2-8:対月生まれのレアッサ


 この日のギアシは曇天であった。



 いつもなら北の空に燦然さんぜんと輝く流輪も、この空模様を前に姿を隠していた。時を知るしるべを見失った人々は、いつもよりずっと静かだ。



「……一雨、来そうだな」



 ゆったりと馬を進めながら、その人物はつぶやいた。



 馬上で背筋を伸ばす姿がひどく絵になる。すっ、と整った鼻梁びりょうに、引き締まった太股、無骨に堅くなったてのひら、そして身にまとった鎧とそこから溢れ出す威圧感が、生粋の騎士としての威厳を見る者に与える。



 だがそれ以上に目を惹くのは、薄弱な陽光の下でも艶めく金色の髪と、女らしい肌の白さ、手足のしなやかさだ。



 見事な手綱さばきで駐屯地に向かう彼女こそ、聖クラトラス騎士団に所属する騎士レアッサ。



 ギアシ駐屯地に籍を置くと同時に、かつての英雄エゼアルドの部隊にならって特別に組織された『ギアシ双爪隊』を率いる人物だ。



 二十六歳にして武術、魔法の双方を高い水準で修め、高潔で人望厚く、しかも部下の扱いが上手い優秀な女騎士。その評価はもっぱら『強く、賢く、美しい』という言葉に尽きる。



 月環満ちるついげつの生まれとしては、ほぼすべての恩恵をその身に授かった才媛さいえんである。



 彼女は首都セントロメシィ・トリアでの出張任務を終え、先ほどギアシに到着したところである。その後ろにはわずか数人の供しかいない。彼女は戦のとき以外、大勢で行動することをあまり好まない性格だった。



天候読てんこうよみどもの予想、外れることもあるのですな」



 部下の一人が言う。天候読とはその名の通り天候を観察し、その推移を予想する者のことを指す。



 レアッサは無反応だった。



 首都での大任を終えて無事帰還したにしては緊張した面持ちに、部下たちは顔を見合わせた。



「いかがなされましたか、レアッサ様」


「いや。時にお前たち、街の様子に何か変わったところはなかったか?」


「は? いえ、特に異常は感じませんが。ギアシからそういった報告もありませんし」


「天候のせいか、むしろいつもより静かですな。実に寂しい」



 気を紛らわせるためか、部下のひとりが軽口を叩く。だがレアッサはにこりともせず、再び空を見上げた。



「天候のせい、か。ならば私の気のせいなのだろうな……そうか」



 珍しく気落ちした様子である。そういえばここに到着する前もどこか落ち着かない様子だったことを思い出し、部下たちは表情を引き締めた。



「レアッサ様。何かご不安があればおっしゃって下さい。我らが全力を挙げてその原因を探りましょう」



 いまやレアッサの力量は聖クラトラス騎士団全体に知れ渡っている。その彼女が「何か気になることがある」と言外に口にしたのだ。



 たとえ自分たちが気づかない些細ささいな変化でも彼女は捉えている可能性がある――供の騎士たちはそう考えていた。



 だがレアッサはかぶりを振った。口元には苦笑まで浮かべている。



「いや。それには及ばない。すまんな、気を遣わせた」



 部下たちはいっせいに頭を下げる。彼女にこう告げられたからには、これ以上自分たちから追及するわけにはいかなかった。



 やがて門が見えてくる。ギアシ駐屯地の巨大な塀をくり抜いた、鉄格子の大門である。



 遠征する騎士たちの出入口として造られたため、幅があり、そして頑強だ。



 門の手前でレアッサたちは揃って馬の足を止めた。黒毛の大型馬は短く一鳴きして主の意に従う。



 門の様子を見て、部下がつぶやく。



「おかしいですな。この時間に戻ることはすでに伝えてあったのですが」



 本来なら往来を管理する門番が必ず立っているはずなのに、今はもぬけの空だ。



 鉄格子こそ閉じられてはいるがかんぬきはかかっておらず、ひどく不用心である。



 と、レアッサたちの姿に気づいた門番の一人が慌てて駆けてきた。



「こ、これはレアッサ様。よくお戻りに」


「たわけ! 自らの持ち場を離れるなどという失態を犯しながら、その態度は何だ! もし不届きな輩が侵入したならば何とするか!」


「も、申し訳ありません!」



 部下である騎士が一喝し、門番が恐縮する。なおも言い募ろうと馬を進めた部下をレアッサは静かに制した。



 顔見知りの門番に向け、彼女は声をかける。



「ローダ。職務にはいつも真面目で誠実なお前らしくないな。何かあったのか?」


「申し訳ありません……。所内で噂になっている男の姿に気を取られておりました」


「噂? 男?」


「はい。その男は『ジュラトスを譲ってくれ』と言って籍署の前に座り込んでいるのです」



 部下が鼻で笑う。



「何だそれは。籍署とて暇ではないのだ。往来の邪魔になるなら、さっさと追い返せばよいだろう」


「それが……騎士シバージョの力を持ってしてもぴくりとも動かせず終いで」



 これにはレアッサを始め、騎士たちも驚いた。『飛月ひげつのシバージョ』と言えば力自慢で名を通す男だったからだ。



「魔法か」


「はい。おそらくファルターテだと思うのですが、かなり高密度に練られている上、近くにいた者の話では、詠唱は定型句ではなかったとのことで」



 次第に熱を帯びていく門番ローダの声。興奮すると詩人のような喋り方をするのがこの男の癖だった。



「何より皆が驚いたのは、この男が晶籍なしの身分にも関わらず、完璧な騎士の礼を取り続けたことです。もう三日間、飲まず食わずで同じ姿勢なんですよ。眼光まったく衰えず、黄金の髪はまるで後光を放つかのように鮮烈、熟達の騎士ですらなかなかあそこまでの空気は出せないということで、皆――」


「待て」



 ふいにレアッサが遮った。馬足を進めローダの眼前まで近づく。彼女は身を乗り出した。



「もう一度、教えてくれ。その男のことを、できるだけ詳しく」


「え、ええ」



 たどたどしい口調で彼は再び説明を始めた。男の外見、使用した魔法とその威力、三日間の経緯、署内での男に対する評価――



 だが、彼がすべてを伝えきる前にレアッサは手綱を振るった。主の意を受け、馬は弾かれたように加速する。



「レ、レアッサ様!?」



 慌てる部下たちを尻目に、彼女は猛烈な勢いで馬を駆った。



 駐屯地内の通路がいかに整備されていると言っても地面には物もあれば往来もある。下手をすれば怪我人が出かねない危険な行為だ。



 馬の巨体が生む重い風に煽られて、何人もの騎士や使用人が肝を冷やす。



 やがて籍署の外門に出る。



 数人の騎士が何事かと振り返り、馬上の人物を認めて慌てて騎士の礼を取った。



 それには応えず、レアッサはまっすぐに門の境を見た。



 そこにはローダの言葉通り、ひとりの男が泰然と礼の姿勢をとっていた。



 騒ぎに気づいたのか、これまでじっと伏せられていた男の顔がレアッサを向く。



 目が、合った。


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