の名士で、Bの母も先生になった。そういうBに足りないものは、実は金だ。Bの母は学生結婚でお坊ちゃんと若くして結婚したのに、結局、遺産をビタ一文遺さずに親は死んでしまう。Bはだから、比較的金に鷹揚な俺と一緒にいるのかもしれないが、Bは隣の爺さんがチラつかせる条件に、最初からイエスマンに成り下がっていた。隣の爺さんは何店舗も街に物件を持っていて、自分の家の他にマンションも所有し、いつもなんらかの係争案件に忙しかった。


 近所の人が「あの人は自分の思い通りに事を運ぶためには手段を選ばない」と言い、金で俺は買えないから、俺は静観していたが、Bはすっかり「身寄りがない、家族なし、友人なし、自分が死んだら自分の財産の行くアテがない」という隣の老人が一番最初にBに吹き込んだ事をBはまるでハーメルンの笛吹きに乗せられた子供のように「もしかしてよくしてあげたら、いいことがあるかもしれない」と、老人の理不尽な要求にも、笑顔で対応していた。


 俺が我慢できなかったのは、とにかくこの老人は、俺が邪魔で追い出したがっていたことだった。俺がいるせいで、Bが自分のものにならないというのは、俺は「バカなんじゃないのか」と見てて感じていたが、ゲイの論理というのは最初から破綻している。俺がBに最も近しい同居人ということで、俺に向かってどう考えても嫉妬の炎を燃やす老人は、俺にして見たら頭がおかしいとしか思えなかった。


 それを押し隠して、俺もニコニコ何を言われても我慢していたのは、Bがそうしろと言ったからだ。俺は見た目はまあ、温厚だから、そんなことは造作もなく、面倒なことになりたくないから、我慢に我慢を重ねていた。


 いつか俺が「おい、まさか監禁されたり、襲われたりしないよな?」と聞いたらBが「お前なあ、死にそうによろよろで、杖を2本ついても歩けない、倒れたら一人で起き上がれないような老人に、何ができるんだよ?」そう言ったが、俺はそんなことは問題にしていなかった。


 実際、怖いのは、他の手段がなんでもあることだ。食べ物に薬を入れるとか、地下室に閉じ込めるとか。


 俺は勘の良い人間で、この屋敷、何かあるんじゃないかと最初から買うときもちょっと気になっていたが、この屋敷自体、作りがおかしい。


 俺たちが購入した爺さんの離れのこの屋敷は、とても狭い、本当に小さな2階建ての家なんだが、この屋敷は死角がなく、母屋から全て丸見えだ。そして鍵は内側からでなく、必ず外側。中にいる人が鍵をかけるんでなくて、外にいる人が外から鍵をかけるような仕様になっている。このことは前に書いたかもしれない。俺は不気味に感じて仕方なかったから。普通に鍵がある方がずっと普通だ。全部、鍵が外されて穴だけ開いていたら、それはそれでおかしい。


 トイレとか大事な場所の鍵が全部ひっこ抜かれている。鍵がかけられない。鍵穴が大きく穴が開いてるだけだから、覗き穴のようだ。この家、鍵のかかるプライベートのスペースがないのに、隠し戸棚のような場所がやたら多く、そこは全て鍵がちゃんとついている。なんか不気味だった。誰かに追いかけられて、逃げ込もうにも、トイレに鍵がないのはおかしくないか?


 地下室には、誰かを閉じ込めるにぴったりな死角のスペースが二つもあった。一つは空で階段の下だったが、もう一つは中に何が入っているのかわからない。コンクリートの大きな2畳ほどの馬鹿でかい箱だった。中には水が満たされていると説明があり、古い貯水槽だということだったが、気持ちが悪かった。


 離れに住んでいて、別々の棟なのに、庭を共有しているというだけで、ほぼ家族のように顔を付き合わせる状態になるのは、この家が母屋に向けて丸見えに建てられているせいだ。


 母さんが、あなたの家、ちょっと作りがおかしいから、もしかしてあのムッシューを見張るために、そんな離れを作って見張りながら隔離したんじゃないの?と言った。十分その可能性はあったが、その割にこの家はあまり使われていた気配がない。特にバスルーム。布が張り巡らされたバスルームは、布を濡らさずにどうやってシャワー浴びるんだ?という仕様だった。タイルの代わりに布。そんな家、見たことない。


 それはゴージャスな仕様かもしれないが、泡が飛んで濡れる場所が布だぞ。防水仕様というわけでもないのに。カビが生え放題なんじゃないのか。布と壁の隙間には、薄い7、8ミリほどの綿が入っていそうだ。


 布が汚れてない、古いのにあまりに綺麗だから、おかしいと思ったが、おそらくほとんど、バスルームを使ったことがなかったんじゃないか。まるでマリーアントワネットの時代のお風呂だ。バスタブは猫足ではなかったが、未だかつて、古城のホテルであっても、布張りのバスルームにはお目にかかかったことがない。ものすごく珍しく、洗面所は天井まで鏡張りのせいで、目の錯覚でとても広く見えた。


 どんなに気をつけてシャワーを使っても、どうしても布を濡らす。俺たちが引っ越してきて2年で、本当に傷んだと思う。やはりこの家は、住む家じゃない。俺は、もっと金があったら、別の家に住んで、ここを完全にメンテナンスして保存できるのに、と残念だった。日本にもしもこんな場所があれば、絶対、観光スポットになり得る。



 

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