第270話 爺さんとの蜜月が過ぎて

 

 今から思えば、この爺さんとうまくいっていた時間は案外短かった。


 なぜ一緒に出かけるようになったかといえば、真夏に庭師のヨアキンが心筋梗塞で若くして逝去し、あまりにムッシューが不憫でかわいそうだ、というのが全ての発端だった。ヨアキンのお葬式の日のことは書いたと思う。


 俺もムッシューにすごく同情して、たった一人に近かった自分に近しい人が、あっさりと若くして死ぬ、その痛みがよくわかるから、自分たちにできることを何かしてあげようという思いが根底にあった。5月の手術以降、車に乗れなくなっていたムッシューを、不便だろうから、スーパーやホームセンター、パン屋など自分たちが行くついでに声をかけて、連れていってあげる御用聞きのような状態が徐々に発展した形だった。


 そのうち、隣のムッシューの家に毎週土曜日、食事に招かれるのが恒例になった。お手伝いさんは案外料理が上手く、それはムッシューが逐一、レシピを教え、口出しした結果だろうが、夏のテラスのランチから始まって、ずっと今までほぼ毎週のように続いていた。俺は、最初は自分が料理する手間が省けると思い喜んだが、そのうち、こんな食事を続けていたら、糖尿病や高血圧へ一直線だと感じるようになった。グルメ病というか、高齢者なのにムッシューはよく食べたが、よく太らないなと思う。俺は食べることについてとても気をつけているから、ほとんど外食しない。その割に突然にジャンク・フードが食べたくなるのは、母さんがそういうものを一切食べさせてくれなかった反動で、兄貴も同じことを言っていた。


 毎週日曜日には車椅子を押し、美しい庭のある城や美術館に連れて行ったりとなったのは、すべてムッシューの希望通りに俺たちがその願いを叶えてあげた形だった。どこか行きたいところがあっても自分で出かけて行けなくなったのは不便だろうという純粋な善意だったのは、やはり家族も友人もゼロという状態は、あまりに痛々しいと思ったせいだった。老人になれば、そうなって普通だとはとても思えない。やはり、ゲイとして生きて、パートナーがいないというのは本当に深刻な状態を将来に招く。


 レストランにお供したり、サザビーズやクリスティーズのオークション会場にお供するような関係について、最初は物珍しさも手伝い、俺もBも、自分の知らない世界であるし、豪華な食事を奢ってもらう状態に、そこまでこのムッシューは近所の人が毛嫌いするほど悪い人でもないんじゃないかと思い始めていた。一年に一度のクリスマスディナーが毎週になったのを思い浮かべてもらうとわかるが、さすがに行き過ぎだと俺は途中から、レストランは断りたい、と思うようになった。これはBのチョイスで、爺さんの選ぶレストランはもう少し大衆的な場所だったが、値段はそこまでは変わらない。2割り増しくらいか。


 俺は確かに、爺さんの選ぶビストロは口に合わず辟易した。俺はフレッシュなものしか食べないせいで、ほとんどのレストランでは口に合わない。その2割増しくらいの価格帯のレストランなら、ミシュランの星か、もしくはお勧めだから、さすがにかなり凝っていて、美しいプレートだった。だが、俺は、こんな生活は身の丈に合わないし、何かが歪んでると、早くやめたかった。


 Bは平然としていたのは、Bはプロとして、目にする場所、住んでる世界がいつもそういう高級な「ランクが上」の世界だったからだろう。目が眩むようなダイヤモンドを指にはめた老女は、リムジンで移動し、ホテルからたったの50メートルでも歩くことはなかったと言うから。そんな場所で働いていたことがあるBはともかく、俺は「レストランはパスしたい。こんな生活、身の丈に合わないから嫌だ」と家ではBに主張した。


 Bは「嫌なら家にいればいいじゃないか」と言った。日曜にはいろいろ本当はやりたいことがある。でも俺は、実はこの国で有効な自動車免許を持っていなかった。日本の免許を書き換えれば実際は楽勝が、今は日本の免許自体がない。スピードも出さないし、本当に真面目なドライバーだったんだが。


 Bが、絶対お前、運転すんなよ、ときつく俺に言って、俺も絶対に二度と運転はしない、と誓っていた。日常はそのせいですこぶる不便だったが、とにかく、俺はどんな田舎でも大人しくBの隣に座っていた。


 兄貴はスキーやスノボが好きだったが、俺はそういうタイプのスピード感は好きじゃなかった。俺が好きなのは、ローラーブレードやスケートボードまでだ。兄貴もバイクで事故ったが、やはり俺たち兄弟は、注意するに越したことがないような性質らしかった。下の弟だけが、スポーツカーで安全運転のタイプだったが、俺はよく子供の頃、高い場所に登ったり、そこから飛び降りたりと駆け回るタイプで、そのくせ、怪我などはしたことがなかった。さすがに今はそこまで身軽じゃなくなったから、その理由を考えたんだが、成長過程の子供に比べ、大人になるとやはり背が高くなり、体重も増える。そのせいで軽い動きがしにくくなるし、ぶつかったり倒れたりの衝撃は、体重に比例して大きくかかることになる。


 だから実は、しなやかな動きをするには、できるだけ無駄な筋肉をつけず、柔軟で使える筋肉だけをキープしておくことが重要なんだと気がついた。俺に無駄な肉は全くなかったが、もちろん子供の頃に比べ、背も高くなり、体も固くなっている。スポーツをずっと地味に続ける重要性というのを、海外に出てから感じ始めていたが、なかなか続かなかった。俺にとって、例えばブラジリアン柔術やクラブマガは邪道に思えた。合気道だけは、さすがに心惹かれたが、ほんのもう少し、攻撃性のあるスポーツでないと、なんとなく物足りない。柔道では地味すぎるし、俺はフェンシングのクラブがあれば入りたいと思ったが、未だに門戸を叩いたことがなかった。ただ、俺の視力は悪いから、実際はあまり有利じゃないだろう。


 話はズレたが、この爺さんと毎週末を過ごしていると、美術館やグルメ以外の選択がなくなり、それは俺にとってつまらない人生と、何より爺さんと遊ぶより、若い清々しい女性たちと集いたい、と思ってしまって、俺は密かにため息をついた。どうせ食事するなら、知性的で美しい女の子と遊ぶ方が、ごくごく普通に魅力的だと感じて、俺は密かに「助けてくれ……」とこの状況からどうやって抜け出たら良いものか、考えあぐねていた。


 若く、スレてなくて、知性と教養に溢れているような女性と出会うのがここまでハードル高いというのは驚く。


 そこそこ綺麗で若くとも、タバコを吸っていて、ボーイフレンドと同棲し、ブランド物やグルメに嬌声をあげるような子としか出会わない。大学で経済学を学んだの、とか、古い家具のレストアしてるの、とか、なんだか興味ありそうな世界に住んでいる子でさえ「そんなの実はどうでもいいの」と、なんか一緒にいるモードが面白くないのだ。日本人の男が、噂通りのセックスをするのかどうか、値踏みをされている気分になって、いつも俺は興ざめした


 男に踏み込まれないよう、絶対に気をつけているというような子は、もはや化石の時代なのか。


 ミステリアスな、考えが読めない、知的で綺麗な人はどこかにいないのか。


 俺はそういう人となら、恋の駆け引きにワクワクすると思ったが、あまりに望みが高すぎて、出会いがなかった。すぐに落ちるような流し目を送ってこられても、自分自身が全く乗り気になれず、俺はこの女の「寝た男コレクション」の一人にはなるまいと、早々に帰宅するのが常だった。また、酒を飲んだら前後不覚になるような子が案外多いことにも驚く。外国人の女は酒に強いが、酒を飲むと理性が緩くなるようで、俺は注意深く観察して、パーティで美味しそうに酒を飲む女は絶対ダメだと避けていた。外で飲むなよ、特にビール。俺の目にはおっさんにしか見えない。ビールを飲む女性。グラスならともかく、ジョッキやボトルで飲んでる女性はもう論外。


 家でキッチンドリンカーも始末に負えないが、一人で出かけた先、いろんな人がいて、誰かよく知らない友達の友達の友達が混ざっているようなパーティで、飲むな。


 酒を飲まないとリラックスできないと思い込んでいるのは、日本でもこの国でも他の国でも同じらしく、俺は実は酒については、悪魔の飲み物という位置付けでしか見ていなかった。書く時に酒が出てくる小説は格好がいいから、俺も時に書くが、俺はもう一滴も実は飲む気がない。馬鹿なことに、俺は大学生の頃、小説みたいに格好つけて結構飲んでいて、ひどく懲りたことがある。


 俺ねえ、結局、実は好きじゃないんだわ、酒。


 それがよくわかって、単なる舞台の小道具だから渋いというだけで惹かれてた事実に俺は愕然とした。俺の友人たちは普通に飲むが、合わせて飲んでいると、とんでもない酒量になる。俺は酔って思考回路がうまく働かない状態が大嫌いだったから、スッパリやめて長い。


 だから、グルメや酒、女や金で俺を釣るのは無理ってことだった。組織に所属しない俺は出世や名誉にも興味がない。


 俺は俺でありたいと思うという意味では、そこをないがしろにされると確かに耐えられないが、そこもなんとか乗り越えるべく、どんなにひどい扱いを受けようと、罵られようと、馬鹿みたいに扱われようと、自分を試してきた。人間の尊厳を踏みにじられるような状況に、自分はどこまで耐えることができ、そういうことをものともしないで跳ね除けることができるのか。


 この実験だけは、あまり良い結果をもたらさないとわかった。跳ね除ける前に、自分がそんな扱いを受けるに相応しいような、ゴミクズに成り下がることがどうしても避けられないらしい、と気づいた。自尊心を大事にせずになんでも許容し、イエスと言い続けると、自分が結局ゴミのような無価値な存在に成り下がった。いてもいなくても良い、無視され、踏みつけられ、掃いて捨てられるゴミ。


 この状態が正しいわけがないだろうと思ったのは、そこまで価値のないものにできることなどないとわかったからだった。まるっきりなんの役にも立たない。役に立つことが重要なのかはともかく、時間の無駄、資源の無駄、生きていて無駄すぎると思った時に、役立つというのは重要だと思い直した。


 自分に役立つのは、生きていく上で最低限。人に役立つようでないと、生まれてきた意味は皆無だと。俺は誰にも役立たない時間を過ごすことによって、本当に無意味だと砂を噛み締めて、それから、この状況がなぜ起こるのか分析して、自尊心の大切さと、イエス・ノーをどんなふうに伝えるのかということと、自分の感情のコントロールと、人間存在の基本として存在する「生存の為の自動装置」としての「自分勝手さ」と「利己的な遺伝子」について考えた。


 この遺伝子が成せる技の部分に、むやみやたらに罪悪感を持っても意味がない。とにかく生き延びさせるために、そのために必要なものを、手段を選ばずに得るようにプログラムされているのだ。子供の頃、そのことを知らず、何にでも罪悪感を持ったが、深く考えていけば、自然の摂理で当然であり、そのことを知った上で、制御の装置を新たに自分に取り付けるしか方法がない。


 なぜそのことが必要なのかといえば、放っておけば、世界は破滅にしか進まないから。食べたいだけ食べ、寝たいだけ寝て、それをやってみれば、いかに体も心も死んでいくのかを知る。俺は、あらゆることを試してみて、他の人に言えることは「やりたいならやってみろ」ということだった。


 やったらわかる。


 他の人は「もしこうならいいなあ」と何となく思いながらも、心の赴くままに馬鹿な実験などしやしない。何よりそんな時間もないし、そんな無駄なこと、うっかりしたら考えさえも、思いつかないだろう。俺は、生産的な活動を一旦全部否定することによって、それだけの時間を得た。いろんな犠牲と、自分の評価や自尊心を地に落としても、知りたかった。


 自分のこれまで持っていた価値観を全て投げ捨てて、意味のないものの理由を知ろうとすることが、本当に馬鹿げているということ、俺は何となくわかってはいたが、世界はどんなふうに成り立つのか、実際になぞって自分の手に取ってみて、確認したかった。


 聡明な友人たちは「それって実験しなくとも答えわかってるんじゃないの?」と言った。確かにそうだな。ゴミはゴミでしかないんじゃない?


 俺は、それでも愚直にやってみたかった。今この今世の環境なら、それが許されるラッキーな条件に生まれついていたというのもあった。


 本当に必死に、毎日を過ごさないといけない追い詰められた状況だと、それどころじゃない。確かに俺もそれどころじゃなかったが、普通に就職、働いて金を稼ぐという道に逃げずに、あらゆる別の可能性を模索して、そして、今ここにいた。成功して金持ちになりましたよ、有名になりましたよ、なんていうような、どこにでもあるような「サクセス・ストーリー」になんて、俺は一切興味がなかった。どうやってイエス・キリストやブッダが最終解脱を果たしたのか。


 俺はもちろん、宗教にも一切、頼る気は無かった。自分の大事な鍵を他人に渡して、どうするというんだ。俺は絶対に一人で見つけてみせると考えていた。


 そんな大それたアイデアで、こんな腑抜けのような生活をしていると誰が思うもんか。母さんからも兄貴からも罵られたが、俺はじっと耐えた。兄貴も母さんも「お前、なんとか一人で自立して生きていけよ」と言いながら、「本当はなんでもできるのに、なぜやらないんだ?」と言い続けた。


 俺はやらないことで、あらゆる弱者の立場をすでに理解しつつあった。金がない、健康でない、頭が働かない、気力が続かない、教育を受けていない、欲望が強すぎる、現世的な思考回路で生きている、明日のことを想像できない、虐げられていて、ストレスが溜まる、先がない、未来が読めない、良いお手本がない、父母も親戚も自分と同じレベルかそれ以下の考え方をしている……


 暴力を振るわれる、自分を否定される、ないがしろにされる、誰からも振り向いてもらえない、誰からも愛されない、誰も愛せない、世界が真っ暗に見える、自由がない、生きていても仕方ないと感じる、切ない、辛い、友人がいない、誰も助けてくれない。


 あらゆることを体験すると、なぜそうなっていくのか理由がわかる。ではそこからどうやったら出られるのか、分析する。


 俺は、聖書というのはすごいな、と何度も書いたが、本当だ。考えたこと、頭の中で考えている世界が本当になる。俺はたくさんの仮定の世界で生きて、何度もそのことを体験し、人間の脳は、本当に単なるスクリーンで、どんな人生を映写するのかというのは、まるっきり自由ということだと結論を出していた。


 あまりに肉体やこの現実から掛け離れると、統合失調症と診断されてしまうが、とにかく、日々、何に興味を持って、何を考えながら生きるのかが、本当に最重要となると結論を出した。


 そして、この長かった実験は、もう終わりにしようと一区切りをつける気持ちが芽生えた。これ以上やっても、出口と逆側に向かって歩くだけだ。解脱でなく、迷いの方向性だ。


 読んでいる人に、俺のことを理解してほしいというつもりはないが、それだけ自覚してこの時間を過ごしていても、とにかくキツかった。人というのは、自覚があれば多少はマシになることも、頭でわかっていても、体では受け付けないということが往往にしてある。


 Bにはともかく、この気分屋なムッシューは、俺には時々、気分で怒鳴りつけたりと、本当に酷かった。もう2年以上か。俺が精神的にちょっとおかしくなりそうになるのは、不機嫌で暴力的なBとの生活のせいもあったが、それはムッシューと出会う前からすでにその傾向がはっきりしていた。そこにこのムッシューが上からプラスされると、俺は真面目に出て行こうか考え、迷い、その前に気づかずうちに病気になっていて、痛い痛いと医者に通い、検査の毎日となった。


 最初、全くこの痛みはストレス性だと気づいていなかった俺は、灯台下暗しに驚いた。ストレスの可能性を指摘したのは、セカンドオピニオンで受けた日本人のドクターだった。さすが日本人、と俺は本当に頭が下がる思いだった。異国の地で医者を志したこの先生は、出会った時に、一瞬、医者でなく、坊さんかと思うような特別な波長だったことは確か書いた。この医者が出した薬が効いて、一旦痛みが治まったが、薬をやめたらまた痛くなり始めた。


 そしてこの薬はそうずっと続けて飲むような薬でもないと言われていて、とにかく検査の数値がおかしいことについて、ずうっと検査が続いたが、不明のままだった。日本でもう一度、ざっくり検査したら、正月前に出た結果は、「特に異常なし」で俺を愕然とさせた。ただ、胃カメラは飲んでください、と。その頃にはすっかり痛みは引いていたから飲まずに戻ってきた。左の重さと左の痛みの関連性は、もしかしてないのかもしれない。日本にいると痛くないことがわかり、そしてこっちに帰ってくると、また徐々に痛みが戻ってくる日々だった。


 とにかく俺は、馬鹿げた実験に区切りをつけ、まともな道を行こうと、頑張ることにした。上手くいくかどうかは知らないが、今のままでいるよりはましだ。


 

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