2-10:黙っていなくならないで

 ああ、変わってないな――エゼルは微笑んだ。



 自分に厳しく、真面目で、何事も一所懸命に取り組む一方、何かにつけて涙もろく、感情豊かだった彼女の姿が脳裏に浮かぶ。



 聖クラトラス騎士団の騎士レアッサ。まだ自分がエゼアルドと呼ばれていたとき、右腕となって働いてくれた腹心の部下が彼女だった。



「元気そうで良かった。レアッサ」



 懐かしさのあまり、つい昔のように口をきく。レアッサはさらに頭を低くした。すでに泣いているようだ。



「はい……」


「ほら、涙を拭け。部下を持つ騎士が、そのように泣きはらした顔をしては駄目だ。他の者に見られたどうする?」


「はい、はい……っ」



 苦笑する。しばらく彼女の好きにさせていると、やがて気分が落ち着いたのかレアッサは立ち上がった。



「失礼しました、エゼアルド様。せっかくの再会に、見苦しい様をお見せしてしまって」


「気にするな。昔と変わらない姿を見られて、僕――いや、私は嬉しいよ」


「そんな」



 レアッサははにかんだ。籍署の門で見せた凛とした立姿からは想像できない可憐さである。



 だからこそ、けじめはつけないといけないとエゼルは思う。



 表情を引き締めた彼は、今度は自らが床に膝を突いた。



「騎士レアッサ殿。この度は我が言葉に耳を傾けていただき、感謝します。先ほどは無礼な態度を取り、大変失礼いたしました」


「な! お、おやめ下さいエゼアルド様! 私などにそのようなことをされてはいけません!」


「私はエゼアルドという名ではありません。エゼル、と名乗っております」



 レアッサが息を呑む様子がわかった。



 彼女はエゼルが騎士団を抜ける顛末てんまつを知る数少ない人物のひとりだ。



 さとい彼女のこと、エゼルが言葉に秘めた意味は十分に理解してくれるはずであった。



 しかし、レアッサは理解はしても納得はしなかった。



「エゼアルド様……いえ、エゼル様が大志を持って我らの元を離れられたということは、重々承知しております。我々が側にいることが、何らかの障害になるであろうことも。ですが今このときまで、そのように距離を取られることはないではありませんか」


「……」


「あ、あなたに拒絶されてしまったら……私は……私は……っ」



 拳を握りしめ、再び嗚咽を見せる。まるで親に叱られ許しを請う幼子のように、今にもエゼルに抱きつきたい衝動を必死に堪えている様子がわかった。



 彼女の、エゼルに対する想い。騎士団でともに任務に当たっていたときから感じていた、深い思慕の情。



 レアッサが一途に自分を想い続けてくれていることは今もはっきりと伝わってくる。



 エゼルはもう一度、部屋の内装を見た。



 立派な居室だ。騎士団の中でも高位の騎士にあてがわれた場所であることは間違いない。この六年間、レアッサがいかに努力をしてきたかがこの部屋を見ただけでもわかる。



 何より、こうしてエゼルと二人きりになるまで彼女が激情を抑えていたことは大きな成長だと思えた。



 体、心、地位、名声――騎士として誰もが羨むものを、レアッサはひとつずつ着実に手にしている。



 だからこそ。



 自分でも虫酸むしずが走るような台詞を、平然と言ってのけなければならない。



「私は『晶籍なし』のいやしい男です。そのような存在が貴方にとっていかほどの益となりましょうか。どうか、お心を鎮められますよう」



 レアッサの嗚咽がぴたりと止まった。



 殴られることも覚悟したエゼルは、静かにその時を待った。だが、いつまで経っても衝撃は来なかった。



「お立ち下さい」



 彼女は言う。大人しくそれに従うと、レアッサは窓際の椅子へとエゼルを促した。



「理由があってこちらに来られたのでしょう。お話をお伺いします」


「はい」



 向かい合って席に着く。軋みひとつ上げず、椅子は柔らかく背と尻を受け止めた。



 しばらく沈黙が続く。



 レアッサは両手を膝の上に置き、うつむき気味であった。肩が、よく見れば細かく震えていた。



「籍署前で訴えていた通り、私の願いはここに保管してあるジュラトスを譲って頂くこと、ただその一点です」



 我ながらひどい男だと自嘲しながら、エゼルは言った。目の前の女の仕草にまるで気づいていないかのように、己の希望だけを口にする。



 それに対し、レアッサも努めて事務的に答えようとしていた。



「エゼル様。いかにあなたのお言葉であろうと、騎士団に身を置く私が軽々しく国庫の品を持ち出すわけにはいきません」



 目を合わせようとせず、小声でつぶやく。彼女はいまだ上司としてエゼルを敬い、丁寧な口調を崩そうとしない。



「レアッサ殿はギアシに駐屯する騎士の中でも高位の地位にある。あなたの言葉添えがあれば、ことは簡単に済むでしょう」



 敢えて、笑って見せた。



 自らが口にした通り、権力者にすり寄ろうとする所行はまさに『下賤な男』そのものだ。少なくとも『かつての上司と部下』という関係ではない。



 せいぜい下卑げびた笑いに見えるようにエゼルは努力した。



 レアッサの表情が赤らんだ。怒りに肩が震えている。その姿を見たエゼルは、彼女から言質を引き出す機会をうかがいながらも、内心で一言「すまない」とつぶやいていた。



「……誰です」


「え?」


「誰が、あなたにこのような態度を取らせるのです」



 激情をぎりぎりまで押し殺した声だった。エゼルは戸惑う。



 彼女が激しい怒りに燃えているのは間違いない。だが、その矛先はエゼルには向いていなかった。



 レアッサは立ち上がり、エゼルの前で再びひざまずいた。麗しいかんばせがすぐ目と鼻の先に迫る。吐息まで感じることができた。



「エゼル様。どうか騎士団にお戻り下さい。あなたに、そのような演技は似合わない」


「私は今、そのような話をするためにここにいるのではないのですが」


「私は本気です」



 噛み合わない会話。だがレアッサが言葉通りの心持ちであることは肌で感じた。



 エゼルは思い出す。飛びきり優秀な彼女であるが、思い込むと周囲が見えなくなる悪癖がある。まさに今、その状態であった。



「あなたには、あなたにふさわしい活躍の場があります。このようなところで自らを貶める必要などまったくない。皆、あなたの帰りを待っているのです」


「……」


「エゼル様が騎士団に戻られた暁には、私はどんな助力も惜しみません。たとえ了承が得られなくても、私が説得します。説得してみせます。その結果騎士団を追われることになろうとも構いません。いえ、あなたが望むのならこの命だって捨ててもいい。だからどうか、もう一度あなたの雄姿を私にお見せ下さい」



 レアッサは自らの額をエゼルの膝に押し付けた。こいねがう彼女の声は、震えていた。



「お願いします。せめて、黙っていなくならないで、下さい」



 聖クラトラス騎士団随一の女騎士を目の前でかしずかせながら、エゼルは彼女から視線を外し、窓の外を見た。



 厚い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうである。



 ――彼女に、非はないんだよな。




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