2-21:機は、熟した

 リザの、晶籍。



 今でも思い出すことができる、水面に虹を映したように輝いていた美しい結晶。



 あの紛争の最中、なぜ私の晶籍は黒くならないのか、いっそそうなれば外せるものをと苛立たしげに耳を引っかいていたリザの姿が脳裏によみがえる。



 瞠目どうもくしたエゼルの表情を楽しむかのように、カラヴァンはたっぷり間を置いて語り出す。



「密絡どもの情報を総合した結果だ。間違いはない。そしてここからが本題だ。実は先だってより盗賊たちを援助している組織を一掃するため、近隣都市の高位騎士たちが集まって話し合いを続けていてな。協議の結果、例の地下組織に対しこの度都市トリアの枠を越えた精鋭部隊が組織されることになった。『月環の旗』と呼称する。もちろん我がギアシ駐屯地からも兵を出す。エゼル、君にはこの精鋭部隊と合流し、そして確実に事態の収拾を図って欲しい」


「どの都市よりも?」


「わからないかね?」



 カラヴァンは笑みを深めた。



此度こたびの晶籍に関する情報、それを知っているのは現段階で我々だけだ。いざ作戦が始まれば自然に明るみに出ることだろうが、それまでは我々だけが最も有効な手を打つことができる」



 ――すなわち、他都市を出し抜く絶好の好機になる。



 口にはされなかったカラヴァンの意図をエゼルは感じ取った。思わず机を叩く。



「六年前の紛争を知っているのなら、あの女がどれだけ危険な存在か理解しているはずでしょう!」


「だからこそ、知れ渡ったときの反応は大きい。上手くすれば他の部隊が地に足着かない状態の中で、我らギアシ騎士が華々しい戦果を上げることができるだろう」



 エゼルは唇を噛んだ。



「司令、それは愚かな選択だと思います。いえ、この際だ。はっきり言わせてもらいます。何を馬鹿なことを言ってるんだ、あんたは!」


「馬鹿?」



 ぴくりとカラヴァンの眉が動く。エゼルは駐屯地司令の眼光を真正面から受け止めた。



 睨み合いが続いた。



「確かに、君の気持ちも理解はできる」



 やがてカラヴァンが肩の力を抜いて言う。



「だが、これはギアシ・トリアにとって必要なことだ。主導権を握れるか否か、それはギアシ騎士の長である私が考えるべきこと。私はその職責を全うしているに過ぎん。それに、だ。いくら私が君の流儀に反するやり方で隊を動かしたとしても、君のやることは変わらない。そうだろ?」



 エゼルは言葉に詰まった。



「おそらく敵は生半なまなかな相手ではない。この状態で君が際立った戦果を上げれば、我がギアシは近隣都市の中で主導権を握れる。それは君にとっても大いに利するところがあると思っている」



 エゼルとカラヴァンの視線がぶつかり合う。ややあって、エゼルは頷いた。



「わかりました。どのような事情があるにせよ、今回の件、私としてはとうてい無視はできません」


「頼まれてくれるか」


「はい。ただし、条件が」



 カラヴァンが眉をひそめる。エゼルは言った。



「私が敵の首領を打ち倒しリザの脅威を払拭するまで、部隊は一切動かさず守りに徹して頂きたい」


「何だと」


「リザの晶籍が関係する以上、無用の犠牲はできるだけ避けたい。際立った戦果を上げて他都市に見せつけるだけなら、私が全てを打ち倒せばそれで済む話です。違いますか?」



 カラヴァンは首を横に振った。



「君は罪従者だ。君だけがどれだけ優れた戦功を上げようと誰も認めない。部隊と一体となって動いてこそ、意味があるのだ。付け加えれば、罪従者である君が我らに逆らえばどうなるか、それは理解しているな」


生憎あいにくですが、私は自分の信念を曲げるつもりはありません。その上で、これが一番犠牲の少ない方法だと申し上げているのです。それが駄目なら、ギアシだけで功を立てるという目論見もくろみは諦めて下さい」



 エゼルとカラヴァンの視線が交錯する。流輪の光も乏しい闇夜の中、両者が発する緊張感で空気が軋んだ。



 やがて先に視線を外したのはカラヴァンの方だった。



「まあいい。この件は当日まで保留だ。さすがに現場の状況も見ない内から、部隊を動かさないという決定はできん」


「賢明なご判断を願います」


「口やかましさは噂以上だったな。もういい、下がれ」



 エゼルは立ち上がり、騎士の礼を取った。






「おい、貴様。どういうつもりだ」



 エゼルが屋上から辞してしばらくの後。



 七人の密絡の先頭にいる男にカラヴァンは恫喝どうかつの声を上げた。全身を黒ずくめで覆ったその男はひざまずいた姿勢のまま小さくつぶやく。



「あの男に伝えた情報は慎重に取り扱うべきもの。使いどころを誤れば厄災の元になる。だからご忠告申し上げた。どうやらご気分を害されたようだが」



 不遜ふそんな口調だった。とてもギアシ駐屯地司令に対する態度ではない。



 だがカラヴァンは男の態度それ自体には違和感を覚えなかったようだ。ただ、鼻で笑う。



「そんな殊勝な感情が貴様にあるとは到底思えん。貴様が言う厄災とやらがどの程度のものなのか、今ここで説明してもらいたいものだな」



 男は黙り込んだ。



「まあよい。そうは言ってもお前たちの功は大きい。此度の件、ご苦労だった」


「勿体ないお言葉。して、貴官はどうする? ここでのうのうと戦果を待つおつもりか?」


「いや。こうなれば私が出向くより他あるまい。私がその場に居れば、あの男が先走ることは防げるはずだ」



 そして、黒ずくめに向かってこう吐き捨てる。



「その不遜な態度、いずれ改めてもらうぞ。貴様らを拾ったのは誰か、ここまで手助けしてやったのは誰か。今一度胸に刻み込むことだな。黒く染まった汚らわしい奴らめ」



 そして彼は屋上を立ち去った。



 残された七人の密絡は、しばらく身じろぎもせずにじっとしていた。流輪の灯りも乏しい屋上に身を寄せ合う彼らの姿は、まるで一個の岩塊のように無機質だった。



 やがて一人が堪りかねたように口を開く。



「……権力の亡者め。貴様のような奴こそ、消えてしまえばいい」



 歯を食いしばり、体を震わせる。その拍子に耳の晶籍がわずかに揺れた。



 いびつな楕円形をした晶籍だった。黒い塗料の下にはわずかに蒼の色が覗き、闇に溶けている。



 今にも叫び出しそうな男を、黒ずくめが制した。



「ポルトのが終わるまでの辛抱だ。それより問題はの方だが、確か最初に接触したのはお前だったな」



 黒ずくめの問いかけに、男は全身の緊張をやや緩めた。



「……はい。この目で確かめました。間違いなく我らの元にいた娘です。とは驚きましたが」


「その娘を使う。ならば、十分『使える』はずだ」



 黒ずくめがその鋭い眼光で仲間を射貫く。



「手はず通り、お前たちは先にポルトへ赴き、準備に入れ。地下闘技場に残る奴らはすべて処分して構わん」


「御意」


「オリズイートは最も純度の高いものを使う。を考えれば、これは絶対だ。万一の失敗も許されんぞ。いいな」



 仲間の一人が頷く。黒ずくめは静かに胸に手を当て、肌身離さず身につけている『それ』を漆黒の衣服の上からゆっくりと撫でた。



「全てはあの方の理想の元に。長かった抑圧の日々は、我らの王は、ポルトで解放される。――機は、熟した」


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