【文フリ札幌・テキレボ7サンプル】can't stop want you

犀川ゆう子

第1話





 スーパーのレジの仕事は嫌いじゃない。潤はそう思っていた。

 彼がこのスーパーでシフトに入るのは大体夕方五時から閉店の九時まで、少し前までは平日が二日と土日のどちらかのそれぞれ五時間だけ働いていたが、最近は多い時で週五日、土日はフルタイムのシフトにも入ることがある。潤としてはもっと働きたいと思っていたが高校生の彼が働ける時間には限りがあるし、他のバイトやパートの主婦たちとの兼ね合いもあって、この店で働けるのはそれくらいが限界なのだった。

 潤が主婦のパートと交代する頃、レジは最も混雑する時間になる。潤が立つのは大抵会計のみを客が行うセミセルフレジなので、潤の仕事はバーコードに通した商品を精算済の黄色いカゴに移動させる部分なのだが、彼は元々要領のいい方で手先も器用なので、カゴの中にマニュアル通りの順番で商品を入れたり生物のパックに手早くポリ袋を被せてやることはさほど苦ではない。余計なことを考えずに流れ作業に没頭できるという理由で、潤はこの仕事が嫌いではなかった。


「中井くん、残った総菜あるけど持ってく?」

 一日の仕事を終え、バックヤードで片付けをしていた潤に声を掛けたのはバイト仲間の打川という大学生だった。彼は総菜調理の担当で、大抵は裏でフライなどを揚げている。今は制服の白い帽子を脱いでおり、アッシュカラーに染めた短髪がくしゃくしゃになっているのが見えていた。従業員が持ち帰って良いことになっている売れ残りの惣菜をバックヤードに下げるのは彼の役割で、自分の分を選り分けるついでにと度々潤にも良い物を見繕ってくれる有り難い存在だった。

「あ、欲しいです。今日何ありますか?」

「えーっと、カボチャコロッケとメンチとアジフライ」

「メンチとアジフライがいいです」

「分かった。メンチ数ないから一個な。パックに入れてロッカー入れとくから」

「ありがとうございます」

「あ、後で今度の練習のスケジュール送るから。来れそうな日あったら言ってよ。ビブスとか持ってくからさ」

 潤は打川の所属する大学のフットサルサークルの練習に時々混ぜてもらっている。潤は中学までサッカー部だった。元々高校で続けるつもりはなかったのだが、ここで働き始めてすぐに打川に誘われ、それから時々練習に参加するようになった。

 潤が自分の仕事を終え、ロッカールームで制服に着替えてタイムカードを押したのは九時三十分。裏口から外に出て自転車で十分ほど自転車を漕ぐと、駅前の景色は徐々に住宅街へと変わって行く。立ち並ぶ住宅の中、彼はひとつの一戸建ての前でペダルを漕ぐのを止めた。自転車を塀の内側に停めて上着から鍵を取り出しちらりと目を向けた家の、どの窓にも明かりはない。帰宅した潤を出迎えたのは今日も暗闇だった。

 玄関の三和土は広さの割に物が少なく、今彼が適当に脱ぎ捨てたスニーカーの他には靴も並んでいない。玄関の小窓から差し込む僅かな明かりだけの廊下を慣れた様子で進み、左手のドアを開けるとそこは二十畳ほどのリビングルームだった。壁のスイッチを押して照明を点けると、入って左手に対面キッチンとダイニング、右手にL字のソファセットとローテーブル、テレビがある。壁際にはカントリー調の淡いベージュの飾り棚がいくつか並んでいるのだが、何故か中身はほぼ空だった。潤はリビングに入るなり肩に掛けたリュックサックを床に放り持っていたビニール袋をテーブルに置くと、制服を着替えもせずにソファに身を投げた。背もたれに頭を預けて深く息を吐く。今日は特売日で混み合うレジで夕方から閉店まで働き疲れていた。もらってきた総菜の入ったビニール袋を引き寄せ、中のコロッケとメンチカツを手で摘んで億劫そうに口へ運ぶ。面倒なのか箸は使わなかった。行儀が悪いとか栄養が偏った夕飯はいけないだとか、高校生の子供にそう指摘する存在はここにはいないのだ。潤の母は三ヶ月前の修了式のすぐ後に妹を連れて家を出て行ってしまい父も愛人の所に入り浸っているので、今は潤だけが一人この家に取り残されて住んでいる。

 夕飯を済ませた潤はスマートフォンをいじりながらぼんやりとテレビを見ていたが、やがてうとうとと微睡み始めた。首が徐々に傾ぎ、ふっと力が抜けてかくんと前に落ちる。テレビも照明も点けっぱなしのまま、潤は朝まで眠り続けた。





 目を開けると薄明るいリビングの天井が見えた。一瞬遅れて、ソファで寝ていたらしいと思い至る。醒めきっていない頭でひとまず時間を確認しようとして手の回りをまさぐってみるが近くにスマホがない。こういう時は大抵思いも寄らない所に落ちているので辺りを見回すと、少し離れた床の上にスマホが転がっている。拾い上げようとすると狭い所で寝たせいで身体が軋みを上げたので、動きを止めてあちこち痛む首や肩を回した。時間を見ると六時十分で、いつもの時間よりまだ余裕がある。もう少し寝ていたい気もしたが、二度寝して起きられる気もせずに身体を起こし、風呂場へ向かう。

シャワーを浴びると大分目が醒めた。軽く汗を流してすぐに上がり、脱衣場でドライヤーの熱風を浴びる。温風のせいで乾いて突っ張る肌にジェルを塗りたくって鏡と向き合い、まばらに生えていた髭を剃って髪をワックスで軽く纏めて身支度を整える。朝食として昨日の総菜の残りを食べていると、ふとダイニングテーブルの上に目に留まった。積み上がったダイレクトメールから避けてある封書の束、今月分の光熱費や水道代などの請求書のいずれも支払期限が迫っていることを思い出した潤の眉間に皺が寄る。小さく舌打ちしてスマホを取り出すと父親宛にラインを送った。彼の母親と妹が出て行った頃から全く家に帰らなくなった父親だが、こうして連絡くらいは取ることができていた。今頃はどこかで愛人と暮らしているんだろうが、催促すると光熱費くらいはすぐに口座に振り込まれる。家庭がこうなる前から学費や家のローンなんかは父親名義の口座から支払われていたことは潤も知っていた。潤が今でも表向き普通の生活を送っていられるのは今でも父親がそれらを支払っているからなのだろう。自分の生まれ育ったごく普通の家庭がこうなってしまったのは父親の身勝手な行動が原因だと潤は思っていて、その父親に反抗する意図もあって彼は日々バイトに励んでいるのだった。それでも高校生のバイト代ではとても生活費や学費の全ては賄うことができず、近頃は焦りと不安を抱いていた。いつまで父親が気前よく金を出し続けるかは分からないし、将来のとだって考えなくてはならない。そのためにも時にはプライドを捨てて父親に金を催促するのだった。

 そうこうしているうちに家を出る時間が近付いて、学ランに袖を通した潤はひとりきりの家を後にするのだった。




 昼休み、購買でパンを買って教室に戻ろうとした所で背後から呼び止められた。振り返ると理彩がこちらへ駆け寄って来ている。

「潤!」

理彩は付き合って一年くらいになる彼女だ。一年の時に同じクラスで、その年の七月頃に学祭をきっかけに付き合い始めた。バレー部だからとずっと短くしているショートボブに包まれた顔は小作りで目がぱっちりしていて、外練のせいで少し焼けた肌とすらっとした体型と相まって見るからに活発そうだ。理彩の表情を一見して大体どんな話題かを察する。どちらともなく人通りの多い購買の近くから移動して、窓側がちょっとしたベンチのようになっている廊下の一角に腰を下ろした。

「潤、あのさ、ライン無視やめてって言ったじゃん」

「ライン?」

 思い出そうとするが心当たりがない。俺の様子に理彩が痺れを切らし、爪先で床を叩いた。

「そうだよ。昨日の夜送ったやつ」

 ポケットからスマホを出して見ると、確かに昨夜寝落ちた後に理彩からのラインが来ていた。朝に時間を見た時に画面に通知が出ていたんだろうが、そのまま気付かず操作したに違いない。見れば昼休みに会えないかという内容だった。

「ごめん」

「せっかく一緒にご飯食べようと思ったのに」

 いつもはあまり校内の人気のある場所で二人で過ごしたりしないが、理彩の友達が昼練に行ったりすると時々一緒に食う事もある。今日もそのつもりだったらしいが、俺から返信がなかったので自分から探しに来たのだろう。寝落ちて返信できなかったのは仕方ないかも知れないが、朝からずっと返信しなかったのは流石にまずい。

「あー、疲れてたんだよ」

「またバイト?」

「……まあ」

「最近シフト多すぎじゃない? 大丈夫?」

 理彩は俺が最近になってシフトをかなり増やしていることを知っていて、いつも心配してくれていた。

「別に。金がいるし」

「……ふうん」

 とはいえ理彩はどうして急に金が必要になったのかまでは知らないので、俺がいつもはぐらかすと納得いかない風に渋い顔をする。

「だからってさあ……」

「別に、お前には関係ないだろ」

 俺が説明していないんだから知らないのは当たり前なのだが、こっちの事情も知らない癖にと身勝手に苛立ってしまう。心配かけたくないとか知られたらどんな反応されるんだろうとか色々考えた末、最後は詮索されるのが面倒に思えて結局理彩には俺の家のことは話していなかった。急にデートの時間はおろかラインする時間すらも減って、理彩が内心快く思っていないことは察している。俺だって逆の立場になってもし理彩の付き合いが急に悪くなったとしたら、困惑するし不安にもなるだろう。だからなるべくそう感じさせないよう努力はしているが、中々うまくは行かない。理彩のことは好きだし大事にしたいが、そのせいで大事な事を話す時に躊躇してしまうんだと思う。

「何それ。私達って付き合ってるんじゃなかったっけ? 彼女が彼氏の心配して何が悪いの」

「それはそうだし、ライン未読無視したのは悪かったと思ってるけど。でもマジで忙しいから、連絡とかマメにすんのは無理かも」

「潤が大変なのは一応分かってるつもりだけど、私だって寂しいんだよ。潤が好きだから。疲れてない時でいいからたまには構ってよね」

「分かった。今度埋め合わせするから」

「今度って?」

「今週の土曜は?」

「いいよ」

 次の休みに買い物へ出掛ける約束をし、おようやく機嫌を直した理彩とそのままそこで昼を食った。

「じゃあね。今日は練習だから一緒に帰れないけど、夜またラインするね」

「ああ。待ってる」

久々にまとまった時間理彩と話せて良かったと思いながら教室に戻り、奥の方の自分の席に座る。授業の用意をしながらふと視線を上げると、教室の前の方の席にいる男子のグループが目に入った。言っちゃあ悪いがあんまり冴えない感じの奴等で、いつも何かよく分からない話題ばかり聞こえてくる。俺が目を止めたのはその中の一人、高橋裕暢だった。ボサボサの黒髪、何のこだわりもなさそうな地味な黒縁眼鏡、薄っぺらい感じのいかにも頼りない感じの体格。ふと気が付いてそいつの袖口から僅かに覗く白い布をぼんやり眺める。湿布だろうか。しかし見ていて楽しいものでもないので、すぐに飽きて目を逸らすのだった。





 今日は本来シフトじゃないが、今週は水曜が委員会なので今日に変えてもらっていた。いつもバイトのある日はさっさと帰ってどこかで腹ごしらえをしたり宿題を片付けたりするのだが、火曜は午後の授業が一時間短いからバイトまで少し時間があった。放課後、バレー部の練習に行く理彩と別れ、特別教室棟と教室棟を繋ぐ通路に向かった。特別教室棟は二年の教室がある二階と通路で繋がっていて、その名の通り視聴覚室とか理科室とかが集まった所だ。美術室とか音楽室がある二階は放課後も部活の奴等が大勢いるし、三階も資格試験の時期はパソコン室で課題や勉強をする奴がそこそこいる。しかし一階は技術室とか木工室とか、たまの授業くらいでしか使わないような教室しかないのでいつも人気がなかった。だから特別教室棟一階の男子トイレに人が来ることは滅多にない。それが放課後ならば尚更。

しかし俺の目的地はそこだった。

 俺がトイレに足を踏み入れると、水道の前に立っていた人影が振り返った。頭半分くらい下から居心地悪そうに俺の様子を伺う、頼りない体つきの男子。同じクラスの高橋。こいつがどうしてここにいるのかというと俺が呼び出したからで、挨拶もせずに一番奥の個室へ向かうと、後ろから高橋も着いてくる。

 男二人狭い個室に入り、俺に続いた高橋がドアを閉めた。示し合わせたように後ろ手で錠をスライドさせる覚束ない指先を、俺は見下ろす。

 向かい合う俺と高橋の目線は決して合わない。高橋は目を伏していて、ボサボサの前髪で表情が隠れている。俺はそんな高橋の制服の肩の辺りを掴んでこちらに引き寄せ、壁が背になるよう向きを変えて思い切り壁に叩きつけた。

「…………っ!」

 高橋が息を呑む。俺はそんなものには構わず、肩を掴んだまま腹に拳を打ち付けた。

「は、っ……ぅ」

すると潰れたような呻きを洩らしたが、すぐに歯を食い縛って堪える。高橋は殴られても何故か決して声を出さない。その理由に欠片も興味のない俺は高橋が汚い床に膝を突いて崩折れるまで、続けざまに拳を肩や腹に何発も叩き込む。

「……っ、ッぐ……ぅ……」

 壁に凭れながら座り込んだ高橋の制服の上、腹の辺りに足を置く。置いただけでまだ何もしていないのに、怯えたように高橋の呼吸が止まった。口では何も言わないから、身体の方がずっと正直で面白い。足に力を入れ直す度にびくりと薄い腹に力が入るので、半ば遊び半分の気持ちでそれを繰り返す。すると俺の足から内臓を守ろうとなけなしの腹筋が反射的に硬くなるのが靴底越しに伝わり、それが抵抗されたようで気に入らない。

「っ逆らってんじゃねえ……」

「……、……っ、っ、」

俺の攻撃から逃れようと身を捩る高橋の身体中を腹と言わずガンガン蹴りつける。その光景を見下ろしている間、今自分はちょっとヤバい顔してるんだろうなとぼんやり思う。鏡で見たことなんかないけど、脳味噌のこれまで反応したことのない部分が興奮している気がして、目がギラギラしている自覚がある。


 しばらく蹴ったり襟を掴んで持ち上げては殴ってを繰り返すと、やがて高橋は何も言わなくなった。気絶している訳じゃないのは殴った瞬間のくぐもった声で分かる。反応の薄くなった高橋の襟首を離すと、顔から床に倒れ込む寸前で腕を伸ばして便器に上半身を凭れさせた。

「…………」

人目に付く場所や顔に痕跡が残っていないのを目で確認してから個室を出る。ドアをくぐった瞬間、小窓から差している強い西日が目に刺さってまるで咎められているような気になった。微かに聞こえる高橋の浅い呼吸が耳障りでさっさと手洗いを済ませてトイレを出る。


こういう事を始めたのはつい最近だ。二ヶ月前くらいだったろうか。クラスのライングループから高橋を探し、連絡を取って呼び出した。単なるストレス発散が目的だったが、それがどうして高橋なのかと言われると俺にもはっきりした理由はなく、たまたま目に付いた、やりやすそうな奴だったからとしか言いようがない。高橋を殴った後の俺はあの日以来内側でくすぶっている憂鬱や苛立ちがいくらか収まって、何も知らない理彩やその他の奴らの平和そうな顔に付き合っていられるようになる。初めは無抵抗の相手を殴ることに抵抗感や罪悪感があったような気がするが、こいつを殴った後の妙な開放感に気が付いてからはそれを繰り返すうち暴力が癖になって、何も感じなくなった。

なにせ俺にとっちゃ高橋はどうでもいい奴だ。ただ同じクラスってだけの他人で、俺の人間関係の輪からは外れているから、こうやってゴミを捨てるみたいに何かの捌け口にできるのだ。俺は理彩や友達の前でいつも通りの俺でいられればそれでいいし、俺はそうやって自分を繕うので精一杯だからこいつがどうなろうと構いやしなかった。

今なら優しくできるから、理彩と話したかった。でもそろそろバイトに行かなくてはいけない時間で、仕方なく俺は理彩にラインを送った。部活頑張れ、夜楽しみにしてる。部活が終わった後これを見た理彩は喜んでくれるだろうか。








「あ、ちょっと」

 更衣室で制服の紺のブルゾンに着替えてバックヤードに出たところで、飯島さんに呼び止められた。飯島さんはここの社員で、確か三十七か八くらいだったと思う。背は高くないし小太りだけど割と気さくな人で、俺がここに入った時の面接官だった。バイトやパートの面接は全部この人が担当らしい。店長は真面目でちょっとカタい感じだから、そういうのは飯島さんの方が確かに向いてそうだった。

「はい、何ですか」

「手、どうしたの」

 指された右手を見てみると、拳の骨が突き出ている部分が擦り剥けている。心当たりといえば一つしかない。

「中井くんもレジとはいえ一応食品触るから、表出る前に絆創膏貼りなよ。場所分かるよね?」

「すみません、気付いてなくて。タイムカードの横でしたっけ」

「そうそう。よろしくね」

 言われた通り絆創膏を貼ってからレジに出る。ふとした拍子に絆創膏を貼った手が目に入る度不快な気持ちになった。高橋の痕跡が俺の日常に出てきたようで気が散る。

 最悪の気分でバイトを終えて更衣室で着替えていると、打川さんが入って来た。

「あれ、今日遅いんですか」

 調理担当は夕方を過ぎると明日の仕込みに入り、清掃が終わり次第閉店前には帰るはずだ。レジ閉めから旗下げまでやる自分より遅いのは珍しい。

「明日の仕込みが多くて手伝ってくれって言われちゃってさ。明日朝の人が急に休むことになったんで、その人の抜けた分を今日のうちに済ましときたかったみたい」

「へえ。いい迷惑っすね」

 打川さんが目を僅かに見開いたので、まずかったと気付く。慌てて言い繕った。

「いや、多分何か事情とかあるんでしょうけど」

「まあなあ。俺らも結構さ、講義とかサークルとかで融通利かせてもらってるから。出れるときは出ときたいんだよな」

 打川さんはそれほど気にしていなかったようで、内心胸を撫で下ろす。こんなヘマ普段は絶対やらない。こんな手の傷ひとつに波風立てられて、些細な苛立ちも表に出してしまっている自分に腹が立つ。蓄積される一方のストレスを吐き出し、俺の身に起こっていることを隠して平気な顔をし続けるために高橋を殴っているのに、それが原因で苛立つなんて本末転倒だ。

「あ、そういや昨日言ってた練習の件なんだけど。今週か来週末の日曜とか来られる? どっちも市営借りられることになってさ。せっかくだからと思って」

 市営体育館は割と新しくて設備が良い上に料金も安いので、週末となれば予約が中々取れないらしい。二週連続で借りられるのは珍しかった。当然行きたいが、今週末は理彩との約束があるのを思い出す。

「来週だったら行けます。今週はちょっと」

「なに、デートとか?」

「まあ」

「えーと……リサちゃんだっけ。けっこう続いてるね」

「そうですね、もうすぐ一年経つくらいです」

 前に一度だけ練習に連れて行ったことがあるから、フットサルの人達は理彩のことを知っている。理彩は元々明るい性格で体育会系の上下関係のコツも分かっているからすぐに馴染んで、内川さん達の間でも可愛いと評判だった。

「中井くん最近シフト入れまくってるし、稼いだ分で彼女と美味しいものとか食べたらいいっしょ」

「はは、そうしようかな」

 内川さんに総菜を分けてもらった後、途中まで一緒に帰った。そのせいか家に着くのがいつもより遅くなり、俺は少し焦っていた。今夜話そうと理彩にラインしていたからだ。打川さんと別れた後にスマホを開いてみると、部活が終わったくらいの時間に理彩から楽しみ! とスタンプが返されていた。理彩がまだ寝ていないといいけどと思いながら、家に入るなり着替えもせずにメッセージを打ち込む。

《まだ起きてた?》

 すぐに既読がついてほっとする。

《起きてたよ。潤が話したいって言ってたから》

《ありがと。今バイト終わって帰ってきた。通話してもいい?》

 理彩に電話する。声は少し眠たそうだったが、切ろうかと訊くと断られた。特に話す内容を考えていた訳でもなかったので日曜の予定をあれこれ話し、買い物に行きたいということで話がまとまって通話を切った頃にはもう十一時を回っていた。風呂に入る気力はないがせめて夕飯だけでもと思い、制服を脱いで内川さんにもらった総菜を食べる。その後部屋へ行きベッドに潜り込むとすぐに寝てしまった。









 七月ともなると屋内の体育館もそれなりに暑い。身体を動かしていれば尚更だ。冷房は来週から稼働するらしく二階の窓が開けられていたが、今日はよく晴れているわりに風がないのでさほど涼しくはならなかった。

 理彩とデートした次の週の休みは、朝から夕方まで打川さんに誘われたフットサルサークルの練習に混ぜてもらった。最近は近所を走るのすらできていなかったせいで基礎練から既にバテ気味で、体育館の片付けと清掃を済ませシャワーを浴びるとかなり疲れていた。正直これからバイトどころじゃない。でも俺には十月の修学旅行のために金が必要なのだ。積立金は口座振替になっているから父親がどうにかしているはずだが、四泊五日分の小遣いは用意しないとならないし準備も何かと必要だ。夏休みに入れば学校がない分シフトに入れると思っていたが、打川さんたち大学生組も帰省時期以外はシフトを入れたいようだし、最近入ったフリーターの女の子が同棲している彼氏と旅行に行くのだと言って張り切っていて、俺ばっかりシフトに入れてもらう訳にはいかない。今から少しでも稼いでおく必要があった。

「今日けっこうハードだったけど、中井くんこれからシフトだろ? 大丈夫?」

「はは、何とか。レジなんで立ってるだけですから」

 練習の後はこれから近くのファミレスでミーティングだという打川さんたちと別れ、バイトまで少し時間があって腹も減っているのでスーパーの最寄り駅まで行って駅前のマックに入った。セットを頼んで夕日の射す窓際の席に座り、ハンバーガーを食べながら窓の外を眺めながらこの中で何人が帰りにスーパーに寄って帰るんだろうかと憂鬱なことを考えていると、ふと思いも寄らないものが目に入った。

 店のすぐ前の道は交差点になっていて、丁度目の前が信号になっている。そこで信号待ちをしている中の一人に見覚えがあった。顔は角度のせいでよく見えないものの、猫背気味に立っている小柄で薄っぺらい体格とボサボサの黒髪は間違いなく高橋だ。青灰色の長袖のカーディガンに黒っぽいパンツ一枚という今日の気温にしては暑苦しい格好をしている。動いた後とはいえ、こっちはTシャツ一枚に裾を巻き上げたパンツでも暑いくらいなのに。そのうち信号が青に変わり、高橋が交差点の向こうに見えなくなったところで、高橋が長袖を着ていた理由は殴った痕を隠すためかも知れないと思い至った。俺が高橋を殴ることを日常の外に置いているのと同じに、高橋が受けた暴力もあっちの日常には及ばないのだという妙な感覚でいたが、当然そんなことは有り得ない。一番最後に呼び出したのは木曜だったから、その時殴る蹴るした部分はまだ痣が残っているはずだった。

 高橋は何度呼び出をなぜか拒まないのだ。それどころか殴っている最中にも抵抗ひとつしないし、嫌だとか止めろとかと口に出したことすらない。俺があいつを呼び出して殴っている間は俺も話さないし高橋も声を上げないから、あのトイレにはいつもただ殴る音と息の音だけしかなかった。今まで考えたこともなかったが、俺にとっちゃ都合がいいとはいえ、無抵抗で殴られるままの高橋も高橋で変なんじゃないだろうか。


 その後は店で適当に時間を潰しバイトに行ったのだが、自転車を漕いで店の裏口に向かう途中、店の表の自動ドアからエコバッグを提げた高橋が出てくるのが見えた。駅前から徒歩で来ているということは、実は俺の家とそう離れていない所に住んでいるのかも知れない。この辺りに住んでいるならスーパーはここが一番近いだろうし、学校だって同じ路線を使っているはずなのに、今まで店でも駅でも会ったことがないのは不思議だった。高橋は俺に気付くことなく、重い荷物を提げて俺が来たのと同じ道を歩いて行った。









「……ぅ、っぐ」

 思い切り拳を埋め込むと、高橋は腹を押さえて体を折り曲げた。やはり高橋は呻き声を漏らすことはあっても言葉を発することはせず、抵抗らしい抵抗もしなかった。理由は分からないし興味もないが気楽でいい。

 最近、高橋を呼び出す回数が増えていた。

 修学旅行のために無理して詰め込んだバイトと期末の勉強、更に合間を縫って理彩へのフォローと俺自身精神的に大分追い詰められている自覚はあって、高橋を殴る行為は唯一の発散方法と言っても過言ではない。半ば依存しているといってもいいくらいで、最早到底止められそうになかった。単純に体が空かないということを抜きにしても何となく気が乗らず、友達の誘いも断りがちだし、理彩とも最近はあまり出掛けられていない。夜にラインをしたり放課後少し話すのが精一杯だった。疲れた体に調子のいい笑みを貼り付けるのも億劫で、他人と接する機会を避けがちになっていた。その都度なるべく繕ってはいても実際問題俺は付き合いが悪くなっている訳で、その内心を悟られているのではという焦りがより一層精神を消耗する。

「……、ぃ、……ふっ、う」

 高橋は目を閉じ、歯を食い縛って俺の与える痛みに耐えている。つい一昨日にも同じ場所を思い切り蹴り上げたばかりだから、きっと痣になっているだろう。骨に響かない程度に力加減はしているが、こう頻繁に同じ所を痛めつけられていれば苦しいに違いない。こいつの身体に俺の爪先や拳が当たる度に、青黒く変色した皮膚が感じるだろう強い痛みを想像する。

 気の済むまで高橋に暴力を振るうとシャツの下がうっすら汗ばんでいた。西向きの特別教室棟のトイレは放課後になると日が射して暑いくらいだ。バイトの前に一旦家に戻ってシャワーを浴びる時間があるだろうか。個室を出ようと後ろを向いて錠に手を掛けたその時、背後から声が聞こえた。

「……中井くん」

 高橋が話し掛けてくるなんて今までになかったことで、俺は目を見張る。

「……前の時、僕がここを出たら、近くに人がいた。なんか……こっち、見てたから」

「……だから何だってんだよ」

「いや、あの、その子の名前は分からないけど……」

 要領を得ないことをもごもご途切れ途切れに話すので苛立つ。背後でまだ何か言おうとしている素振りがあったが待ってやる義理はない。俺は今度こそ個室を出て、トイレから立ち去った。



 教室に戻ると理彩がいた。部活のはずなのに制服姿で、俺の机に座ってスマホを弄っている。

「あれ、どうした? 部活は?」

「今日ミーティングだったんだ。期末前で明日から部活ないの。んで、潤の鞄あったからまだいるのかなと思って」

「ああ。バイトの前に図書室行こうかと思って。期末勉強」

「そっかあ。私も勉強しないとなあ。潤、教えてよ」

「何言ってんだよ。理彩の方が成績いいじゃん」

「数学は潤の方がいいじゃん。潤は数学Aコースだけど、私Bだもん」

「まあな。でもやるなら今度の休みかな。バイトの前とか」

「期末前なのにバイト?」

「三日前まではシフト入れてるんだ。土日は時間長く入れるし」

「ふうん。でも土日は私が塾あるからだめだね。残念」

「マジで。でもしょうがないな。俺そろそろバイト行くけど、途中まで一緒に帰るか?」

「ううん、これからバレー部のみんなとミスドで勉強するから。ちょっとでも話せたらいいなって思って待ってただけなの」

「そうか。頑張れよ。じゃ、夜にでもラインするから」

「うん、潤もバイト頑張って。無理しないでね」

 理彩と別れバイトに向かう。期末が終わって夏休みに入れば学校がない分少しは時間ができるだろうから、理彩とどこかに行こう。去年の夏はお化け屋敷に目当てにテーマパークへ行った。何時間も並んだが、付き合いたてでちょっとぎこちなかった頃だったから、お互いについて色々話すきっかけができて楽しかった。その日は閉園まで一緒にいて、遊び疲れた理彩が帰りの電車で寝てしまったんだったと思い出すと笑みが零れ、少しだけ以前の気楽な頃の自分に戻れたような気がした。





 期末が終わるといよいよ夏休みが目前に迫る。ここ最近断りがちだった友達の誘いに乗じたり、打川さんのフットサルに理彩とまた一緒に行くのもいいかも知れないと思っていたが、残高を確認した結果単発のバイトをいくつか入れることにしていたので難しいかも知れない。そしてバイトの合間や寝る間を惜しんで勉強した期末の結果は今までより僅かに下がった程度で、誰かに何かあったかと問いただされるほどの襤褸は出さずに済み、これで何とか一学期を無事に終えられると胸を撫で下ろす。夏休みは思ったより忙しいものになってしまうだろうが、修学旅行への計画はひとまず順調と言えた。


そう安堵した矢先、一学期最後の週のある晩にそれは突然訪れた。



 その日バイトを終えて家路を急いでいた俺は、家のある通りに入った所で目を疑った。リビングの窓が明るい。単なる消し忘れかも知れないと鼓動を宥めつつ家に近づく。そして長い間空だった車庫に収まっている見慣れた黒のハリアーが目に入り、その予想は裏切られた。父親の車だった。ナンバーも間違いない。

 疑問が渦巻く思考を抑えながら自転車を停めてドアに鍵を差し込んで回すと、手応えに違和感があった。鍵が開いている。中に入るとリビングから光とテレビの音が漏れていて、そこに父親がいるのだと分かった。久し振りに感じる人の気配はむしろ落ち着かず、緊張と共にドアノブを掴む。

「ああ、帰ったか。遅いな」

 ソファに座ってテレビを見ている父親は特に変化はなく、約半年の時間を感じるのは見覚えのないシャツと、切ったばかりなのかこざっぱりした髪型くらいだった。

「久しぶりだなあ、潤。一人だからって夜遊びは程々にしとけよ」

「…………」

 言葉が出ない。俺たちの間に何の隔たりもないような態度で片手を上げる父親に、なんて返したらいいのか分からなかった。怒りが目の前を赤く染める。思い切り手を握り絞めたのを、手の平に爪が食い込む痛みで自覚した。冷静になれと何度も唱える。今の俺の生殺与奪を握っているのはこのろくでもない父親だ。

「……何か用」

 自制心を総動員した結果、俺の口から出たのは最低限の文章だけだった。無駄に言葉を重ねると言う必要のないことまで言ってしまいそうだったのだ。父親は俺の声の硬さに僅かに眉を上げたが何も言わず、ソファの空いた場所を指した。

「まあいい、座りなさい」

 薄々分かってはいたことだが、その声音で父親が単なる気まぐれでここに来たのではないことを悟る。これまで想像していた様々な最悪のパターンを思い描きながら床に鞄を置き、示された場所に腰を下ろす。

 父親がリモコンを取ってテレビの音量を下げ、急に部屋の静けさの密度が増す。

「今日は話があってな」

「そう」

 そんなのは分かっている。父親の顔を見られなくて、囁き程度のボリュームで何か喋っているテレビにじっと目を向けていた。

「まず、母さんとの離婚が正式に決まった」

 あまり驚かない。そもそもまだ離婚していなかったのかという感想しか出て来ない報告だ。何も知らない俺はてっきり、離婚したから二人して出て行ったんだと思っていた。

「そして、元々俺の名義だったここも正式に俺の物になった。まあ元々俺の親の家があった土地に俺の金で建てた家だしな。それで、お前には悪いが、お前をここに置いておけなくなった」

 その言葉を聞いた一瞬、比喩でなく視界が真っ白になった。しかし染みついた仮面のお蔭で咄嗟に動揺を抑え込み、努めて平静を装うことができる。俺は何も問題なんてないごく普通の中井潤だという顔。

「……それってつまり、どういう意味」

「お前にここを出て行ってもらいたいってことだ。急な話で悪いが、できるだけ早いに越したことはない。もうすぐ夏休みだろ。その間にアパートを探せばいい。高校を出るまでの家賃と学費くらいは面倒見てやる」

「…………」

 一度だけ、深く呼吸する必要があった。音を立てず胸も膨らまないようにこっそり酸素を取り込み、赤く染まる視界を冷ましてやる。

「ああ、急だね、本当に」

 父親から死角になったソファの陰、握り締めた拳の中で爪と手の平がどうなっているのか、酷くなった痛みで想像が付く。父親はそれを察しているのかそうでないのか、一体どうなっているのか分かりやしない俺の顔を表情ひとつ変えることなく見つめていた。

「お前には悪いと思っているが、実は近々再婚するんだ。そろそろ子供も産まれるし、アパートじゃ手狭になってきたもんだからさ。まあ、部屋の目星が付いたら連絡してくれ。手続きは俺がやってやるから」

 父親は少しの間こちらの出方を待っていたようだが、俺が返事一つ返すつもりがないと見るとさっさと立ち上がってリビングを出て行った。エンジン音が遠ざかってどれくらい経ったのか、しばらくしてようやく握り締めた手を解くと、四つ分の爪痕に血が滲んでいた。怒りで強張った筋肉の緊張を少しずつ解いていくと、ようやくまともな呼吸を取り戻すことができる。酸素を意識して数回呼吸をした。


 俺を何だと思ってるんだ。


 あまりの理不尽さに感情が昂ぶってどうしようもなかった。俺を何だと思ってるんだ。どいつもこいつも。この半年、残された俺がどれだけ苦労してきたと思ってる。それを簡単に出て行けだの、高校までは面倒見てやるだの、まるで義務を果たしているみたいな顔で言うのだ。そもそも自分が作った自分の子供の面倒を見るのは当然で、それを自分の都合で勝手に投げ出したのはそっちのくせにどうしてそんな恩着せがましい言い方されなきゃならないんだ。俺は関係ない。ただ巻き込まれただけだ。


 その日はどうやって寝たかあまり覚えていない。ベッドの中で何度もマットレスを叩いているうちに疲れて寝たんだと思う。朝、リビングに下りると目の前に箱が破れて中身が飛び出したティッシュが落ちていた。手当たり次第物を投げまくった痕跡に身に覚えがない訳ではないが、テレビのリモコンから重たいリュックまでぶん投げて中身をぶちまけたのは我ながら勘弁して欲しかった。中身を拾い集める間、この世のものとは思えないくらい惨めだったから。

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【文フリ札幌・テキレボ7サンプル】can't stop want you 犀川ゆう子 @poltmine

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