3-6:侵入者

 言われて耳を澄ませた。だが彼女の耳にはそのような声は聞こえてこなかった。



 代わりにまったく別の異常を感じ取る。イシアは耳ではなく、鼻でそれを捉えていた。



「微かに甘い匂いがする。マクリエ、こっち。隠れて」


「え? なに? どしたの」


「誰か来る。たぶん、オリズイートを持った誰か――」



 荷台の陰に隠れ、イシアがそうつぶやいたときである。



 近くの林から音もなく一人の男が姿を現した。



 中背中肉の特徴のない体付き、手にしているのはおそらく長剣だ。だがそれ以上は暗くてよく見えない。



 彼の姿を視界に捉えるためにイシアは目を細め、マクリエは何度も目を擦った。


 何かが変だ――そう思ったイシアは、すぐに違和感の正体に気づいた。



 松明に照らされているにも関わらず彼の姿が時折霞に覆われたように薄れ、見えなくなるのだ。まるで風に煽られ消えかけている蝋燭のように不規則な明滅を繰り返している。



「隠密魔法ね、あれ。きっと元は高度なものなのだろうけど、不完全みたい。道理で足音がしないのに匂いを感じると――」


「やっぱあいつ、何か唱えてる」



 珍しくイシアの言葉を遮ってマクリエがつぶやく。彼女の言葉に従い、イシアはさらに集中して耳をそばだてるが、やはり彼女にはせせらぎのような梢の音と遠くで談笑する騎士たちの声しか聞こえなかった。



 ただ口元をよく観察するとかろうじて細かく動いている様子がわかる。それを見たイシアはさらに眉をしかめる。



 ――あの男、どこかで見たような。



 記憶を探る。そんなに前のことではない。つい最近のはず……そう考えている内に、男はイシアたちが潜む馬車の傍らをゆっくりと通り過ぎていく。



 男は眼の焦点が定まっておらず、口から唾液、肌からは大量の汗を垂れ流しながら覚束ない足取りで歩いている。まるで糸で吊るされた人形のようなぎこちない動き。その上気配も足音もないとくれば、人間と言うより亡霊に近かった。



 目の前で男の姿を確認し、ようやくイシアは記憶と合致する人物に思い至る。



「そうだ、あのときの覗き商人。どうしてこんなところに」



 イシアが慎重に男を観察し続けていると、不意にマクリエがつぶやいた。



「なんじなみだわれにささげわがしんおんへふく……」



 その不思議な言葉の羅列にイシアはマクリエを見る。



「それがあの男が言っていた詠唱? 聞いたことがないわね」


「うん。そもそも何を言っているのかさっぱりわからない。でもマクにはそう聞こえた」



 囁き合う二人。彼女らの目の前で、やがて男は唐突に姿を消した。おそらく隠密魔法が完全に作用したのだろう。



 視覚でも聴覚でも嗅覚でも、もう彼らの痕跡を辿ることはできなかった。



「イシア、追いかけよう。きっとまだ遠くまでは行ってないよ」


「ちょっと待って。あの男はオリズイートを持ってるのよ。不覚を取って私の二の舞になっちゃ駄目なんだからね」


「それでも行くの!」



 マクリエがイシアに対してこのような態度を取ることは、本当に珍しかった。



 妹分の真意が理解できないままイシアは荷台から離れる。マクリエとともに商人を追う一方でヴァーテの姿も探したが、見つからない。



 代わりに待っていたのは、彼女らが予想もしなかった深刻な事態だった。







 深夜の突入に備え天幕の中で仮眠を取っていたカラヴァンは、物音と気配を感じて目を覚ました。辺りをうかがう。



 ――やあっ!



 天幕の外から気魄の声が聞こえてきた。



 次いで金属が空気を切る音と、血肉が弾ける音が続く。



 断続的な争いの響きを耳にしたカラヴァンはすぐさま起き上がった。枕元の剣を取ったとき、彼は周辺の環境にも異変が起きていることに気づく。



 天幕の周囲を煌々と照らしていた松明のほとんどが消えてしまっている。



 灯りは落とさぬよう、部下に厳命してあったにも関わらずだ。



 そのとき天幕の入口が捲り上げられ、騎士の一人が入ってくる。「何事だ」と詰問する前に、騎士が口を開く。



「カ……ンさま……お逃げ……を……」



 次の瞬間。



 騎士の体の正中線を、白刃が引き裂いた。



 鉈で枯れ木を割くような音が響く。あれは肉を斬った音ではない。骨が微塵に砕けた音だ。



 騎士としての本能で剣の柄に手を当てたとき、濃密な血の匂いが天幕の中にあふれた。間欠泉のように吹き出た騎士の血液が、壁と言わず床と言わず辺り一面を朱に染め上げる。



 カラヴァンの頬にかかった血は、粘性を持ってあごを伝い、地面に落ちる。水溜まりに跳ねる音がした。



 カラヴァンは剣を抜けなかった。



 その目が更に衝撃的なものを捉えたからだ。



 騎士を粉砕した侵入者には、



 右腕もなかった。



 左の首筋から右脇腹へ、見事な剣筋で切り捨てられた痕が、薄暗闇の中で判別できた。



 なのに奴は動いている。そして左手一本で、精鋭と言われる騎士のひとりを叩き潰した。



 相当な量の返り血を浴びているのか、布切れ同然になっている漆黒の外套がいとうから絶えることなく血が滴っている。



 カラヴァンは目を剥き、我知らずつぶやいた。



「貴様。まさか、密絡か」



 カラヴァンが一歩下がる。



 侵入者はすぐには襲いかからず、その場にひざまずく。自らが殺した騎士の耳に手を伸ばし、主を失って輝きが薄れた晶籍を無理矢理引き剥がす。



 そして、それを――



「な、にっ……!」



 



 より正確には、断面も生々しい自らの首の奥に、素手で埋め込んだ。侵入者の体からひどく湿った音がする。



 奇妙に甘ったるい臭いがカラヴァンの鼻腔びこうを突いた。



 自分の体を麻袋か何かにしか思っていないような、いや、そもそも生物としての自覚がないかのような、信じ難い行為。それがカラヴァンの目の前で行われた。さすがの彼も胃に不快感を覚える。



 カラヴァンは剣を抜き、短く鋭い呼気とともに振るう。――天幕の壁に向けて。



 布を引き裂いたことで口を開けた外部への道にカラヴァンは迷うことなく飛び込んだ。



 後ろから追ってくる気配を感じ、振り向きざまに魔法をぶつける。



「――我が敵を焼き撃て――!」



 火球がはしり、相手の足元に直撃する。



 さらにもう一発。ギアシ駐屯地の最高指揮官の魔法は、追っ手の右足と腹のど真ん中を撃ち抜いた。



 そのとき、カラヴァンは気づいた。自分が攻撃した相手は侵入者の密絡ではなく、たった今絶命した己の部下だということに。



 脳天から鳩尾まで割かれた状態で立ち上がる姿は、もはや悪夢の所行だった。



 足裏が外の砂利を踏みしめる。その確かな感覚を受けて、ようやく自分が大量の汗を浮かべていることに気づいた。



「おい! 誰かいないか!」



 大声で呼ぶ。本能が急げと告げていた。



 目だけで周囲を見ると、無事に灯りを灯している松明が数本しか残っていなかった。



 地面の上にはおびただしい量の血が溜まっている。



「誰か!」



 もう一度、叫ぶ。すると。



「司令!」「ご無事ですか!」



 部下の声が数人、返ってきた。



 足音が近づき、やがて十人前後の騎士が武器を携えて姿を現す。どうやら全滅は免れたようだ。



 いいぞ、ギアシの精鋭どもめ。この得体の知れない状況でよく生き残った――汗ばみ、緊張に全身を強張らせながらも、カラヴァンはにやりと笑みを浮かべた。



 部下に向かって腹の底から声を張り上げる。



「急ぎ態勢を立て直す! 生き残った者を集め、私に付いて来」



 だが、言葉は続かなかった。



 精鋭騎士たるカラヴァンにもその気配を悟らせることなく、滑るように天幕の陰から出てきた黒外套の男が、血に濡れた剣を振り下ろす。



 ギアシ駐屯地司令官カラヴァンは、反撃の狼煙のろしを上げよと高らかに叫んだ表情のまま、首をね飛ばされて息絶えた。



 首のない侵入者の体は、次なる獲物を求めてぬるりと動く。


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