2-18:ヴァーテの自己嫌悪


 ――その声を聞いたのは、昼食として出された麺麭パンをじっと眺めているときだった。



『おい。聞こえるか。マクリエ、イシア、ヴァーテ』



 頭に直接響くその声は、まぎれもなくエゼルのものだった。



 岩盤をくり抜いただけの狭くて寒々しい地下牢の片隅に膝を抱え、自らの黒髪で体を覆うようにして闇に紛れていたヴァーテは、ゆっくりと顔を上げた。



『もうすぐそこを出られるぞ。あと少しの辛抱だ』



 思念伝達魔法イシャデだ、とヴァーテはすぐに理解した。



 耳を澄ませると、地下の廊下を伝って誰かの叫び声が聞こえてくる。ここ何日か途絶えていたマクリエのものだ。



 ずっと大人しかった彼女のことをヴァーテは秘かに心配していたのだが、エゼルの声を聞いて復活したらしい。


 

 きっとイシアも普段の表情を取り戻していることだろう。



 ヴァーテは膝に顔を埋めた。無性にマクリエとイシアに逢いたくなった。



 底抜けに明るいマクリエの声と笑顔に触れたい。



 時折毒を吐きながらもしっかり面倒を見てくれるイシアの微笑みが見たい。



 そうすれば、



 初めて彼女らと出逢ったとき、に震える自分を何の躊躇ためらいもなく受け入れてくれたまばゆいばかりの温かさが、今は恋しくて仕方なかった。



 不意に体が震えてきた。



 最初にここに来た日、ほとんど灯りのないこの牢獄にひとり閉じ込められ、看守の視線すら感じなくなったとき、自分の体に襲いかかってきた猛烈なさむ。それが再び牙をいてきた。



「嫌い。私。私が、嫌い」



 指を噛む。爪が歯に当たってかちかちと鳴った。



 レアッサに受けた体の傷は完治している。彼女は言葉通り十分な治療を施してくれた。



 レアッサとの実力差は明らかである。エゼルたちには告げていないが、ヴァーテは自分の素質を『器用貧乏』と決めつけているため、魔法運用で上を行かれれば為す術がないと考えていた。



 所詮しょせん、自分程度ではレアッサに勝てない。



 諦めの気持ちと、恐れる気持ち、その二つの感情に苛まれて動けない自分。



 虫も入らない狭く暗く寒い監獄の片隅で縮こまる様が、何とも似合いだと思えた。



 なぜなら、自分は――



「おい」



 顔を上げる。



 松明を持った騎士が二人、牢の前に立っていた。明るさに目を細める。こんな目立つ人間が側に来たことにさえ気づかないほど、自分の世界に没入していたのだと悟る。



 騎士の一人が牢の鍵を開けた。



「お前たち『メヘロの鉤爪』への処分が決定した。出ろ」



 騎士たちは表情を一切変えない。ヴァーテもまた無表情のまま彼らの後について歩いた。



「あっ、ヴァーテ!」



 木製の扉を開け地上に出た途端、聞き慣れた声が耳に届く。直後、柔らかな体に抱きかかえられた。



「ああ良かった! 元気そうだ。何かひどいことされなかった?」


「大丈夫。退屈で死にそうだっただけ」


「そっかそっか」



 にかっと笑ったマクリエが、ヴァーテの頭をぐりぐりと撫でる。



 目の下にわずかなくまができていたが、非常に機嫌は良さそうだった。



 よく見ると髪から金色の房が消えている。おそらく、牢にいる間に無理矢理染めさせられたのだろう。



 碧髪へきはつに金色の房という変わった髪型は、かつて世間を震撼させた『僭王せんおうリザ』と同じである。



 騎士の中にはいまだにリザに対して敵愾心てきがいしんを抱く者もいるというから、そうした連中を刺激しないための配慮なのかもしれない。



 だがヴァーテは面白くなかった。



 次いでイシアも側にやってくる。



 杖を与えられていたが、それに頼ることなく歩いていた。オリズイートの影響はとりあえず治まっているらしい。



「薬、もらってる?」


「ええ。さすがに市販の廉価品れんかひんとは質が違うわね。体調は良いわ。もうほとんど快復しているぐらいよ」



 こちらはにこりと上品に笑う。



 そしてふと、彼女はヴァーテの耳元に顔を寄せた。



「大丈夫?」



 と、それだけを聞いてくる。



 別に内緒話にするような内容でもないのに、イシアはとても慎重に言葉を選んだようだった。



 ヴァーテは無言のまま頷きを返した。それ以上答えようがなかった。



 ヴァーテたちが通された部屋は騎士たちの会議室として使われている場所だった。声が外に漏れないようにするためか窓もなく、非常に息苦しい。



 数人の見張りが背後に立ち、ヴァーテたちを座らせた。



 直後、ひとりの女が部屋に入ってくる。黄金色の髪と澄ました顔は、忘れようと思っても忘れられるものではない。



「あ、あんたっ! あのときの女――ぶっ!」



 立ち上がって指を突きつけたマクリエを、すかさず見張りが取り押さえる。硬く大きな長机に上半身を押し付けられ、彼女はもがいた。



 騒ぎを無視して、女騎士はヴァーテたちから最も遠い椅子に座った。十数日前に見た時とまったく同じ格好である。



「気分はどうだ、お前たち」


「最悪よ。せっかく皆と会えて気分良くしてたのに、あんたの顔で台無しだわ」


「だろうな。私も同じだ」



 切れ長の双眸そうぼうがヴァーテたちを見据える。まるで抜き身の長剣のようだ。



 実力の違いを見せつけられた後なだけに、にらまれるだけでどこかが斬られたような錯覚を抱く。



「お前たちの処遇が決まった。今からそれを伝える。おい」



 レアッサが合図をすると、控えていた騎士たちがヴァーテたちの前に一枚の紙を置いた。



 獣の皮を乾燥させたものでも、樹木を削ったものでもない、本物のき紙。それも、あらかじめ色と模様と匂いまで付けた正真正銘の貴重品である。



 対月生まれの役人か、展月生まれのおおだな商人ぐらいしか縁のない代物だ。



 マクリエは珍しそうに紙を眺めていたが、すぐに飽きて机の上に放り投げた。



 彼女は文字を満足に読むことができない。値札や地図程度ならともかく、こうした形式張った文章は何が書いてあるのかさっぱりのはずだ。



「これって辞令? 罪従者に……三年間!?」



 ふと、イシアが驚きの声を上げた。内容を読み取ったのだろう。



 彼女は時折、こうした教養のあるところを見せる。



「そうだ。今日より三年間、お前たちには罪従者としてここで働いてもらう。私の下で、な」


「はぁ!? あ、あんたのところで!? 冗談じゃないわ!」



 マクリエが再びいきり立った。その横でイシアが眉間に皺を寄せながら辞令を読み返している。



 内容に納得いかないのだろうが、紙は紛れもなく本物だし、ギアシ駐屯地司令の署名もあれば騎士団の刻印がされた赤粘土の添付もあり、正式な辞令としての体裁は整えられている。



 博識なヴァーテだからこそ、この辞令の内容はどうやっても覆せそうにないことがわかった。ため息が出そうだった。



「お前たちは今回のみならず、各地で罪を犯してきた。その罪の内容とお前たち個々人の力量を勘案した結果、此度の裁定が下されることとなった。なお服役中に従事する任務とその内容については私の裁量に委ねられる旨、あらかじめ司令から指示を受けている」


「訳の分かんないことを」


「では分かりやすく言ってやろう。私に逆らえばその首をねる。りゅうりんを見上げる余裕も持てないほど徹底的にこき使ってやろう。覚悟することだ」



 そう言い放つと、レアッサは席を立った。同時に控えていた騎士たちが背後に近づき、ヴァーテたちを無理矢理立たせる。



「ちょっと待ちなさいよ。エゼルの馬鹿はどうしたの!?」



 マクリエが声を上げた。扉に手をかけていたレアッサは顔だけで振り返る。



「貴様らが下僕とさげすんだ方は、今は別の任務についている。逢いたければ任務を愚直にこなすことだ。あの方が戻られたとき、すでにむくろになっていては意味がないからな」


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